マスクウェルの悪魔

「申し訳ないね。越前さん。」


 泡は船の部屋で海老沼の足首に、湿布を貼り付けていた。私は別に何もできる訳ではないが、泡に付き添っていた。


「少し足首をひねっているだけなので、安静にしていればすぐに良くなりますよ。」

「体がなまると駄目だね。」

「確か、柔道をやっていたんでしたっけ。」

「ええ、国体にも出たんですよ。でもさすがに柔道選手としてやっていけるほどではありませんでしたからね。物理学者の方に行ったんですよ。」

「文武両道ですね。」

「まあ、そうなりますね。でも、弟はラグビーで全国を獲ってますからね。それと比べれば、私の文武両道は霞みますね。」

「ちなみに、その”おとうと”には”義”がつきますか?」

「つきませんよ。血のつながりのある弟です。


 弟の苗字が上村なので、よく勘違いされるんですけど、弟の妻は名家の生まれなので、苗字を変えたくないということで婿入りしたんですな。」

「でも、海老沼家も名家なんでしょう? 財閥だって聞きましたけど?」

「まあ、それは事実ですけど、父は分家ですし、事業もあまり行っていませんでしたからね。そこまで、名家と言えるほどではないですね。ただ、海老沼本家の遺産が転がってきたくらいですよ。


 まあ、その遺産もどこに行ったのやら分かりませんからね。藤原家の支援が無ければ、私達兄弟は今頃大学に入らずに就職していたでしょうね。」

「それほどまでに、遺産が無かったんですか?」

「ええ、全く。単純に財閥の遺産として、1000億円はもらっていたはずなんですよ。この島を買ったとしても、500億は残るはずなんですけどね。


 どうなったのか……。」

「なるほど……。」


 泡はあえて、開かずの間の話をしなかった。おそらく、海老沼も上村も気が付いているのかもしれないが、それを本人の前で言うことは失礼にあたるからだろう。


「そういえば、せっかく時間があるんですから、海老沼さんの研究内容を教えていただきませんか?」

「そうだね。せっかくの時間だしね。


 今の私はヒートポンプの研究を行っているね。」

「ヒートポンプと言うと、凝縮やら蒸発やらを使って、冷房も暖房もできるようなシステムでしたよね。」

「簡単に言うとそうですね。


 打ち水をすると涼しくなるように、水が蒸発する時の冷却効果はもの凄いものです。これを直接クーラーの代わりにできないだろうかというのが、ヒートポンプの仕組みですね。


 もちろん、逆に、水蒸気を水にする時は、暖房効果があるので、暖房にも利用することができます。


 このヒートポンプの良い所は、普通にエアコンで冷房や暖房を使うよりも消費電力を抑えることができる点ですね。


 外の熱エネルギーを直接使うので、電気で熱エネルギーを作るよりも省エネルギーですから、明らかにエネルギーの消費が少ないことは分かると思います。」

「いわゆるカルノーサイクルですね。」

「失礼かもしれませんが、よくご存じで。」

「いえいえ、私をこの世の全て知っているラプラスの悪魔のような扱いは止めてください。」

「ハハハ、そのジョークはアメリカ仕込みですね。でも、さっきのビリヤードを見ていると、ラプラスの悪魔の擬人化のように思えますよ。


 ……でも、このジョークは隣の彼女には伝わっていないようですけどね。」


 海老沼は私を見つめた。しかし、私はラプラスの悪魔は理解している。確か、この世の全ての物体の運動の情報を知り、演算することのできる存在がいれば、全ての物体の未来を知ることができる。みたいな感じだったと思う。


