対称性の誤認

「十分面白い作品じゃない?」

わたくしもそう思いますわ。」


 泡と雅の2人は、顔を寄せ合って読んでいた原稿用紙の束を船内の机に置いた。先ほどの船の外での会話を終え、私と泡と雅の3人で、私の書いた原稿用紙を読んでいた。


 その原稿用紙には、天神教授に酷評された『桐生は罪を犯した。』の完成版が記されていた。


「悪くないと思うけどね。


 短い中にこれだけ叙述トリックを仕込むなんて、なかなかないんじゃない? 4重の叙述トリックなんてなかなかないし、ちゃんと読者が解くことができるヒントが散りばめられているしね。大体はフェアだね。


 私の感想になるけど、ミステリーの読み物としては好きかな。」

「私もミステリーは大衆文学と位置付けられるので、純文学や古典よりかは読む機会が少ないのですが、ミステリーには魅力があるのだなと感銘を受けましたわ。」

「絶賛ってこと!?」

「まあ、私は絶賛してもいいと思うわ。


 ……ただ、天神さんが批評した気持ちを汲み取ることは出来るかもしれないわね。」

「分かるの?」

「まあ、おそらく、天神さんは叙述トリック自体が嫌いなんでしょう。」

「確かにそんなこと言っていた気がするけど、なんで叙述トリックが嫌いなんですか?」

「叙述トリックは差別から来ている。


 こう考えたことは無いかな?」

「……今の所、極端な意見にしか聞こえませんね。」

「確かにそうだね。


 でも、この小説で描かれている男女を誤認させる叙述トリックだけど、これは差別から来ていると考えられないかな?」

「まあ、そうと言われれば、そうなるかもしれないかな?」

「だって、男は大学で科学を教えるけど、女はそのようなことはしない。という社会一般に共有されている意識を利用することで、この小説は成り立っているわけだよね。


 それは、社会の男尊女卑の差別意識を利用している差別的なトリックと言い換えることは出来るのではないか?


 と問われると、梨子は何て返す?」

「……。」

「まあ、あまりにも極論だから、返す言葉が無いのかもしれない。でも、この男尊女卑の差別意識は今後どうなるだろうね。


 この先の未来では、大学で理系になる女性が男性の数を増やすかもしれない。実際、日本の大学入試の理系に女子枠が設けて、理系研究者の女性進出を進めているくらいでしょ?


 こんな傾向が進めば、社会全体の意識として、大学で科学を教えている人間と言えば、女性となる可能性もある。


 そんな社会では、この小説での男女誤認は意味が分からないものになってしまうのよ。」

「それは、古典のようで興味深いですわね。


 有名な所で言えば、能面の女性の面が美人だと考えられていたということですわね。今では、あのようなふくよかで、薄目の顔ではなく、すっきりとして、クリクリの目を持つ顔が美人とされていますわね。


 よって、ここから分かることは、時代によって常識は変容するということでございますね。」

「その通りね。だから、今回見せてもらった梨子の小説は今の時代にしか通用しない作品であるという言い方ができるわね。


 私は今を書くことが悪いとは思わないけれども、未来を見据えて書いた作品の方が、売れ続けることになるわね。


 一昔の作品を読むと、今の時代では考えられないことが起きている。その作品を完璧に理解するためには、その一昔の環境を知っておく必要がある。その知識を補うという作業は、少しのわずらわしさをもたらし、作品の魅力を減らす。


 そのような魅力の減退を防ぐためには、表面上ではない、構造的な魅力の構築が必要だね。」

「そのようなベテラン作家がたどり着きそうな究極的な理論を作家の卵に押し付けるのは、酷ではありませんこと?」

「それはそうね。今取り上げたのは、男女誤認トリックだけ。他の叙述トリックは、桐生の年齢以外、普遍性があるからいいと思うけどね。


 でも、もう1つ叙述トリックの欠点を挙げるとしたら、フェアだけどアンフェアな所ね。」

「なにそれ、とんち?」

「言葉が足りなかったわね。


 小説の中ではフェアだけど、小説を飛び出すと一気にアンフェアになる。


 これが叙述トリックの特徴よね。このような仕組みは小説の中に没入する人にとっては、受け入れられないことが多いわね。


 なんとなく、斜め読みの習慣がついているから、あまり気にならなかったけど、じっくり読む人には苦手な人もいるんじゃないかしら?」

「……教授がそのタイプだってことですか?」

「まあ、そうかもね。」

「でも、私はその没入する読者のために、作中で、桐生は今からあなたを騙しますと宣言しているんですよ。


 本当に作品に没入しているんだったら、読者を騙す宣言を読み取るべきではないですか? 


