第7話

地上350メートルの天望デッキ。



 長年東京に住んでいるけれど、実は初めて訪れた。



 すごい速さのエレベーターで4階から一気に上がる。


 「あ、東京タワー」


 ラベンダー色に暮れ行く東京の街には、無数の明かりが灯りだしている。ユルは東京タワーを指さしてそう言った。


 ラメのように細かく見えるビルの明かりの中に、すっと佇むオレンジの塔。


「ここもそうなんだけど、私、東京タワーも上ったことないな」


「ええ? 本当に? ここも、今日が初めて?」


「うん、そう。初めて」


「一緒だね。初めて」


「そうね」


 ユルは嬉しそうに口元を引き上げた。


 私たちはまだ、一緒に「初めて」を体験できるのね。




「あれ? なんか騒がしいね」


 ユルは前方を見て首を伸ばした。


「なにかな?」


「うん、みんななんか、拍手してるね。あー。はは。そうか」


「なに?」


 背の高いユルには見えるけれど、私には見えない。


「プロポーズが成功したんだね」


「あぁ……なるほどね」



 会社員風の男性が、OL風の女性に指輪を渡してプロポーズしたらしい。周りの人たちがぱちぱちと拍手と祝福を送っている。


 公開プロポーズなんて……よほどあの女性は愛されているのね。私には完全に他人事だけど。


 ちらりと人ごみの向こうに見えた男性のほうは満足げな笑みを浮かべている。女性のほうは、恥ずかしいのかうつむいている。男性は女性の手を取って歩き始める。彼女の左手の薬指には、今はめられたばかりのダイアモンドが夜景のようにきらめいている。




