第8話

ユルと橋の上で別れてから二週間後に、私はパリへ発った。



 5区にある語学学校の半年間のコース。


 エージェントが空港まで迎えに来てくれて、学生用の寮に入った。あたりは大学が多くて、学生街として知られている。言葉も耳慣れてきて、なじみのカフェやスーパーができてきて、気が付くとすでに三か月が過ぎていた。



「楽しんでる?」


 時々、私はソナと電話で話す。


「出会いはないの? 出会いは!」


「出会いはいつだってあるよ。ただ、本人がそれを出会いだと思うか思わないかってことよ」


「なによ、理屈っぽいこと言うじゃない。フランスに行ったからって、かぶれすぎじゃない?」


 ソナはくすくすと笑う。


「あと三か月で語学学校も終わるでしょ。帰ってくるの?」


「うーん。49週コースに延長しようかな? わかるようになってきたら、なんかすごく楽しくなってきちゃった」


「あんたみたいに子供の頃に勉強嫌いだった人に限って、大人になってから勉強熱心になるのよね?」


「あはは。そうかもね」



 前だけを向いて生きていけば、自然と物事は肯定的に目に映る。


 新しいことに出会うたびに、新鮮な気持ちになる。


 本当は、時々ふとユルのことを思い出していた。



 彼はどんな毎日を送っているのかな? 私がそうしているみたいに、彼も私のことを時々は思い出してくれているのかな? もう忘れられていても仕方ないけれど、時々は思い出してくれているといいなと思うのは、私の勝手な願望だ。


 彼女はできたかな?


 ユルはそのへんのアイドルやモデルよりもかっこいいから、恋人なんてすぐにできるだろうな。


 仕事は順調かな? 


 なんて……思い始めると、かなり長い時間、彼のことを考えてしまう。



 未練?


 否定はできない。嫌いあって別れたわけではないからかもしれない。それなら、まだ好きでいてもいいかな? なんて、自分を甘やかす。



 週末になると、授業のない日はユルと行った場所を巡った。


 そしてまた、彼のことを思い出す。


 もう、「時々」とは言えないか。彼のことを思い出さない日はなかったから。



 週末。学校の帰り、ポン・ヌフを渡っているときにふと遠くに見えるエッフェル塔に視線が行った。そしてこの橋をユルと渡った時のことをふと思い浮かべた。


「この橋は『新しい橋ポン・ヌフ』って名前なの。でもパリで一番古い橋なのよ」


「へぇ? 一番古いのに、名前が『新しい橋』か。昔、映画あったよね?」


「あれはもっと下流のほうにセットを作って撮影したの」


「ミナ、見てください。あっちにはエッフェル塔が見えます!」



――なんて、そんなことを話したっけ。


 私の口元には、自然と笑みが浮かんだ。そうだ。エッフェル塔。行ってみようかな。


 そんなちょっとした思い付きで、私は16区に向かうバスに飛び乗った。



 イエナ橋はいつも観光客でいっぱいだ。正面にはエッフェル塔がそびえたつ。


「あの……」


 ふいに背後から声をかけられて、心臓がドキリと跳ね上がる。その声が、ユルに似ている気がしたから。いえ、彼のことばかり考えているから、誰の声でも似て聞こえてしまうのかもしれないけど。


「はい?」


 振り返ると、アジア人の若い男性だった。彼は韓国語アクセントの片言の英語で言った。


「写真を撮ってくれますか?」


 よりによってなんで私かというと、観光客が自分のスマホやカメラを渡しても、私はそのままダッシュして逃げていくようには見えないからだろうと思う。一人でぶらついていると、こんな風によく声をかけられるので慣れている。


「いいですよ」


 急いでいるわけでもないので、たいていは応じてあげる。そして再びイエナ橋の上からエッフェル塔を仰ぎ見る。



 その後もスペイン人の一人旅の美女や、北欧系のカップルに同じことを頼まれる。私ってそんなに信用できそうに見えるかな?



