2.救いと絶望

「大丈夫……?」


母親の優しい言葉に、ゼツは思わず縋りたくなった。

このモヤモヤとした気持ちを、誰かに聞いて欲しかった。


「犬を助けるのは、いけないことなの……? 死んじゃいそうたったんだよ……?」

「いけない事じゃないと思うよ。それに、お父さんも、元々苛立ってたから、きっと何を言っても怒ったんじゃないかな」


そう言いながら、母親は呆れたように笑った。


「ゼツも、お父さんの性格を知ってるんだから、ああ言われることは想像できたでしょう? 病原菌とかなんとか言って、とりあえず気に入らないことを否定したいだけなんだから」

「でも……!」

「せめてもっと上手く言わないとね。反抗すれば余計に怒るって、もうゼツにはわかるでしょう? ゼツは勉強はできるけど、そういう所は賢くないんだから」


そう言われてしまえば、あの子犬を助けられなかったのは自分のせいだとゼツは思うしかなかった。

自分がもう少し上手くやれば、あの子犬は助けられたのだろうか。

そう思うと、心が苦しくなった。


「それに、犬を飼いたかったのなら、せめてもう少し可愛くて良い犬にしましょう? あの犬、言っちゃ悪いけど少し変よ。ちゃんと良い所で買えば、お金をかける価値もあると思うよ」


違う、そうじゃない。

ただ自分は、あの子犬の命を救いたかっただけ。

そう言いたかったけれども、もう言い返す気力も無かった。

全部、自分が上手くできなかったことが悪い結果に繋がった気がした。


あの子犬は、無事生き延びることができたのだろうか。

ゼツは硬い地面に身を委ねながら、ぼんやりと思った。

少なくとも、次の日子犬は公園にいなかった。

それだけが救いだった。




ゼツが体を動かす気になったのは、落ちてから1時間ほど経ってからだった。

変わらない重くて苦しい気持ちと、一瞬だけ聞こえた声に、やはり自分は死んでいないのだろうとようやく実感が生まれ始めた。

死後の世界と期待したくても、視界に映る落ちてきた崖がこれが現実だと証明していた。


ゼツは、ゆっくりと起き上がる。

けれども、痛みも何もない。

体のどこに触れても、血一つ出ていなかった。

寧ろ、ぼんやりとしていた頭も少しだけスッキリしていた。


そしてすぐに疑問に思ったのは、自分の体のこと。

運の良い落ち方をしたとしても、今の状態は異常だった。

いや、少し前に受けた体の衝撃を考えると、何もない事の方が異常だった。


ゼツは近くのあった木の枝を折る。

そして、折れて鋭くなった方で、恐る恐る自分の腕をなぞった。

木のささくれや棘が腕をひっかき、僅かな痛みを感じる、はずだった。


けれども、痛みは一つも感じなかった。

それどころか、傷一つ付かない。

まるで、先端の柔らかい棒に撫でられているようだった。


その事実に、ゼツの心臓は煩く鳴り響いた。

震える手で、木の棒を振り上げる。

死ぬための一瞬で消えるはずの恐怖よりも、ずっと続くかもしれない痛みの方が怖かった。


ゼツはギュッと目を閉じて、木の棒を自分の腕に向かって振り下ろした。

木の棒は、まっすぐに自分の腕へと降りて行った。

けれども、木の棒はゼツの腕を傷つけることなく、ゼツの腕が力に負けて下に押されてしまった。


ホッとする気持ちと、これでは死ぬことができないという絶望が、ゼツの中でぐるぐると回る。

ゼツは混乱しながらも、今度は硬い岩を見つけて、自分の頭を勢いよく打ち付けた。

けれども、岩は勿論の事、自分の頭もびくともしなかった。


ゼツは再びしゃがみ込む。

これから、何をどうすればいいのかわからなかった。

この森には魔物もいる。

けれども自分を殺せないだろうことは容易に想像がついた。


そうなれば選択肢は一つ。帰るだけ。

本当は死ぬ心配がないのであれば、このまま冒険に出てもいいはずだった。

けれとも、ゼツの中にはその選択肢しかなかった。

ただ帰れば、何をしていたのと父親に問い詰められる事は簡単に想像できた。

言い訳も浮かばず体が動かなかった。


せめてこの苦しい心の痛みも消してくれたら良かったのに。

けれども心の痛みだけは、ずっと消えなかった。


「ちょっと何なのよ! こんな時に限って!」


と、突然の女の声に顔を上げた。

それと同時に聞こえてくるのは、魔物の声。

それを気にせず放置できれば、もう少し楽に生きれたのかもしれない。

けれども、その声を放置できるほど、ゼツは人に冷たくなれなかった。


ゼツはその声の方にまっすぐ走り出した。

目に入ったのは、3体の黒いオオカミ型の魔物であるウルフルと、立てなくなっているツインテールの女の子。

女の子は何とか立ち上がろうとする。


「もう、今魔力切れなんだってば!! ……いたっ」


けれども女の子は足を挫いているのか、痛そうにその場に崩れ落ちた。

その隙を見て、ウルフルは女の子に襲いかかろうとする。


「危ない!」


ゼツは迷わず飛び込み、女の子に覆い被さった。

痛みを感じない事も、一瞬忘れていた。

実際、肩を噛みつかれてはいた。

けれどもゼツにとっては何かに優しく掴まれた程度で、その肩の違和感にようやく自分の体の異変を思い出した。

手でウルフルを押せば、簡単にウルフルは肩から外れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る