 知識として知ってはいたが、ジョークが高度過ぎて、笑う前に理解が追いつかないのだ。それに、泡には悪いが、多分面白くもない。


「でも、熱力学の分野では、ラプラスの悪魔よりもマスクウェルの悪魔に触れておくべきでしょうか?」

「情報熱力学は今のトレンドですからね。古典的な熱力学をやっていた私もそろそろ鞍替えしようかなとも思っているのですがね。」

「それはお勧めしませんよ。


 私の経験則的に、軸足は必ず専門分野に置いておく方がいいと思いますよ。今、熱い研究分野に飛び込む海老沼さんのエントロピー増大的な気持ちも分かりますが、ここはエントロピーに減少してもらって……。」

「私は立ち去った方がいいですか?」


 私は意味の分からない物理ジョークに思わずそう言ってしまった。2人は面を食らったような顔をしていた。そして、2人は顔を見合わせて、笑い出した。


「もしかして、すねてる? ごめんね。梨子。


 じゃあ、マスクウェルの悪魔についても解説してあげるから。」

「別に、2人だけで面白ければいいんじゃないですか?」

「ごめんて。梨子は可愛いなあ。


 マスクウェルの悪魔の説明の前に、熱は熱い方から冷たい方向へと進むことは知っているわよね。」

「まあ、それはなんとなく。」

「でも、その方向性を逆転させる方法があるの。」

「……つまり、冷たい方から熱が取られる方向が出来上がるから、熱いものはより熱く。冷たいものはより冷たくなるってこと?」

「そう!


 具体的な方法としては、まず、熱い部屋と冷たい部屋を用意する。その2つの部屋を小さな扉で仕切る。この時、熱い部屋では熱い原子達がうごめいているわけだけど、その原子達にも個人差がある。


 とても熱い原子もいれば、そんなに熱くない原子もいるし、逆に冷たい原子もいる。これらの平均を取った時に、熱い部屋になる訳で、原子同士の個人差はある。もちろん、冷たい部屋でも同じように、とても冷たい原子もいるし、そんなに冷たくない原子も熱い原子もいる。


 この時、2つの間の扉を上手いこと開けることで、熱い部屋から冷たい原子を冷たい部屋に入れて、冷たい部屋から熱い原子を熱い部屋に入れる。


 こうすれば、熱い部屋は冷たい原子が無くなり、熱い原子が入って来るから、より熱くなる。また、冷たい部屋は熱い原子が無くなり、冷たい原子が入って来るから、より冷たくなる。


 こんな操作を何度も繰り返せば、熱い部屋はより熱く、冷たい部屋はより冷たくなる。だから、熱の移動方向が逆方向になっているってこと。


 この扉を開け閉めする奴をマスクウェルの悪魔という訳ね。ちなみに、このマスクウェルの悪魔の解決には、150年を要したわ。


 さて、梨子に150年の物理学者を超えることができるか試してみましょう。


 マスクウェルの悪魔のどこがおかしいでしょう?」

「……そんな原子1つ1つを理解している時点で、おかしいって言いたいところだけど、そんな前提否定をするわけじゃなさそうだから……。」

「……まさかだけど、150年の物理学者がやられちゃったわね。


 まさに、その前提否定をするの。」

「!?」

「原子1つ1つの熱エネルギーの状態を知っている時点で、相当のエネルギーを使っているんじゃない? 


 っていうことよ。実際に、熱エネルギーの情報を仕入れるためには、熱エネルギーがかかっていることが分かったの。つまり、エネルギーを使って、熱の移動を制御していた訳だから、自然な熱の移動法則は保たれていたってことで落ち着いたわけね。


 で、その原子の熱エネルギーの情報を知る方法に焦点を当てた研究がさっき言っていた情報熱力学。熱いものが冷たい方へと移動することがエントロピーの増大って訳ね。」

「まあ、知った所で、さっきのジョークに笑うことができたかは別問題だけどね!」


 私の怒りを無視して、2人は会話に戻った。


「じゃあ、話を戻して……。


 何の話でしたっけ?」

「確か、ヒートポンプの仕組みの話でしたかね。」

「そうでしたね。」

「このヒートポンプの仕組みの応用として、コージェネレーションシステムがありますね。」

「コージェネレーションシステムと言うと、工場で使われているやつですね。」

「そうですね。そのコージェネレーションシステムは工場の排熱をヒートポンプの仕組みで、暖房や冷房、または、給湯などに応用するシステムです。


 いままでは、工場の排熱は垂れ流しだったので、エネルギーの無駄だけでなく、局所的な温暖化の原因とも考えられていました。なので、このコージェネレーションシステムは、与えられたエネルギーを効率的に使うシステムだと言えますね。」

