Skytree
しえる
三都物語
1
第1話
三年前。
私は一人でパリに行った。
学生の時に卒業旅行で行ったことはあったけれど、パリへの一人旅はそれが初めてだった。
目的があったわけではないけれど、ただ何となく街をぶらついて美術館やカフェ巡りをしてのんびりと八日間を過ごした。
その一日目。
空港からエールフランスのリムジンバスに乗ってオペラ座のわきで降りて、モンマルトルの小さなホテルまで向かった。方向音痴なので、迷わないようにグーグルマップの衛星地図で何度も道順をシュミレートしておいた。その甲斐あってか、初めての場所なのに迷うことなくホテルにたどり着くことができた。
小さな中庭を通り、正面の扉を開く。向かって左手に小さなレセプション。右手には一人がやっと通れるくらいの狭い螺旋階段。
なにやら、先客がレセプションのお兄さんと話しているところ。仕方がないのでレセプションの向かいの三人掛けの古いソファに座り、話が終わるのを待つ。
先客は、背の高い若い男の人。アジア系で細身で色白だけど、なんとなく雰囲気で日本人じゃないなと思う。レセプションの人と英語で会話をしている。黒縁の眼鏡をかけているのが斜め後ろからもわかる。黒いパーカーにぼろぼろのジーンズ、そしてスポーツメーカーのスニーカー。学生さんかな? と思う。
なにやら会話はエキサイトしている様子。時々彼は困ったように髪をかき上げたり、ため息をついたりしている。
「あー、チンッチャ……」
あ、韓国の人か。彼のつぶやきは韓国語だな、と思った。
「とにかく、今夜は満室なんだよ」
レセプションのお兄さんはそう言って首を横に振った。どうやら予約トラブルみたい。
私は二人を観察しだした。
レセプションのお兄さんは、予約した部屋のタイプは今日は満室だが、明日からならとりあえず泊まれる、今日だけ別タイプの少し高い部屋で我慢してくれという。でも韓国の彼は予約したことは確実だから、高い部屋の差額を払うのはおかしいと主張しているがうまく伝わっていない様子。そのうえ、どうやら彼はすべての日数の室料の差額を払わなければならないと誤解しているみたいだった。
「
ああ。私のお節介。私はそっと彼の背後から声をかけた。
「お? 韓国人ですか?」
彼は振り返り、目を見開いて私を見て韓国語で言った。やっぱりね。地獄に仏とばかりに、期待を込めたうれしげな表情。私は驚きで一瞬固まってしまう。彼はとてもきれいな顔立ちをしていた。ほんの一瞬彼に見とれて、それから正気に戻り苦笑して首を振った。
「いえ……少しだけ韓国語わかります。今日だけ、シングルは満室だからツインで過ごしてくれと言っています。明日からはシングルがありますって」
「ああ! そうなんですか?」
「そうです。でも……ちょっと待ってください」
私は彼の目の前に置かれた紙をのぞき込んだ。英語で書かれた予約確認書。そしてレセプションのお兄さんに英語で言った。
「この確認書によれば、彼の予約は正式にされています。今夜部屋が満室だとしても、彼がアップグレードの差額を払う必要はないですよね?」
「ええ……さっきからそう言ってたんですが」
レセプションのお兄さんは苦笑した。さっきは今日だけ室料が高い部屋で我慢してくれって言ってたくせに。もしかしたらホテルの落ち度でダブルブッキングして、アップグレード代を払わせて空いている高い部屋に入れようとしていたのかも。
お兄さんは何かごまかす感じで、韓国の彼にキーを渡した。
「ありがとう!」
彼は私に英語でそういうと、白いスーツケースを持ち上げて狭くてきしむ螺旋階段を上がっていった。
次に彼を見かけたのは、翌日の夕方だった。私は朝早くから蚤の市に出かけて、そのままルーブル美術館でのんびり過ごして夕飯前にゆっくりしようとホテルに戻ったところだった。彼はちょうどルームチェンジだったようで、同じ四階の狭い廊下でばったりと会ったのだ。
私は会釈した。彼も会釈した。
私が部屋に入りかけた時、彼が私を呼び止めて、韓国語で言った。
「僕は一人なんです。あなたもですか? よかったら、一緒にご飯どうですか?」
迷子の子犬のようなすがるような目で言われると、断ったら罪悪感にさいなまれると思った。だから私は承諾した。彼は嬉しそうに笑った。
そうして私たちは、モンマルトルの丘の途中にある古いビストロで一緒に夕飯を食べた。
そこで私は自分が日本人だと話した。
「私はミナ。東京の旅行会社で働いています」
「僕はユル。学生で、ソウルに住んでいます」
カモのコンフィとローヌの赤ワイン。英語と韓国語をごちゃ混ぜで会話が進む。
「それでどうして韓国語がお上手なんですか?」
彼は韓国語で感嘆した。私も韓国語で答えた。
「私の東京でのシェアメイトが、ソウル出身です。彼女に教わりました」
「そうですか。英語も素晴らしいですね。僕はちょっと苦手なんです」
「フランス語は?」
「挨拶くらい。あなたは?」
「言われていることはわかるけど、自分で話すのはあやしいです」
ユルは私より四つ下の学生で、休学して軍隊に入る前に一人旅したかったのだといった。なぜパリだったのかというと、なんとなく、子供のころから来てみたかったからと言って穏やかに笑んだ。
私たちはそのままワインを一本明けながら、真夜中近くまでおしゃべりに夢中になった。
「ミナ、明日はどこに行きますか?」
「決めていないです。朝起きた時の、気分で決めようかと思っています」
「では、僕もついて行っていいですか?」
私は、シェアメイトのソアが言っていたことを思い出した。ご飯を食べに行くときもどこかへ行くときも、韓国人は大勢で楽しくすることが好きだということ。ユルも一人旅で来たものの、ちょっと寂しいのかもしれない。
逆に私は、一人でどこにでも行ける。人に合わせるより、勝手気ままになんでもしたほうがいい。でも不思議なことに、ユルが一緒に行動したいと言ってきても別に嫌な気はしなかった。一日くらいならちょっと変わった過ごし方もいいかもしれないと思って、私はその提案を受け入れた。
そして翌日、私たちは一緒に歩き回った。シテ島でノートルダム大聖堂のシメールの回廊に上って、サン・ルイ島でアイスクリームを食べて、アレキサンドル三世橋からセーヌ川を眺め、アンヴァリッドでナポレオンの棺を見て、トラファルガー広場からシャンゼリゼをおしゃべりしながら歩き、凱旋門の上からパリを眺めた。
一日だけ一緒にいるのかと思いきや、それから毎日、私たちは飽きずにずっとしゃべり続けながらパリじゅうを歩き回った。ある日は教会めぐり、パッサージュのはしご、また別の日はマレ地区やサン・マルタン、カフェやサロン・ド・テ、そして歴史上の有名人たちの墓地巡りまで。チェックアウトの日も同じで、パリにいる間のほとんどを一緒に過ごしていた。
帰りのフライトも同じ日で三十分違い。どうして私たちの時間がそうも重なったんだろう?
「今度は、ソウルか東京で会いましょう」
ユルはそう言ってゲートの中に去っていった。
それから私たちは時々メールで近況を尋ねあった。ユルが兵役の間はすこし連絡が途絶えがちになったけど……それでも私たちは、パリから戻ってからもずっと連絡を取り合っていた。
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