第19話 アトリエの風景

「大和ーっ、今度会ったら、ハードル走だかんな!」

 素晴は、空へと吠えた。

 咲久弥と素晴は、四號の願いを容れて、御崎研究所から脱出した。

 そして、一路北へと、まだ見ぬアトリエへと、手に手を取って向かっているのだった。

 そこはかつて、彼らがこの世界へと出現した廃寺だったというけれど……


 辺りは、静かな雑木林だった。

 草木は、どうせZ毒素を蓄積しているのだろうに、やはり泰然と佇んでいるのだった。

 静か過ぎる緑の中を進むうち、山田の暴虐や、自分たちの無知や、目の前で失われていった命の記憶が、咲久弥と素晴を苛んだ。

 だから彼らは、時折叫ばずにはいられないのだった。

「焼きそばの隠し味と言えば?」

 今度は、咲久弥の番だった。

「粉山椒とナンプラー! 忘れねーぜ!」

 素晴は、聞こえよがしに即答したのである。

 山椒は虫媒花を咲かせるから、もはやこの世界では結実しない。

 魚醤を造ろうにも、まずは魚が手に入らないし、どのみち発酵に必要な細菌が、Z毒素を産生してしまうのだろうけれど……

 少年たちにとって、確かに触れて、手に入れて、信じられるものは、結局のところ、互いの温もりだけなのだった。


 やがて、雑木林が切れたかと思うと、四號に聞かされていた通りの小ぶりな建物が、咲久弥と素晴の眼前に現れたのである。

 既に荒れ果ててはいるが、元は瀟洒な造りだったのだろうと偲ばれる。二人が中に入ると、そこここに絵画や画材が散乱していた。


 そして、庭に面した日当たりの良い一室に脚を踏み入れた刹那、咲久弥は、息を呑んだのである。

 その部屋の壁一面に、クレヨンで一思いに線描したような、肖像画を発見したからである。それは、踊る——ダンスの最初のステップを踏み出した瞬間の、少年の姿を鮮やかに切り取った絵だったのだ。

「これって……咲久弥じゃないか!」

 素晴は、即座に見抜いた。

「そうだよ……私が、こんな服でこのステップを披露したのは、研究棟の屋上で夕食を摂った、あの時だけだったはず……あれを見ていたのか、四號……」

 咲久弥は咲久弥で、肖像画の描き手のことを、瞬時に見抜いたのである。

 四號は、この建物のことを、「素人画家のアトリエ」に喩えていたが、彼自身もまた画家だったわけである。


 四號は、軍事用人狼の中では唯一、咲久弥や素晴の仲間たり得た存在だった。

 咲久弥を助けてくれたこともあった。

 麦藁帽子を冠って、鍬を振るう姿は、あたかも勇者のようだった。

 山田のクローンたちが闘争のみを求めた、あの備蓄倉庫の地獄絵図でも、四號は、その渦に呑まれることなく、冷静さを保っているように見えた……

「早く来いよ、四號!」

 素晴は、肖像画へと語り掛け、咲久弥は、何度も頷いたのである。


「ところで……咲久弥」

 素晴は、肖像画と、その前に立つ本人を見比べたのである。

「その角って……生やしっぱなしなのか? だとしたら、これから先、おまえの頭突きが、ちょっと怖いんだけど……」

「ああ、これかい?」

 咲久弥は、細く朱色を帯びた、額の双つの角を、指先でなぞったのである。

「どうやら、角を生やしたほうが、風を操りやすいみたいだ。けれどほら……ご覧、念じさえすれば、角を引っ込めることもできるんだよ」

「出し入れ自由か! 俺の尻尾みたいだな!」

 素晴は、とても嬉しそうだった。いつぞやのように、腰布を捲って尻を向けると、「あ、そーれ!」と掛け声しながら、しゅるり、またしゅるりと、尻尾を出し入れしたのだった。

「いや、それはどうだろう……一緒にされたくはない、かもしれない……」

 いくら恋仲となったところで、全てを許せるわけではない——それが、咲久弥の厳然たる感想だった。


 そして、どのくらいの時間が経ったろう……

 二人は、折に触れて、様子を見るべく屋外へと出ていたが、ついに素晴が、雑木林に向かって、鼻をひくつかせたのである。

「人狼の臭いだ……」

「四號!?」

 前に出ようとした咲久弥を、素晴は制した。

「人狼の……血の臭いだ……危ない!」

 素晴は、咲久弥を突き飛ばして、自身も横っ飛びに回避した。

 たった今まで二人が背にしていた、アトリエの門扉に、猛烈な勢いで飛来した槍が、深々と突き立ったのである。怨嗟の声を思わせる低い唸りを上げて、しばらく振動を止めないほどだった。

 それは、研究所の人狼たちが使っていたのと同じ槍だった。

「……四號!」

 咲久弥は、悲痛な声を上げた。喉も張り裂けんばかりだった。

 門扉の槍には、何かが括りつけられていたのである。それこそが……四號の生首だったのである。

 闘いを生き抜いて、自分の足でアトリエに到達したのは、軍事用人狼——三號だった。

 灰色だったはずの毛並みは、同胞の血で赤黒く染め上げられていた。


「咲久弥!」

「ああ、わかっているさ!」

 咲久弥は、涙の粒を撒き散らしながらも、翡翠色の眼をカッと見開き、朱色の角を生やしたのである。


 もしも、四號以外の人狼が襲来したらどうするか——それは、考えたくはないけれども、考えておかねばならないことだった。

 二人は、既に結論を出していた。咲久弥が人狼を眠らせて、素晴がとどめを刺す。簡単なことだ!


