第4話

「もう。ホントにどうしちゃったの?」


 増し増しのミントの葉っぱをぎゅうぎゅうに詰め込んだモヒートのグラスをテーブルに置いて、ソナは呆れてため息をついた。



 ソウルから戻ったその日の夜のうちのリビング。彼女はテーブルとソファの間に体育座りする私をソファから見下ろして怪訝な顔つきをしている。


「ああ、そうね。どうしたかっていうとあんたはすっかり骨抜きになっちゃったってことよね?」


 私はソナの美しい脚に寄り掛かって腑抜けた笑みを浮かべた。


「そうみたいね」


「結局、再開して恋に落ちちゃったのね」


「うん、落ちちゃったみたいね」




 五日間、私たちはずっと一緒にいてずっとしゃべり続けていた。


 「僕もあんまり観光したことがなかったから」と言って、ユルはソウル観光に連れて行ってくれた。相変わらず英語と韓国語のごちゃ混ぜの会話だったけれど、日本語の率もパリよりはかなり増していた。


「実は、日本に住んでいたことがある友達に教わったり、本で勉強したりしました」


 ユルはかなり流ちょうなにっほんごを話せるようになっていた。


 

 あなたと、話したかったから。



 彼はそう言って恥ずかしそうに笑んだ。実は私も二年の間に、面倒がるソナに無理やり相手してもらって韓国語を上達させていた。本当にユルに再会できると確信していたわけではないけれど……もし万が一再会できたら、パリの時よりももっともっと話したいと思っていたから。


 彼も同じだったと知って、私はとても驚いた。


「この二年、あなたとパリでの思い出が、僕の心の支えでした」


 漢江の夜景を見ながら歩いているときにユルが言った。


「いやなことや辛いことがあっても、それを思い出すと気分がよくなったんです」


 私はユルのシャツの裾をつまんだ。それに引っ張られて彼は歩みを止めて私を見下ろした。


「うん?」と首をかしげる彼に、私はほほ笑んだ。


「私も、同じだった。ユルとパリで一緒に過ごしたことが、すごくいい思い出でね。ユルが約束を覚えていてもいなくても、思い出は消えないから」



 ユルは驚いて目を見開いた。数秒の間そのまま固まっていたけれど、私が首をかしげるとにっこりと笑って大きな手を差し伸べてきた。


「なに?」


「手」


「手?」


「手をつなぎましょう」


 私はユルに笑顔を向けて彼のてのひらの上に自分の手をのせた。


 ユルは私の手をそっと握るとまた歩き始めた。


「ミナ」


「うん?」


「今度は僕が会いに来ます」


 私は笑みを浮かべてうなずいた。


「いいよ。案内するから」


「二月に……」



 卒業したら、日本に旅行に行きます。



 ユルはそう言った。


 先のことなんて、本当に何もわからないけど……ユルがそう言うと、本当になる気がした。


 

「ミナ」


 今度はユルが歩みを止めて私を見つめた。そして私の反応を待たずに言った。


「あなたが好きです」


 一瞬面食らったけれど、私はうなずいて答えた。


「私も」




 そして私たちはまた七か月ほど離れることになった。


「呆れるね。学生なんでしょ?」


「半年後の卒業するって」


「まあ、話によれば次男だから、まだよかったね。あんたが韓国に嫁いでも耐えられるとは思えないから」


「ご家族にも会ったけど、ドラマとかで見るような感じじゃなかったよ。ご両親、英語うまかった。ユルのお兄さんにも跡を継がせたりしないで好きなことをしてほしいって」


「兄と姉がいるんだったよね?」


「うん。ご両親とお兄さんが建築家で、お姉さんは靴のデザイナーだって」


「はぁ。心配なことに変わりはないけどね」


「ソナ、べつに結婚を誓い合ってきたわけじゃないんだから、心配しすぎ」


「心配はするでしょ。こんな衝動的なあんたは初めてだもの」


 私たちは付き合うことになった。とはいっても、物理的に毎日会えるわけではないけれど。そう、ユルはパリで偶然出会った旅行者から、私の恋人になった。


 それから私たちは、毎日のようにメッセージを送りあって他愛ないこと伝え合って、再会を待っている。




「ええ? 槙野さん、カレシさん外国人なんですか?」


 隣の席の浅井さんが好奇心で目を丸くした。


 彼女が知人を紹介したいと言ってきたときに、私は断った。なんでも、その知人が浅井さんのスマホの画像で私が一緒に写っているのを見て、ぜひ紹介してほしいと彼女に頼み込んだらしい。断る理由を教えてほしいと言われて、私は仕方なく彼女に白状した。


「あんまり飲みにもこないしデートでも行ってる気配もないと思ったら、国際遠距離恋愛そういうことだったのね」


 彼女は知人に紹介するのをあきらめてくれた。


「紹介くらい行ったっていいんじゃない?」


 ソナはクールにそう言ったけれど、私はそんな気にはなれない。


「そういうところよ。あんたは不器用だよね」


 つねにいくつかのオプションを用意しておく、ソナのように合理的で賢い生き方は私にはできない。私の不確かなユルとの関係は、ソナには中学生の恋愛ごっこよりもひどく思えるらしい。


 たしかに……私たちは半年後に再会を約束しただけだ。ユルの未来に私が、私の未来にユルがいるとすればそこまでで、その先にどうなるかはわからない。それでもよかった。毎日何度かのメッセージのやり取りをして、時々は声を聞く。


「ああ、ほんっっと会いたい!」


 電話を切るとき、ユルは私に言うでもない独り言をつぶやく。


ほんっっと会いたいチンッチャ ポゴシプタ


 ユルが私にかける、魔法の言葉。週末に飛行機に飛び乗って会いに行けないこともないけれど、あえてしない。彼が二月に来ると言ったから。



 言ったけど……



 年末のある日から、ユルの連絡は途絶えがちになっていった。


 


「……」


 ソナの視線が私の横顔に突き刺さる。


 彼女は何も言わない。でも、視線で訴えている。


 彼女が何も言ってこない限り、私からも何も言わない。


 年末の我が家では、心理戦が繰り広げられていた。



 信じているとか、いないとかではない。ユルは時々連絡をよこしては「忙しくてごめん」と言う。


 それが事実でもそうでなくても、私はユルの言葉を信じるしかない。


「遠距離なんて、結局は物理的に近くにいることには負けちゃうんですよ」


 遠距離恋愛で失敗したことのある後輩の子が以前言っていた言葉が脳裏をよぎる。


 ましてや、違う国の人ならなおさら?

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