第5話

新年から、私はうつうつと堂々巡りを繰り返していた。


 ユルから完全に連絡が来なくなって二週間が経っていた。



「わかってると思うけど、もう忘れなさい」


 ある日、ソナが静かにそう言った。


 そうだよね。きっともう、ユルは私のことなんてどうでもいいのだろう。


 メッセージを送っても、もう既読にもならない。


 もしかしたら気になる子でもできたのかもしれない。


 外国人との面倒な遠距離恋愛なんて、もう面倒になったのかもしれない。



 なにも始まっていないと思えば、同僚の久坂くさかに失恋した時みたいにすぐに忘れられるだろう。


 そう。


 何も始まっていなかったのだ。


 あれは、パリの延長、おとぎ話の続きだっただけ。



 パリ、ソウル、そして東京。


 三都物語は完結しなかった。


 する保証もなかった。


 未完の物語。


 ただ、それだけ。



 でも。


 一方的に連絡を絶つのはどうなの?


 私が心配するとは思わないの?


 どんな理由にせよ……諦める必要があるのに。



 ひどいよ、ユル。


 こんな風に終わりにするなら、なぜ約束なんてしたの?


 なぜ好きだって言ったの?



 忘れる。


 ソナにも忘れると言った。


 自分にも言い聞かせた。


 なのに。


 なのに……そんな、すぐに忘れられるわけない。




 二月になっても、気が付けばまた「なぜ」を繰り返していた。


 表面上は穏やかなに過ごしていたけれど、心の中はいつもざわざわと不穏な波が立っていた。



「ねえ、そろそろ外の世界に目を向けてみなよ」


 定時に帰宅してはソファでぼんやりとしている私にソナが言った。


 否定でも肯定でもなく……私は淡く微笑んだ。




 私は退職届を提出した。


「パリに行こうと思うの」


 そのあと、ソナにそう打ち明けた。私たちは可能な限り毎日話し合いを重ねた。一緒に住んでいる今のマンションはソナの所有。彼女はいつでも戻っておいでと言ってくれた。


「私は気難しいから、気の合うシェアメイトなんてなかなか見つからないの。あんたは、唯一無二の親友でベストシェアメイトなんだ」


 そして彼女は、私のパリ移住を手伝ってくれた。



 まずは、語学学校に入る。


 学生ビザでフランス語を学びながら、旅行会社でバイトする。


 それからどうなるかはわからない。


 とにかく、今の生活を一新したい。なにか新しいことを一から始めてみたかった。


 いろいろな手配をしながら忙しく過ごしていたら二月はいつの間にか過ぎていった。そして三月、パリに行くまであと三週間となった。



「今年の桜は見られないなぁ」


 私のつぶやきにソナは窓の外を見やった。ほんの一部、ちらりとスカイツリーが見える。


「アレが桜ピンクに代わるのも、見られないね」


「ああ、そうね」


 私も窓の外を見た。桜の花の季節には、スカイツリーも特別に桜カラーになる。


「あっ、牛乳がない」


「明日でもいいじゃない?」


「でも朝ないとやっぱり困るよ。ちょっと買ってくるね」



 私は外に出た。



 牛乳は本当はユナの言う通り明日でもよかった。だって今はもう仕事に行かなくていいから、いつでも買いに行ける。でも……なぜか急に、スカイツリーを眺めたくなったのだ。


 見ようと思えば部屋からでも見えないことはないし、外で見るなら本当にすぐそこのコンビニでいい。それなのに、私はわざわざ両国橋のほうへ向かった。



 隅田川の上からスカイツリーをゆっくりと眺める。半分から上しか見えないしまだ少し肌寒い川風が吹いているけれど、空気が澄んでいるから青く輝くスカイツリーがとても美しく見える。道行く人たちもその美しさに足を止め、スマホをかざしている。


「きれい……」


 私は思わず独り言をつぶやいた。




634メートルムサシ、でしょう?」


 ふいに後ろから聞こえた問いかけに、私は固まってしまった。


 風の音だったか……空耳かもしれない。


 外にいるのに、私は眠っているのかもしれない。


 あるいは、今こうしていること自体が、夢なのかもしれない。



「ミナ」


 恐る恐る、私は後ろを振り返る。


 そこには、ジーンズに白いトレーナーに黒っぽいマウンテンパーカー姿のユルが立っていた。


 まさか?


