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第3話
ユルのことは私にとっては、とてもいい思い出であり続けた。
嫌なことや辛いことがあった時、疲れた時などに私をいやしてくれる宝物のような思い出。
いい思い出として時々反芻しながら二年と一か月がたったころ、私のスマホのSNSに、ある日メッセージが届いた。
【久しぶりですね。よく過ごしていますか?】
私は驚きでスマホを落としそうになった。まさか彼が、私を覚えていたなんて。
【約束したでしょう? ソウルに遊びに来ませんか?】
「信じられない」
小さなスーツケースに服を詰め込む私をリビングのソファから観察して、ソナが呆れたようにつぶやいた。
「私も自分が信じられないよ」
私も彼女を振り返らずに言い返す。
私という人間は、常に慎重に生きてきた。
何かをする前には周到に下調べをして、ある程度の知識と自信を持てるようにしてから行動に移す。
だから過去にたった一度会った人からメッセージが届いただけで、有休をとって航空券を予約して荷造りするなんて、いままでありえなかったことだ。
「でもまぁ、衝動的に行動することが人生で一度や二度あってもいいよね。とくにあんたの場合」
私は手を止めて彼女を振り返って首をかしげた。
「怒ったり注意したりしないの?」
「そんなことしたところで」
彼女はテーブルの上のマグカップをずず、と啜って置いた。
「あんた、ソウルに行くのやめる?」
私はふと笑って首を振った。
「ううん。やめない」
「でしょ? いうだけ無駄」
彼女は肩をすくめた。
二年と一か月。
その間、ユルは私の中でいい思い出になっていた。もしかしたら現実の彼は私が思い返していた彼とは少し違うかもしれない。私が勝手に彼を思い出の中で都合よく作り変えていて、実際に再会したらがっかりするかもしれない。あるいは、その逆かも?
もし、彼にがっかりされたら?
それはちょっと怖いけど……でも、パリではあまりにも楽しい時間を共有したから、会えるならまた会ってみたい。それに、彼があの約束を覚えていたことが、私は何より嬉しかったのだ。
過保護なソナが、
夕方
ソナの友達の経営するホテルはコンドミニアムタイプで、江南が一望できる。思っていたより高級だったのでちょっと面食らった。チェックインを済ませてシャワーを浴びて着替え、夜の明かりがともり始めたころに、待ち合わせの場所へ向かう。
「到着したよ」とA’REXの中からメッセージを送ると、すぐに返信が来た。
【八時に、ここで!】
下矢印の下のURLをタップすると、そこは私のホテルからさほど遠くないカフェだった。華やかな大通りからひとつ入った静かな路地にある、小さなカフェ。雑貨屋とコスメ店の間にある。
カフェラテを頼んで奥の窓辺の席へ。ちらほらと行き交う人たちを眺めながら、期待と不安が入り混じる。本当にユルは来るかな? 来ても、私のことをすぐにわかるかな? 私も、彼が分かるだろうか? ユルは今はどんな髪形なんだろう? 除隊して半年、髪は伸びたのかな? 私の髪はあの時鎖骨くらいの長さだったけど、今は背中の半分まで伸びたから……ユルはどう思うかな?
なんて。
でも実際にユルが急いだ様子でカフェのドアを開けて店内を見渡して私を見つけた瞬間、いろいろとごちゃごちゃな杞憂はすべてどこかに吹っ飛んだ。
「ミナ!」
まっすぐに向けられた懐かしい笑顔。ちょっと痩せて大人びたユルが、弾むボールのようにやってきた。
「ユル。久しぶりだね」
勢い余ったユルは、座っている私に片腕を伸ばしてハグした。私たちはまるで旧友にでも再会したみたいにハグしあった。
ぽろりとユルの頭から白いキャップが落ちた。黒髪がふわりと彼の額にかかる。二年前はチョコレートブラウンに染めていたけれど、今は黒髪。
彼はそのまま私の隣に座った。
「なに?」
首をかしげると、彼は嬉しそうに笑った。
「あまりにも嬉しくて。この二年間ずっと、この日を待っていたんです」
「ほんとに?」
「ほんっとうです。ようこそ、ミナ。さぁ、おいしいもの買ってあげます!」
ユルは私の手をグイっと引っ張り上げて立ち上がりカフェを出た。
彼は私を江南の夜景が見下ろせるレストランに連れて行った。
私たちはワインを頼み、食事をしながら二年前のようにしゃべり続けた。
ユルは軍隊での面白い話や苦労話をしてくれた。除隊後は復学して大学に通いながら、父親の建築事務所でバイトしているらしい。
「父も母も兄も建築家です。姉は靴のデザインをしています」
二年前、パリでユルはそう言った。
「うちの父は地方で養蜂をしているわ。母は高校の数学教師で、兄は食品会社の研究員なの」と私が言うと、ユルは好奇心に目を輝かせた。
「養蜂ですか?」
私は苦笑した。
「でも、跡を継ぐ人がいないから、きっと父の代で終わると思う」
「お兄さんは継がないのですか?」
「兄は私と同じ、東京で働いているの。跡を継ぐ気はないみたい。私もね」
「それは残念ですね」
ユルはその話を覚えていた。
「これ、おみやげ」
私が小瓶を差し出すと、彼の顔がぱっと輝いた。
「はちみつですか?」
「食べてみたいって、言ってたでしょ?」
「うわぁ! 嬉しいです!」
子供みたいにはしゃぐユルを見て、わたしもつい笑ってしまう。
食事の後、私たちは
江南の夜景が眼下に広がる。
「ほら、あの遠くに見えるのが、Nソウルタワーです」
ユルの指さすほうを見ると、小高い黒山の上にポツンと白っぽい光るタワーが見える。
「うん、間違いなく高い」
「
「エッフェル塔は300メートル、東京タワーは333メートル。スカイツリーは634メートル。スカイツリーが一番高いね」
「うわあ。よく知っていますね!」
小さな子供のようにきらきらと目を輝かせながらユルが私に尊敬のまなざしを向ける。
「調べたんだよ」
私は気の抜けた笑いをして肩をすくめた。
それから私たちは真夜中まで、江南を歩きながら話し続けていた。まだ一日目なのに、まるで限られた短い時間を惜しむみたいにずっと。
真夜中過ぎ、ホテルの前まで送ってもらったけれど、別れがたくて入口の横でまだ話していた。
「明日は十時に迎えに来ます」
「大学やバイトは?」
「大学は今、毎日行く必要はなくて。バイトは休みです」
私をいろいろなところに連れていきたいとユルは言った。
何度も振り返って手を振る彼を見ていると、つい口元が笑みで緩んだ。二年前にパリで偶然会っただけの縁が、またつながった。
心がほわんと温かく満たされる感じ。
その気持ちが何であれ、私は彼に再会できたことが本当に嬉しかった。
嬉しい?
そう、嬉しい。
カフェにいる私を見つけた時のユルの瞳の輝き。
肩書とか国籍とか年齢とかは関係ない。
その気持ちが何であれ、それはまるでおとぎ話のように幸せなことだった。
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