 私たちは地上445メートルまでやってきた。スロープ状の回廊を歩いていけば、第二展望台にたどり着ける。


 手をつないだまま、ゆっくりとスロープを登ってゆく。


「もしこれが観覧車の上とかビルの10階とか20階とかなら、怖くて下が見られないんだけど……」


 私が苦笑しながらそう言うと、ユルはえっと目を見開いた。


「いまさら? 高所恐怖症なのにこんな高いところに……いや、ソウルでも、63ビルに行ったのに?」


 私は首を横に振った。


「ちがうちがう。そうだけど、違うの」


「どういうこと?」


「高すぎて、逆に怖くない。もうあきらめの高さだから」


 ユルはあははと上を向いて笑う。


「ヘリコプターの高さだね」


「それもきっとだめ。動いたら、怖いから。飛行機なら大丈夫だけど」


「うーん。なるほど」


 回廊の片側に広がる夜景を眺めながら、一歩一歩を惜しむように私たちはゆっくりと進む。


「東京タワー。小さいな」


 ユルが東京タワーを親指と人差し指でつまむしぐさをする。


「ユル」


「うん?」


 私たちは立ち止まる。私はぼんやりとオレンジ色の東京タワーを眺めながら言った。



「私に会いに来てくれて、ありがとう」


 ユルは何も言わずに私を見た。


「見つからないかもしれないのに、橋に毎日通うなんて、寒いのに……」


「それしか、思いつかなかったから。僕こそ、連絡できなくなってすぐに探しに来なくてごめん」


「ううん」


 ユルにはユルの生活がある。私には私の生活があるように。


 私は泣きそうになるのをこらえながら、へんな笑顔でユルを見上げた。


「私のほうこそ……ごめんね。もうユルは、私には関心がないと思って……海外に行くことにして……」



「ミナ」


 ユルはそっと手を伸ばして、私のことを抱きしめた。懐かしいベルガモットの香り。懐かしいぬくもりが、私の決意をぐらぐらと揺さぶる。


「あなたは、あなたの思うように生きればいい。僕のために何かをあきらめてほしくない」


 当たり前な意見だけど、それは今の私の心に深く突き刺さる。息ができなくて苦しくて涙が出そうになる。


 そう。


 もう私たちは、別々の未来に向かっていくしかない。


 私はあまりにも苦しくて、何も言うことができない。ぎゅ、とユルは私をさらにきつく抱きしめる。そして彼は私の頭の上で低くつぶやくように言う。


「でも……でも、もし、またいつか僕たちが偶然どこかで出会うことがあったら……僕はあなたのことをあきらめきれないよ」


 私はユルを抱きしめ返した。今まで生きてきて、そんなことを言ってくれる人なんて一人もいなかった。


 もしまたいつかで会ったら? そんなことはもう、起こらないだろうけど。


 私はいつの間にか、とめどなく涙を流していた。



 嫌いになったわけじゃない。


 一度は忘れると決めたのに、忘れられるわけがない。


 だからと言って、私がパリ行きをやめることはないし、ユルを待たせるようなこともない。不確定な未来のために、彼を縛り付けたくはなかった。


 好きだから。


 だから、自分の都合で振り回したくはない。


 もしいつか……そうね、もしそんな可能性がほんの1%でもあり得るなら。



「その時は……もしも突然連絡が取れなくなっても……私のほうが探しに行って、ユルが嫌だって言っても、離れないで付きまとってあげるわ」


「ストーカーになるの?」


 ユルは苦笑を浮かべながら呆れたように私を見つめた。彼は私の滝のような涙をハンドタオルでそっとふき取り続けている。


「うん、なる。通報されたら、国際犯罪者になるかもだけど」


 こくりとうなずくと、ユルは天井を仰いで笑った。


「それは……ありえないな。僕のほうが、あなたを離さないから」




 手をつないだまま何も話さずに歩き続け、私たちは両国橋の袂までやってきた。


「さっきまで、あそこにいたんだね」


 ユルがスカイツリーを見あげて目を細めた。


「そうね」


 一日中歩き続けたけれど、不思議と何の疲れも感じていなかった。


 ほっそりとしたタワーは、青く美しいライトをまとって燦然と輝いている。天望回廊はなんだか、そういうデザインの指輪のように見えてくる。私は悲しくて苦しくて胸が張り裂けそうだけど、ほんの数時間前に第一展望台でプロポーズされていた小柄な女性を思い出して……また悲しみが増してくる。


 私たちは、もうこれで終わりなのに……



「本当に……ミナをここで見つけることができてよかった。明日の昼にはもう、帰国しないといけなかったから」


「そう……」


「今日はありがとう。ねぇ、ひとつだけ、お願いを聞いてほしいんだ」


 ユルの提案に私は首をかしげた。視線だけで「なに?」と問いかけてみると、彼は穏やかな笑みを浮かべてスカイツリーを指して言った。


「あの上で言ったこと。忘れないで」


 


 最初はパリで、


 そして二度目は、両国橋の上で。


 私たちは偶然に出会った。


 三度目が、あるというの?



 私は小さくうなずいてからユルに言った。


「それじゃあ、もう行って。私も、行くから」


 彼はうっすらと苦笑を浮かべてうなずいた。


「うん。見送るから。行って」


「……うん」


 私たちは見つめ合った。何度も、どちらも何かを言いかけては止めを繰り返したまま。見えない何かで足元を固定されているかのように、一歩も動けずに。


 ごとん、ごとん。総武線の光が隅田川の上を流れてゆく。


 まだ風が冷たいだろうに、遊覧船が波を立てて真っ黒い川を上ってゆく。


 どれくらい、見つめ合っていただろう? ほんの数十秒だったか、それとも、数分だったか。



「行って」


 ユルがもう一度行った。


「うん」


 私がもう一度うなずいた。



 私はやっと、一歩後ずさった。


 そして右手をちょっとだけ挙げた。ユルはそれを見て小さくうなずいた。


 体の向きを変える。


 そして私は一歩、そしてまた一歩、ゆっくりと歩を進めた。


 一度も、振り返らずに。



 頭上の首都高の、等間隔に並んだライトが川面に揺れる。きらきらとさざ波に散って、オレンジ色に輝いている。あまりにもきれいで、涙が出そうになりながら唇をかみしめて、前に進む。


 大丈夫。


 私は大丈夫。


 いつかきっと、平気になる。


 そう思いながら、私はひたすら歩き続けた。

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