上村
「上村さん、また去年みたいにウリミバエの不妊虫の話をして、鏡の話を誤魔化すつもりですか?」
「去年は僕は僕なりに用意はしていたんだよ。ただ去年は海老沼さんのコバルト60を聞いていたら、どうにも話したくなってしまったんだよ。そしたら、自分の発表時間いっぱいまで話してしまっただけさ。」
「ほんとかなあ?」
「それを言うなら、乾さんも毎年毎年、飽きもせず
「……。」
「鏡の中のミルクは美味しくないって言う最初の話は面白かったが、サリドマイド事件の話以降、薬害の話ばかりで、鏡像異性体が原因で人体に悪い影響がありましたっていう一辺倒の話ばかりじゃないか?」
「それを言われると痛いね。」
私は上村と乾が言い合っている間に、こっそりと泡に話しかける。
「ねえ、ねえ。泡。今の話の解説貰える?」
「鏡像異性体は実物の物質と鏡の中の物質は重ならないという関係のこと。
例えば、右手を鏡に映して、鏡の中の右手とは重ならないことは分かるでしょ。だって、鏡の中の右手は左手に見えるものね。そんな関係の化学物質があって、それが鏡像異性体ね。
で、そのような関係の鏡像異性体は、構成している原子は全く同じだけど、形は違うから、性質が全く違うの。この性質の違いが良く認知されるようになった事件がサリドマイド事件。
ドイツでサリドマイドって言う薬が生み出されたんだけど、その薬が売り出されてから、奇形の子供が生まれる事案が多くなったの。その奇形の子供を生み出す原因となっていたのが、サリドマイドに含まれていた効用成分の鏡像異性体だったの。
こんな鏡像異性体が引き起こす薬害は結構あるから、乾さんは毎年そう言った話をしているのね。ちなみに、鏡の中のミルクは美味しくないって言う言葉はおそらく鏡の国のアリスの言葉が元ネタね。
鏡の中のミルク。つまり、ミルクの中の化学物質が鏡像異性体になると、美味しくないらしいわね。流石に飲んだことは無いから分からないけどね。
で、コバルト60とウリミバエの話は、おそらく沖縄のウリミバエ根絶計画の話ね。
コバルト60はパリティ対称性の破れでも話したけど、放射崩壊するの。つまり、放射性物質を出すってこと。放射性物質は何となく、やばそうなイメージがあると思う。実際、コバルト60の放射性物質も一部の生物の生殖機能を失わせる効果があるの。
例えば、ジャガイモの芽を除去するのに、コバルト60が使われているわね。一応、ジャガイモの芽の除去程度なら人体への影響は少ないと日本では考えられているから、普通に使われているわね。
でも、コバルト60はウリミバエっていう蝿には効果が抜群よ。ウリミバエはもともと外来種だったんだけど、沖縄県から侵入したの。そのウリミバエは農作物に卵を産み付けて腐らせてしまうの。
海外では恐れられて、ウリミバエに8mmの悪魔という異名まで付いたくらいよ。そんなウリミバエにコバルト60を使うと、子孫を残せない個体を生み出すことができるの。
その不妊個体を大量に放つことで、ウリミバエ全体の生殖機会を減らし、ウリミバエの個体を格段に減らした。そして、最終的にはウリミバエを根絶することができたの。
これは、生物を根絶することのできた唯一の事例と言っていいわね。」
「はあ、よく知ってるね。」
「一応、
「そっか。」
私と泡がこそこそと話している間にも、上村と乾の会話は一段落ついたようだった。
「……ところで、去年、都の言っていた島の木の秘密は分かったのか?」
乾が上村に問いかけた。
「僕は動物生態学者だぞ。島の木の秘密なんて、植物の謎が分かるはずがないじゃないか。」
「でも、社会学やっている都が解けたんだから、一番分野の近い君が解けないといけないだろう?」
「……その、島の木の秘密って言うのは何なんですか?」
泡が乾達に問いかける。
「ああ、これは内輪ネタで申し訳なかった。
実は、去年のクリスマスパーティーで、都がこの島の木の秘密を解き明かすことができたと言ったんだ。そして、その秘密を来年のパーティーで発表すると言ったんだよ。」
「つまり、今年のパーティーで、その島の木の秘密を発表するつもりってことですか?」
「ええ、そうなるね。
なんとか聞き出そうと、都に聞きに行ったが、じらされたまま今年のクリスマスパーティー前になってしまった。」
「その島の木の秘密について、何か分かることはありますか?」
「都は島の木の秘密としか言っていないから、何もそこから読み取ることのできる情報はないね。
でも、島の木は知っての通り、緻密な対称性の元に成り立っている。島の真ん中にある鏡幻荘を中心にして、90度回転すれば、森の木々がぴったりと重なる。この対称性に秘密があるんだろうね。」
