第6話

私は、あきらめが悪いほうではないはずだった。



 人と争うことが面倒で、自分が興味や愛着を持ったものを誰かが欲しがれ抵抗なくなくすんなりとゆずってきた。モノでもコトでもヒトでも、なんでも。何かに執着することは、私にはありえないことだった。



 それなのに……ユルと出会ってからはパリに執着した。



 あの楽しくて幸せな思い出が詰まった、世界中の人が憧れる都市に住めたら、私も変われるだろうか?


 ユルと訪れた場所を一人でのんびりとたどれば、いつかは平気になるだろうか?


 そんなことを考えていた。


 もちろん、パリに行くのは自分のためであって、未練のためではない。


 いままで経験したことのない生活をすれば自信もついて、人間的に成長できるかもしれない。



 両親は、若いうちしかできないことをしてみるのもいいだろうと言ってくれた。


 兄もからかいながらも、困ったらいつでも連絡して来いよと言った。


 ソナもいつでも帰っておいでと言ってくれたし、同僚たちも応援すると言ってくれた。


「今からでもやりたいことをしてみるなんて、すごくうらやましいよ。楽しんで来いよ」


 もうすぐパパになる久坂が、送別会でそう言った。


 

 新宿駅の南口で待ち合わせをしたけれど、人ごみの中にユルを見た時、私の心臓はまだとくんとはねあがった。


 忘れるって決めたのに、心は追いついていないみたい。


 ちゃんと別れたわけではないから、やっぱり未練があるのかな?



 

 背の高いユルが人ごみを縫ってこちらにまっすぐにやってくる。私はどんな表情をしていたのか、彼は私を見るなりとても複雑な……嬉しいような悲しいような、そんな柔らかな陰りのある笑顔を見せた。


「ミナ。本当に本当に会いたかった」


 以前は丁寧語で話していたのに、今は違うのね。


 彼はそっと遠慮がちに私にハグした。ふわりと、懐かしいコロンのベルガモットの香りが鼻先をくすぐって、一気にソウルに心が引き戻される。トク、トク、トク。鼓動が意思に反して早まってゆく。


「手」


 彼は大きな手を差し出した。私は無意識にその手を取った。相変わらず、温かい手。なつかしさに涙がこぼれそうになるのを唇を引き締めてこらえた。




 一日を一緒に過ごしたけれど、パリやソウルのようにしゃべり続けることはなかった。私たちはただ無言で手をつないだまま、まだ寒い春先の町中をあちこち歩き続けた。会話がなくても平気だった。居心地が悪いわけでも、気まずいわけでもなく、ただ手のぬくもりをお互いに感じながら歩き続けた。


 私の歩幅に合わせてくれるやさしさは相変わらず。私がこけそうになるとすぐに手を差し伸べて助けてくれる。「大丈夫?」と気遣ってくれるし、人ごみではほかの人たちにぶつからないようにさりげなくかばってくれる。


 もう私たちはパリでの私たちでも、ソウルの私たちでもない。それはお互いに察している。何が悪かったわけでもなく、こうなってしまったのも私たちの運命なんだと思う。



「ミナ」


 カフェで休んでいるときにユルが私をじっと見つめて言った。


「今日は僕のために仕事を休んでくれたの?」


 私は苦笑を浮かべて首を横に振った。言うべきか、言わないでおくべきか。一瞬だけ迷った。


「仕事は、辞めたの」


「どうして?」


「東京を離れようと思って」


「……」


 ユルは言葉を失って悲し気に目を伏せた。彼は何かを言いかけては止めてを何度か繰り返した。


 彼は今、何を考えているのだろう?


 私はゆっくりと話し始めた。



「語学留学しようと思って。しばらく、海外へ行くの」


 彼はさらに悲しそうな表情になった。


「しばらくって、どれくらい?」


 私は首をかしげて苦笑した。


「うーん、一年くらい。その後は延長するか別の場所に行くか帰ってくるか……その時になったら決めるつもり」


「そう……」


 それきり、彼はそのことに関して聞いてくることはなかった。




 ユルとの時間が増えていくと、なんとなく考えることがあった。


 国籍の違う私たちが、もしもお互いの国どちらかで暮らすとしたら。私がお願いしたら、彼は日本に住んでくれるだろうか?


 ユルは日本が大好きなわけでも、日本での仕事や生活に興味があるわけでもない。日本語が流ちょうなわけでもない。そんな彼が日本で暮らしていくとしたら?


 最初の数か月は何とかなるかもしれないけれど、たぶん、そのうちにいろいろな問題がおりのようにたまっていくだろう。言葉や文化、生活習慣が、彼が本来発揮できる実力や掴めるであろうチャンスを邪魔することになるだろう。私のためだけにいろいろなものを我慢すれば、そのうち私のことが煩わしくなるだろう。


 日本にいることで差別を受けたり、コミュニケーションで苦労するかもしれない。


 私は、そんな負担を彼に負わせてまで一緒にいたいとは思えない。



 逆も、しかり。



 旅行で行くくらいなら、私も韓国で暮らすことはできると思う。でももしもっと長い間暮らすとなれば、いい面だけでなく嫌な面もたくさん知ることになるだろう。言葉も完ぺきではなく、誤解や差別も受けるだろう。私だけが受けるならましだけど、もしもユルまでが私のせいで嫌な思いをしたら……私はそれが耐えられない。


 もちろん、そういう問題は本人の心がけ次第だという人もいるけれど、心がけだけではどうしようもないことがあるのも事実だ。


「好き」という気持ちだけでは乗り越えられない障害が起こるだろう。


「難しいよね。日本と韓国は、近くて遠い国だから」


 ソナもそう言う。私はソナが大好きだし、彼女も私のことが大好きだ。私たちの間に国籍は関係ないけれど、国と国の間にはまだ深く昏い溝がある。すべての人たちがお互いに友好的なわけではなく、政治的な問題が絡むとお互いに対して偏見や反感を膨らます人たちもいる。


 実際、韓国に嫁いでいき、さまざまな外的要因に負けて帰ってきてしまう知人も何人かいた。


 どこの国にでも当てはまることだけど……


 国際恋愛は、どちらかが相手の文化を熟知していれば(妥協も含め)うまくいく確率が高い。でも私は私だけのためにユルの人生を犠牲にしてほしくはないし、私もユルのためだけに自分の人生を犠牲にして、いつか彼を恨むようにはなりたくない。


 そう考えると、私たちの未来には、どちらかの国にどちらかが移住するという選択はないほうがいいと思われた。



 もちろん、将来を誓い合ったわけではない。


 そこまで考える必要もないかもしれない。


 それでも、好きだから、離れたくないからという理由だけでそういう選択をするリスクは冒したくはない。


 ユルには夢をかなえてほしいし、私もいつか自分の人生をユルのために犠牲にしただなんて思いたくはない。



 たぶんユルも同じことを考えているのかもしれない。


 だから彼は私のために日本に住もうとは言いださないし、私に韓国においでとも言わない。




「卒業したから、ユルはきっとどこかの建築事務所で働くんでしょ? お父さんの会社とか?」


 私が口元に笑みを浮かべて訊くと、ユルは目元を緩めて小さくうなずいた。


「父の会社じゃないけど……四月から、うん、そうだね」


 ソウルで? と私は訊かない。きっとこれからは私たちの人生は交差することはないのだ。



 きっと、知らないほうがいい。



 ユルはすこし落ち込んでいるように見えた。


 そしてカフェを出てからは、何かを考えこんでいるようにぼんやりとしていた。



 私はわざと明るくユルにほほ笑んだ。


「ねぇ、夜景を見に行こうか?」

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