 咲久弥は、すぐさま、薫風睡蓮陣を放った。

 その爪先から放たれた全ての旋風は、雑木林から姿を現した三號へと襲い掛かったのである。

 しかし、三號は眠らなかった。旋風に巻かれるたびに、僅かに体勢を崩しはするものの、ただそれだけだったのである。

 咲久弥は、すかさずもう一度、術をお見舞いしたが、結果は同じことだった。

 備蓄倉庫では、一撃で眠りこけて鼾までかいた、あの三號が……

「まさか……とことん血に酔いしれた人狼は、咲久弥の術でも眠らないのか?」

 素晴が、恐ろしい推測を口にしたのだった。


「全員ぶち殺してやったぜ……

 だがまだ俺は飢えている……

 握り潰せる心臓はどこだ……

 殺すのは最後にしてやると言ったろう……

 約束通り殺しに来てやったぜ……」

 三號は、不気味に歌いながら、おもむろに歩いて近づいてくるのだった。


「私に考えがある!」

 咲久弥は、シミュレーションの中での、人狼との戦闘を思い起こしていた。

 満身創痍で、最後の最後に、自分が放ったあの術を——

 咲久弥は、四號から手渡された小槍を持ち出していた。

 今こそ、その尖端を、地面に突き立てたのである。


銀風蜘蛛陣ぎんぷうちちゅうじん!」

 咲久弥は、敢えて術に与えた名を叫んだ。

 たちまち、小槍の尖端から三號の足元へと、細く素早く地割れが疾る。

 三號の巨躯の直下から噴き上げた烈風は、獣人の巨躯に、蜘蛛の糸のごとく執拗に纏わりつきながら、銀の刃が回転するごとくに斬りつけたのである。

 もっぱら、三號の目元に斬りつけたのだった。


「チキショーッ! 前が見えねえ!」

 やがて、妖術の風が止んだ時、三號は、視力が急激に低下したことを認めざるを得なかった。

「だがなあ、てめえは、嫌ってえほど甘く匂うんだよ、風鬼!」

 三號は、体臭を頼りに、咲久弥を追い詰めることにした。

 嫌がる美少年の白い裸体を暴いて玩具にした記憶に、音を立てて舌舐めずりしながら……


 咲久弥と素晴は、アトリエの庭に先回りしていた。

 四號のスケッチにあった通り、古い井戸や石灯籠のある庭だ。

 程なく、三號が庭に現れると、咲久弥は、風刃を連発したのである。

 三號は、せせら笑った。彼の目にも、咲久弥の姿は、ぼんやりとした影のようには映っているのだ。しかも、咲久弥は、ちょっと痛い程度の風を放つことによって、自ら道案内してくれているも同然なのだ。

 風に導かれるまま歩を進めて、やがて、あとひとっ飛びすれば、白くて甘い獲物を抱きすくめられると確信した。ゆえに、三號が身を屈めた、その刹那——

「どおりゃーっ、こいつが俺のおっ、勇者の剣だあーっ!」

 風下でこの時を待ち構えていた素晴が、漆黒の獣人の姿で、石灯籠の火袋の部分を手にして駆け寄って、三度にわたるフルスイングで、三號をぶん殴ったのである。

 視力が低下した三號は、膝の高さにぽっかりと口を開いた井戸に気づいておらず、ついに真っ逆さまにその中へと転落したのである。


 井戸の底から、盛大な水音が響いた。


「これで……終わったのか?……」

 咲久弥は、素晴へと駆け寄った。

 素晴は、しかし、咲久弥の問いへの返答を保留した。

 水音は、いつまで経っても止まなかった。

 三號は、転落したものの絶命しておらず、溺れる様子も見せずに、井戸の中で泳いでいるのだった。

「なんか……殺虫剤をお見舞いしたのに、いつまでもガサゴソと足掻いてるみたいだ……」

 咲久弥は、井戸端にへたり込んで、声を震わせたのである。

「おい! 三號のやつ、井戸を登ってこようとしてやがるぞ!」

 素晴の叫びに、咲久弥の心臓は跳ねた。

「熱っ!」

 咲久弥は声を上げた。それは、心臓ではなく、左の二の腕のことだった。

 咲久弥は、服の袖を捲って、そこに装着した勾玉を確かめた。なんと、瑠璃色だったはずのそれは、いつしか血のような赤へと変色して、発火するのではないかというほどの熱を帯びていたのである。


 そして、辺りには、突然の霧が立ち込めた。勾玉の変化と呼応しているかのようだった。

「白い霧……」

 咲久弥は呟いた。

 突然の白い霧といえば、咲久弥と素晴がこの世界に出現した際、まさにこの場所に立ち込めたのだと聞かされた。

 また、山田が語った、彼自身の神隠しの逸話にだって登場したではないか……

「行こうか、咲久弥」

 素晴は、人間の姿に戻って、手を差し出した。まるで、日常の散歩にでも誘うかのように。

「ああ、おまえとなら、どこへでも」

 咲久弥は、迷わずその手を取ったのだった。


『——咲久弥……私は、御崎美道理のデジタルクローンであり、あなたに内在化された成長促進プログラムでもあります。あなたが必要としてくれるなら、いつかまた会うこともできるでしょう。どうか、想い人と幸せに……』

 白い霧の真っ只中で、咲久弥は、お頭の声を聞いた気がした……


 三號が、ついに井戸から這い上がった時、咲久弥の体臭も、素晴の気配も、辺りからすっかり消え失せていた。

 そこは、とても静かな世界だった。

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