「他に何か気になるところはないんですか?」
「うーん、島の形が真ん丸で、平安か鎌倉に海底火山の噴火で出来たままの無人島としか……
あっ! そういえば、道に生えたドングリの木は、違和感があるかもしれないな。」
「ドングリの木? ブナ科の植物ですか。」
「ああ、確か、コナラだったかな。その木だけ立っている場所がおかしいんだよ。
鏡幻島は円を十字に四等分された形になっているんだ。その島を十字に切り取った線は道になっている。だから、海から鏡幻荘に向かう道は四本ある訳だ。その道以外の場所は基本的に森になっていて、そこに木が生えているんだ。
しかし、コナラの木だけ道の真ん中に堂々と生えているんだ。
もちろん、対称性が崩れないために、4本の道すべてにコナラの木が生えているんだよ。この木は道の真ん中に生えていて、正直、邪魔なんだ。鏡幻荘から海を見たくても、このコナラの木が邪魔してしまうからね。」
「なるほど、そのコナラの木に何か秘密がありそうですね。
……ちなみに、コナラの木以外には何が生えているんですか?」
「なんだっけ?」
乾は上村に目線を向けた。
「クスノキやムクノキ、エノキとかですかね。」
「……コナラの木はいつから生えているか分かりますか?」
「……さて、詳しいことは分かりませんが、僕の父である寿樹が鏡幻島での研究を始めたのが、60年前です。研究のために島にある木の種子を採取した後、更地にして、土壌に含まれる種子などを取り除いた後、保管していた種子を島の対称性が担保される様に植えたそうです。
島の自然をそのまま保護しつつ、対称性が植物や生態系に与える影響を調べたかったようですね。」
「その島の調査はどのようなものですか?」
「木本の高さと胸高周囲長、状態などを調査しているようです。
寿樹の調査と宣利さんの調査が行われていますが、宣利さんが留学していた3年は調査が途切れていたと聞いていますよ。」
上村がそう喋っている間に、泡は白衣のポケットから折り畳まれた鏡幻島の地図を取り出した。泡は地図を広げて、しばらく地図を見つめた。
「……なるほどね。」
「……もしかして、島の木の秘密、分かっちゃいました?」
「いえ、まだ確証はないので……。」
「ってことはいくつか仮説はある訳だ。」
「ええ、おそらく、島の宝に関わることかもしれません。」
「おお、それはぜひ聞きたいものですね。」
「いえ、まだ、実際に見て見ないことには分かりません。
それに、今はまだ言ってはいけないような気がします。」
「じゃあ、都さんと同じく教えてくれないということですか?」
「まあ、そうなりますね。」
「それは残念。
まさか、秘密を解いて、宝を独り占めしようって訳じゃないでしょうね?」
「……さあ?」
泡は少しほほ笑みながら、そう言った。
「その木の秘密に、開かずの扉を開けるヒントが隠されているということですか?」
「そうかもしれませんね。
我が父、海老沼寿樹の遺産が隠されているかもしれないあの開かずの間を開くには、島の謎を解く必要があるということだな。」
どうやら、上村は単純に開かずの間に寿樹の遺産が残されたまま、宣利に利用されていないと考えているらしい。
「なら、都さんは今日の内に宝を独り占めするかもしれない。
それに……。」
乾は泡に目を向けた。その乾の目線を感じ取って、泡は吹き出すように笑いだした。
「少なくとも私は大丈夫ですよ!
研究で十分なお金は頂いていますし、私はお金には興味がありません。」
「さすが、泡さんほどの研究者に言われてしまうと、否定しようがありませんな。」
「なんなら、私が独り占めしないように、見張りを付けますか?」
「そこまではしませんよ。
だって、宝を持ち帰ろうとしたら、すぐに分かりますからね。」
「そうですね。
でも、まだ私の中のでの仮説ですから、あまり期待しないでくださいね。」
「まあ、もう私が何を言っても、越前さんは何も言ってくれなさそうですな。
これは諦めるしかなさそうだ。」
乾はそう言って、引き下がった。私は話が落ち着いたので、少し島の木の秘密を考えてみる。
島の木は全て対称的で、コナラの木だけが道の真ん中に生えている。私の想像では、木の対称性をパズル的に解釈して、謎が解けるのだろうと考えている。
泡が鏡幻島の地図を見て、鏡幻島の秘密を分かったような顔をしたのだから、木の配置に秘密があるはず。
そして、泡は実際に見ないと分からないと言った。なら、木の立体的な構造が関わってくるはず。
……と私は鏡幻島への期待を膨らませていくのだった。
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