 「あのチョ……」


 初夏の空は午後の9時過ぎにやっと暮れなずんでくる。


 ピンクオレンジに染まったエッフェル塔に見とれていると、今度は韓国語で話しかけられた。今度もまた、私の心臓は驚きで跳ね上がった。



「あれは、330メートルでしょう?」


 背後から両肩にそっと手を置かれる。びく、と反射神経が働いて肩が震える。懐かしい声が、今度は日本語で右の肩の上から降ってくる。


「東京タワーと3メートルしか違わないって、前に言ってたでしょう?」


「……」



 あまりにもずっと彼のことを考えていたから、ついに私の頭はおかしくなってしまったのかもしれない。まさか、幻聴? おそるおそる振り返ってみる。


「約束、覚えてるよね?」



 ユル。


 ハン・ユル。


 正真正銘、本物のユルが私の後ろにいる。



「どうして……?」


 茫然としたままつぶやく。彼は頭を搔いて照れくさそうに笑んだ。


「東京で会った時、語学の勉強で海外に行くって言ってたでしょう? あなたはきっと、パリに行くと思ってた。僕は4月から、パリの父の知り合いの会社で働いてるんだ。だからミナはパリにいると信じて、一緒に行ったところを回って探していたんだ」


「うそ」


 まさか、同じことをしていただなんて。


「僕もパリに来ると言わなかったのは、あなたに負担を感じてほしくなかったから。東京で見つけることができたんだから、絶対にパリでもあなたのことを見つけられるって信じてたんだ」


「そんなの、私がパリにいるって保証はなかったじゃない?」


「うん、実は……あなたの友達に聞いたから」


「えっ?」


「ミナが去った後、ソナさんが走ってきて、僕を責めたんだ」


「ええ? ソナが?」



 私がユルと別れて家に帰ると、ソナの姿はなかった。彼女はきっと、途中まで私を迎えに出たか偶然私たちを見かけたかして……そういうことだったのか。


「ミナ」


 今度はユルは韓国語でもう一度訊いてきた。


「約束、覚えてるでしょう?」


「約束……」


 本当に? 


 ユルが日本に来るわけでも、私が韓国に行くわけでもなく。


 どちらも外国に住むなんてパターンは、想像していなかったから……



 ユルはそっと後ろから私を抱きしめた。周りの人たちは暮れなずんだ空の下で、すでにシルエットだけになっている。イエナ橋にはまだまだたくさんの人が行きかっているのに、その瞬間、そこには私とユルしかいなくなってしまったみたいに感じる。


「ほんっとに、会いたかった」


 ユルの言葉が私の右耳に届く。


 私は、私を抱きしめるユルの腕にそっと触れた。


 ふわりと、ベルガモットが香り立つ。


 その懐かしい香気を深く吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。


 ユルの匂い。


 今でも私の胸をぎゅうぎゅうに締め付ける。


 会いたくて、会いたくて、夢に出てきたり、四六時中頭の中を占領したり。


 私のユル。


 忘れることなんて、できなかった。



「覚えてるよ」


 泣きたくはない。久しぶりの再会なのに、ぐしゃぐしゃの顔なんて、見せたくはない。


「愛しています」


 低く落ち着いた声がそう言って、私は息を飲み込んで肩越しに彼を振り返る。


「ユル……」


 私を抱きしめる腕の力が少しきつくなる。少しの苦しさに私は浅く吐息する。


「私も……そうみたい」


「なに、それ?」


 くすっと笑い声が聞こえてくる。私はいとしい捕縛をなんとか緩め、身をよじって後ろを振り返る。そこにはずっとずっと会いたかった人がいる。


「もう会えないかと思ってた」


「僕は絶対に会えると思ってた」


 今度は私がぷ、と笑いをこぼす。ユルの胸に額をつける。彼の鼓動が聞こえる。


「会えるって、確信があったんだね」


「もちろん。僕たちはこの都市で出会ったんだから」


 私は彼を抱きしめた。



 ぱっ。


 エッフェル塔と、その足もとにある回転木馬もライトアップされる。



 22時、ちょうど。


 きらきらとエッフェル塔が点滅し始める。シャンパン・フラッシュ。



 ユルは私にキスすると、私の手を取って歩き始めた。



 この三か月、どこで何をしていたの? 


 歩きながらもう、私たちはもうおしゃべりは止まらなくなった。


 

 





 【Fin】

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