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第2話
ハン・ユル。
ソウルで建築を学ぶ、四つ年下の私の新しい友達。
「うわぁ、ミナ、なんか小説みたいな出会いじゃないの!」
帰国後、シェアメイトのソナにパリでのユルとの出会いを離すと、彼女は目を輝かせてそう言った。彼女は私の二つ年上で、丸の内の多国籍企業で働いている。
「それで、その男、いくつなの?」
日本での生活は十年と長いけれど、ソナはそんなところはまだすごく韓国人らしい。年齢は言葉遣いや態度の基準となるから、韓国人はすぐに年齢を知りたがる。
「私より四つ下だって言ってた」
「ふうん、年下か。それで、一緒に写真撮ったりしてないの?」
「あるよ」
私はスマホでユルと一緒に撮ったいくつかの画像をソナに見せた。
「なに、めっちゃ美男じゃない⁈」
ソナは大げさに驚いて見せた。
「メガネをかけて長い前髪にキャップもかぶっているのに、わかるの?」
「わかるよ! こんな骨格の男なんて、滅多にいないじゃない?」
「ははは。前に一緒にソウルに行ったとき見た、一般の人たちは確かに違ったね。韓流アイドルみたいな人は、ホントに同じ国にいるのかって」
「そうだよ。あんたが出会ったこの子は無形文化財レベルだね。画像だけじゃよくわからねいけど、これは整形してないね。天然ものだわ」
ソナの美意識はとても高い。彼女こそ、無形文化財レベルの美女だと常々思う。八頭身半のSラインで、小さな顔に妖艶な顔立ち。父親はソウルの実業家で母親は美容サロンの経営者で元バレリーナ、姉は母親のサロンの幹部、兄は父親の会社の一つの代表理事。中学から高校までをカナダで過ごし、大学はアメリカから日本に編入した。なんでも白黒をはっきりつけたい彼女の意見は、かなり鋭い。物事は白か黒かの二択だけで、彼女にとってグレイはありえないのだ。
兵役だって? 連絡取り合っておきなよ。年下なのが残念だけど、まぁ、いまどき年下は珍しくもないからね。
彼女はそう言って豪快に笑った。
「槙野さんおかえり! パリは楽しめた?」
隣の席の浅井さんが微笑む。私も彼女に微笑み返した。
「十分のんびりできたわ。今日からまた日常ね」
旅行会社とはいっても、私はバックオフィス勤務だ。お客様の飛行機や列車、ホテルの予約などを手配する。かなり忙しいけれど、旅行会社のいいところはまとまった休暇が取りやすいことだ。私の今回の休暇も十二連休だった。
みんなにお土産のクッキーを配って挨拶して席に戻る。そのクッキーをパリでユルと食べた時のことを思い出すと、自然に口元に笑みが浮かぶ。
「本当に楽しかったみたいね。よかった」
浅井さんが私に穏やかな笑みを向ける。彼女は旅行に行く前までの私の様子をとても心配していた。疲れ切って、毎日暗い表情で、悲しげにうつむいていたから。
「槙野」
聞きなれた声がして、私は左後ろを振り返る。
そこには法人営業の同期の
「なに? 久坂」
「おかえり。おみやげ、ありがとう。楽しかったか?」
私はにっこりと愛想笑いを浮かべた。
「うん。ここ四年分の羽を十分に伸ばしてきたわ」
「そうか。よかったな。これ、受け取って」
彼は私に金箔の枠つきの白い封筒を差し出した。私はこくりと頭を下げてそれを受け取った。
「ありがと」
「じゃあ、また。そのうち、昼飯でも行こう」
「オーケイ。いってらっしゃい」
私は手をひらひらと振った。彼は外回りに出かけた。
「招待状?」
隣の浅井さんが私の手の封筒を見て言った。
「そうです。結婚式の」
私はうなずいた。
ここ数年の、私の片思いはほんの三週間前に終わった。
異動やら退職やらで、同じ事業所にはもうたった一人しか残っていない同期の久坂が、結婚すると言ったから。相手は久坂が添乗したことのあるとある企業の社員で、社員旅行がきっかけで付き合い始めたとか。
彼がうれしそうに結婚を発表した時、私はとても後悔した。自分の鈍さにうんざりして、その場から消えてしまいたいと思った。結婚すると聞くまで、私は自分が彼のことを好きだと気づくことができなかったから。