 それとも、教授は読解力が足りなくて、視野の狭い人間だと思えばいいということですか?」

「少なくとも、この4つの叙述トリックを読み解けている時点で、視野の狭い人間ではないとは思うけどね。


 おそらく、問題はこの小説で対称性の鏡をどこに置くか?


 ということになるだろうね。」

「また、泡が分からないこと言ってきた。」

「ごめん、ごめん。


 なんとなく、アブストラクトの癖がね。ああ、アブストラクトは論文の最初に要約した内容を乗せて置くことね。」

「良かった。


 知らない単語の説明に知らない単語が出てくる迷宮に迷い込むところだった。」

「まあ、それはさておき、対称性の鏡について、話していきましょうか。


 その前に、人間の小説の認識プロセスについて確認していくわね。


 人間の目が小説の文字を読み、文字情報として脳で認識され、過去の知識と照らし合わせて、脳で理解される。


 このようなプロセスのはずよね。でも、人間はこのプロセスに対称性があると思い込んでしまうの。


 まず、情報の対称性。


 今私が読んでいる文字がこの小説の中の登場人物全員が知っていることだと思う対称性ね。


 今回の小説で言うと、語り手の誤認ね。


 この小説の地の文の視点と語り手の視点は同じである。つまり、読者の視点と字の分の視点には対称性があると勘違いしてしまう。


 だけど、この対称性は破れて、実際の視点は、桐生の部屋の隣の人物だったことになる。


 つまり、小説の文字と自分の視点の間に鏡を置いて、対称性を持ってしまう勘違いってことね。


 次は、常識の対称性。


 これはさっきも言ったけど、男女誤認や年齢誤認かな。自身が生きている時代や環境によって、構築される価値観や常識が小説の中でも担保されているはずであるという対称性があると勘違いしてしまう。


 しかし、この対称性は破れて、桐生と佐倉はそれぞれ女性と男性だったし、桐生は40代だった。


 これが、自身の常識と小説の中の常識に鏡を置いて、対称性を持つ勘違いね。


 そして、次は、現実の対称性。


 今回の小説の場合では、逆に現実の非対称性が使用されていたが、これは、パリティ対称性で言う所のコバルト60に当たるようなものだね。


 この小説で、桐生の話を聞いていた受講生にとっては、この非対称性を持っていたでしょうね。だって、受講生は桐生の友達から聞いた話だと思っていたんだからね。


 だから、受講生たちは、桐生の話は話の中での桐生と講師の佐々木は同一人物ではないものして理解していたはずだね。


 だから、話の中の人物と目の前で話している人物とは非対称性を持っていた。実際は、桐生が隣人から聞いた話を話していたので、桐生が登場人物ということになり、話の登場人物と話し手が同じという非対称性の破れが起こってしまう訳ね。


 でもこれは、最初の前置きで、聞いた話だという前置きをしているから、非対称性を持ってしまった。だから、普通は何の前置きが無いと、人は話し手と話の主人公に対称性を持ってしまう。


 他にも、読んでいる順番が時系列順になっているはずであるという時間連続体の対称性もあるかもね。だけど、別に細分化する必要もないし、そもそも今話した3つの対称性も集合で言うと共通部分がありそうな不十分な対称性だから、説明は省くね。


 とりあえず、小説を読むときにはたくさんの対称性の誤認をしている可能性がある訳だね。


 このような対称性の誤認を面白いと思う人もいる一方、腹が立つと思う人もいる訳ね。」

「だから、教授は腹が立つ方の人間だったって言うこと?」

「まあ、長々と話したけど、結局はそういうありきたりな結論になるかもね。


 教授はゲーム理論の人だから、そう言った情報の対称性には人一倍厳しいのかもね。」

「ふーん。まあ、でも今の対称性の話は小説に使えそうね。」

「確かにね。


 情報の対称性は、犯人が最初に分かっている倒叙ミステリーでよく使われているからね。犯人の犯行を先に見せておいて、犯人しか知り得ない情報を探偵が指摘することで、読者も犯人も騙されるってこともあるからね。


 それに、常識の対称性はよくSFに使われることが多いわね。例えば、人間と家畜の関係を反対にして、豚や牛が人間を家畜のように扱う主従逆転はSFを考える上でよくある手法だもの。


 こう言った対称性を知っておくことは、あらゆる面で大事なことだよ。」

「そうかもね。参考にする。」

「それなら良かったわ。」

「でも、2人には面白いって言ってもらえたからいいや。」

「その言葉が欲しいなら、いくらでも言うわよ。私の素直な感想だからね。」

「私もそうですわ。」


 3人は少しほほ笑み合った。


「……あら、もう鏡幻島が見えてきたわね。」


 泡は窓の外から船の進む方向に、青い海の水平線に少し盛り上がった緑の薄暗い影が見えていた。


「もうすぐ着くわね。」

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