 そんな、彼がここにいるわけはない。


「ミナ」


 もう一度名前を呼ばれて、私は眉を顰める。


 どうやら、夢でも幻でもないみたい。



 ユルだ。


 本物の、ユル。


 彼はすがるようなまなざしで私を見つめていた。




「なんなのよ! そんな奴二度と来るなって悪態ついて置き去りにしてくればいいのに!」


 ソナはヒステリックな声を上げてソファのクッションにパンチを連打した。


「だって……」


 私は目を伏せた。


 パーカーの袖をもじもじと指でもてあそぶ。


「二週間ずっと、橋に通ってたっていうから……」




 両国橋の上。


 ユルは固まる私に言った。


「連絡できなくてごめん」


 それ以上何も言わないのは、彼に何かのっぴきならない事情があったのかもしれない。彼を熟知しているわけじゃないけれど、きっと下手な言い訳はしない人だ。もうすでに、心配も怒りもない私は淡々と訊ねた。


「どうして……ここにいるの?」


 彼は安堵したような、それでもまだひどく緊張したような面持ちで答えた。


「スマホが使えなくなって。ミナの連絡先も復元できなかった。でも、この橋から見えるスカイツリーのことを話してたでしょう? 仕事の帰りによく見るって。だからこの橋に来れば、あなたに会えると思った」


 私は呆れて目を見開いた。


「それだけで、ここにいるの?」


「仕事に行くだろう朝と、帰るだろう夕方の二回。今日で十日くらい」


「十日も? 毎日?」


「土日以外は。週末は仕事が休みだって言ってたから……」


「どこに泊まってるの?」


「知り合いのところ。新大久保シノクボ



 秋ごろに大学でスマホを失くした。どこかに置き忘れた記憶もないのに、いつの間にか無くなっていた。


 家族や友達の連絡先は会った時に聞き直してどうにかなったものの、私の連絡先が分からなかくなってしまった。すぐにでも東京に来たかったけれど、卒業のための発表や準備があったので、仕方なく二月まで動くことができなかった。


 誰かに盗まれたのか分からなかったが、時々、電源が入れられて登録された知り合いに謎のメッセージが送られることがあった。気持ち悪いので、そのまま解約せざるを得なかった。



 家族や友人たちの連絡先は入れなおせば済んだ。


 でも……


 私の連絡先を他に残していなかったことを、ユルはひどく後悔したらしい。SNSのアプリからメッセージを送ろうとしてけれど、復元してみると連絡先が消去されていた。そのころは私もユルとの会話を消去して、彼のIDも削除していたから……


 だから彼は一縷の望みに賭けた。卒業式が終わるとすぐに東京行の飛行機に乗り、知り合いの家に寝泊まりさせてもらって毎日のように両国橋まで通った。通勤する私に、会えるかもしれないという希望を持って。


 でも私はすでに会社を辞めていたから、通勤時間帯に橋を通ることはなくなっていた。



「嘘に決まってるじゃない? ケータイ失くしたなんて?」


 ソナはぶりぶりと怒っている。全身の毛を逆立てたネコみたい。私のことでそんなに怒ってくれるのは、彼女だけだろう。


「うそでもほんとでも、どっちでもいいの。どうせ私はもうすぐパリへ行くわけだし……最後に東京を案内するくらい、なんともないわ」




 そう。


 約束だから。


 ソウルを案内してもらったから、東京を案内してあげるだけ。ただ、それだけ。



 私たちは長い人生のごく一点で、お互いの人生がちょっとだけ重なった。ただ、それだけなの。




 まだ肌寒い朝、私たちは新宿で待ち合わせをした。

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