嬉しいことやつらいこと、大変なことや大きなハプニングを一緒に乗り越えてきた同期。信頼し、励まし合ってきた。それが恋心だなんて、それまで一度も思いもしなかった。
神田で飲み会をして、その日私は二次会にはいかずにそっとひとり帰途に就いた。途中でぽつぽつと雨が降り出したのにも気づかずに歩いて歩いて、東日本橋を過ぎてふと、両国橋の上で足を止めた。
総武線がごとごとと秋葉原方面に向かって走り抜けてゆく。車窓の流れる光をぼんやりと見つめ、ふと視線を上げてスカイツリーを仰ぎ見る。
夜と雨の中、第一展望台までしか見えないスカイツリー。ぼんやりと水分ににじんで、青く浮かび上がるおぼろげな姿はまるで亡霊みたいだった。
自分でも知らずに終わった私の思い。
私はそのまましばらく両国橋の上で、ぼんやりと湿っぽい夜に浮かび上がるスカイツリーを見つめ続けていた。
誰も知らない私の失恋。
まだ胸の奥にもやもやと寄り集まった綿ごみのような違和感があるけれど、耐えられないくらい苦しいわけではない。何も変化しないし始めりもしなかったのだから、傷は浅くて済んだと思う。
もしかしたら、ただの勘違いだったかもしれない。結婚すると聞いて、寂しく思っただけなのかもしれない。いつもそうだ。私は何事にも慎重すぎて踏み出すことができない。今となっては、久坂に自分の気持ちを伝える気もない。
始まらなかったから、終わりもしなかった。私たちはこれからも同期であり、それはきっとずっと変わらない。
「ミナはどうして、パリに来たんですか?」
サクレ・クール寺院の階段に座ってパリの街を見下ろしていた時に、ユルが私に尋ねた。
ちくり。胸が痛んだけれど、私は口元に苦笑を浮かべた。
「学生の時に一度だけパリに来たんだけど、その時は大学の旅行で団体行動だったの。自由時間がなかったから、ゆっくりと歩き回りたかったから。それに、誰もいないところで一人になりたかったから」
するとユルは申し訳なさそうに苦笑した。
「ごめんね。僕がくっついてまわってて」
「いいよ。これはこれで、楽しいから」
「ありがと。ミナに会えてよかった。困っているときに現れてくれたから、僕には天使みたいに思えたんです」
私はおなかを抱えて笑った。
「なに? 僕がなにかおかしなこと言ったんですか?」
「いや、ちょっと、ソナが言ったこと、思い出しちゃって」
日本の男はシャイすぎるけど、韓国の男は思ったことを素直に口に出しちゃうんだよ。
なるほどね、こういうことね。
「それじゃあ、ユルも私にとっては天使みたいなものかな。パリに来る前に気分が落ち込んでたけど、おかげで癒されてるから」
「ああ、そうですか? それじゃ僕たち、二人とも天使ですね。ここからエッフェル塔のてっぺんまで、一緒に飛びましょうか?」
ユルは遠くに小さく見えるエッフェル塔を指さした。
「ああ、エッフェル塔ね。東京にも東京タワーとスカイツリーがあるんだよ」
「ソウルにはNソウルタワーがあります。そうだ、ミナ、今度はソウルに遊びに来てください。僕が案内しますから。あ、でも、一年半……いや、二年待ってもらわないと」
「どうして?」
「軍隊に行かなくてはならないんです。一年半で終わるんですけど……」
「じゃあ、どうして二年後くらい?」
「それは……髪が伸びていないと、恥ずかしいじゃないですか」
私はくすくすと笑った。照れるユルはすごくかわいく見えた。
「わかった。二年後ね」
「そうですね。その後は、僕が東京に行くので案内してください」
「うん、オッケイ。楽しみにしてるね」
二年後なんて、どうなっているかわからない。
それは偶然にパリで会って、ほんのひと時を一緒に過ごした間の他愛ない会話の一部だ。
それが何かに発展するとかユルがそれを覚えているかとか、そんなことを考える必要はない。
ハン・ユルと私の出会いは、旅先での他愛ない思い出の一つでしかないのだ。
それでも、ユルと過ごした数日はとても楽しいことばかりだった。
その思い出のおかげで、私はひそかな失恋を無難に終わらせることができたのだと思う。
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