「そのヒートポンプやコージェネレーションシステムの研究を行っているわけですね。」

「ええ、まだまだ懸念点の多いものですからね。


 例えば、ヒートポンプは外の熱を使うという都合上、外気温に左右されるので、安定的な冷暖房を行うことが難しいです。コージェネレーションシステムは排熱がある以上常に発電されるので、流動的なエネルギー供給が難しいとされています。


 他にも問題は山積みなのですが、このような問題点を1つずつ潰していくのが、私の研究ですね。」

「なるほど、未来がありそうな研究ですね。」

「まあ、未来が見えない研究でないとさせてもらえないという世知辛い話もありますがね。


 私はちょうど興味と研究が合致して良かったです。」

「したい研究をできることが一番ですもんね。」

「そうなると、乾さんは少しかわいそうなのかもしれませんね。


 だって、もとは宣利さんと同じ植物生態学だったんですけどね。宣利さんには及ばないと、化学の学科に転部したんですからね。本人は化学も悪くはないと言ってはいますが、果たして本心はどうなのか分かりかねますね。」

「兄弟で同じ研究分野なんてこともよくあるものですけどね。」

「だから、乾さんと宣利さんは相当仲が悪いのかもしれませんね。


 まあ、宣利さんを好きな人はなかなかいないのかもしれませんけどね。」

「そんなに嫌われているんですか?」

「ええ、典型的な自己中心人間ですね。自分の常識を他人に押し付けて、他人の気持ちなど理解しようともしない。横暴な態度と他人を貶めることしか興味のない外道。


 彼の葬式に誰も参列しなくても、私は驚きませんね。


 ……と誰かが言っていたのを聞いたことがあります。」

「ある意味では素晴らしい日本語ですね。」

「ですが、私は彼の性格を的確に言い当てている発言だと思います。


 そうでないと、こんな辺境の島で開催されるクリスマスパーティーに集まりませんよ。彼の横暴さは研究では何人を寄せ付かせない魅力になりますが、対人関係では、強い拘束力がある一方、全体の幸福度の総和を減らしていることは明らかでしょう。」

「さっきの誰かの発言に負けず、饒舌じょうぜつですね。」

「これもその誰かの発言と言うことにしておいてください。この発言が宣利さんにばれると非常に危ういのでね。」

「言われなくても、誰にも言いませんよ。」

「それならいいですけど……。


 そういえば、乾さんは浄水器のチェックに行くと言っていましたけど、荷物を持っていかなくても良かったんでしょうか?」


 海老沼は皆の荷物が置かれた場所を指差した。確かに、上村は工具箱、雅が厚めの本を持っていっただけで、乾を含む他のメンバーは荷物の山から何かを持っていく素振りはなかった。


「何かが無いと乾さんは浄水器のチェックをできないんですか?」

「ええ、浄水器に取り付けるフィルターは必ず必要になると思います。」


 海老沼がそう言うと、泡は荷物の山から乾の荷物を探し出し、荷物を漁り出した。荷物からは服やパソコン、歯ブラシセットなどが出てきた。


「泡……それは、駄目じゃない。」

「あった! これが浄水器のフィルターね。」


 泡は乾の荷物から小さいジュラルミンのケースを取り出した。


「ここに、浄水って書いてあるわ。


 乾さんに届けてあげましょう!」

「やば……。」


 私は無残に荒らされた乾の荷物に目を落としていた。

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