第16話 イノセントな花
白い花が、咲いていた。
葉の付け根の、産毛がたくさん生えているように見える場所に、三羽ばかりの白く小さな蝶たちが、翅を広げて休んでいるかのようだった。
実は、蝶のように見えるそれらこそが、白く小さく可憐な花なのだ。
その白い花は、今はまだ、写真の中にしか咲いていないのだけれど……
いつか現実に咲いてくれたなら、いわゆる自家受粉を行うため、昆虫の助けを得ずとも結実してくれるはずなのである。
「こういう花って、見たことあるよ。スイートピーだっけ?」
家庭菜園入門書を手にして、写真に見入っている咲久弥に、素晴は話し掛けた。
「ああ、確かに似ているね。だって、スイートピーって名前からして、『甘い豆』とか、『いい匂いの豆』だなんて意味なわけだし、花の見た目も似ているさ」
咲久弥が、ほんの少しばかり英語の意味を解説しただけで、素晴が、息を詰まらせたかのように絶句したものだから、にわかに「国語ばかりか英語もボロボロだった説」が、咲久弥の脳裏をよぎった時……
「スイートサクヤ……今朝もすっげースイートだった咲久弥……」
素晴が、背後から抱き締めてきて、とんだ言葉を耳元で囁いたのである。
咲久弥は、たちまち真っ赤になるよりほかにどうしようもなかった。
「おい、素晴、スコップを取ってくれないか」
そう頼んだのは、四號だ。
「ああ!」
早速その要求に応じた素晴のことを、四號は、くんと嗅いだのだ。
「おい……どうしておまえから、咲久弥の汗や唾の匂いがするんだ?」
今度は、素晴が、爆発しそうに真っ赤になる番だった。
「おまえたちは……いっぺん、宇宙空間まで舞い上がって、星になってから超新星爆発して、全裸で踊り狂いながら大気圏突入して、どこぞのお花畑の……いや、この枝豆畑の肥料になってしまえ!」
四號は、鍬を振るいながら、よくある呪いの言葉を吐いたのである。
彼は、枝豆の種を蒔くべく、研究所の中庭の一角で、畝立ての農作業に精を出しているのだった。
それは、奇跡のような顛末だった。
四號は、山田博士によって、咲久弥や素晴との接触を禁じられた後も、一人、中央棟で書籍の発掘に勤しんでいた。すると、休憩室のベッドと壁の隙間から、家庭菜園の入門書を発見したのだ。
本をパラパラと捲ったところ、なんと、紙の領収書が挟まっており、そこには、とあるレンタル家庭菜園の所在地が記載されていたのである。
軍事用の人狼にとっては、徒歩圏内だった。
因みに、領収書に記載されていたのは、御崎美道理博士の夫の名前だった。
ともあれ、四號は、単身、現地へと向かい、幾許かの農具と、僅かながら枝豆の種を入手する事に成功したのである。
そして、三日前に接触を禁止されたはずの、咲久弥や素晴が見守る中、入門書の記述に従い、たった一本しか手に入らなかった鍬を振るって、畝を作っているのだった。
唯一の鍬を他人に譲ろうとはせず、率先して使いこなすその姿は、ある種の誇りに満ち溢れていた。
「こうして見てると、かっこいいよな。なんか、鍬が勇者の剣みたいでさ」
素晴は、偽りなき賛辞を贈った。
四號が、農具や種子のついでに持ち帰って冠っている、大きな麦藁帽子までもが、なんだかそれっぽい装備であるかのようだった。
「枝豆か……基本的に肉食主義であるこの僕でも、少々くすぐられるな……」
いつの間にやら、山田までもが、中庭に出て来て、四號の初めての農作業を、腕組みしながら見守っているのだった。
彼は、枝豆の種子を持ち帰った大手柄を理由に、四號に課していた禁止事項を解除したのである。咲久弥や素晴も、研究所の敷地内であれば、自由に行動して構わないと言い渡されたのだ。
離反した軍事用人狼四名の行方は、杳としてわからない。あの日咲久弥を傷つけて逃走した後、研究所に侵入した形跡は見つかっていないのだった。
「ふん、あの男が、こうも有意義な遺品をのこしていたとは、思ってもみなかったぞ」
山田が、吐き捨てるように言ったのは、美道理の夫のことに違いない。
山田が、ゾンビ化した美道理を食らったらしいと知っている三人は、暫し沈黙したのである。
「ところで、四號。枝豆の水遣りには、研究所の地下水を使うように。我々は皆、ゾンビウイルスに耐性を持つとはいえ、将来のことを考えれば、Z毒素による汚染を、できうる限り避けたいところだ。きみたちがマッピングしている雑木林の椚の実からすら、Z毒素が検出されているのが現実だからね。ここの地下水は、未だ清浄だからいいようなものの……」
山田は、ついに、その事実を三人に伝えることにしたのである。
「Z毒素……ですか?」
咲久弥は、翡翠色の眼を見開いた。
「そうだ。研究者ではないきみたちにとっては、馴染みのない言葉かもしれんな。ゾンビウイルスは、実は、細菌にまで感染する。そして、ウイルスに感染した細菌は、厄介な毒素を産生するのだ。それこそがZ毒素だよ。植物にとってありふれた常在菌であっても、ひとたびゾンビウイルスに感染すれば、毒素を生み出し続けることになる。ゆえに、オメガ・パンデミック以降も、人間などより余程泰然として健在であるかのような植物たちでさえ、実は、毒素を蓄積しているのだ。もしも、ゾンビウイルスに耐性を持たぬ誰かが、この毒素を経口摂取してしまったならば、消化器をはじめとした多臓器不全に陥り、苦しんで死ぬことになるだろう」
重たい沈黙が、場を支配した。
「マスター、つまり、我々は……やがて生まれ来る子供たちを、枝豆や椚の実でもてなすこともままならないというのですか?」
沈黙を破ったのは、四號だった。彼の顔に影を落としているのは、決して、麦藁帽子の鍔だけではなかった。
「この世界って、なんでこんなにハードモードなんだよ……」
素晴は素晴で、天を仰いだ。
「おい、誤解しないでくれたまえ。子供たちがゾンビウイルスへの耐性を獲得してさえいれば、Z毒素にも耐えられるわけで、問題ないはずだ。咲久弥くんの子供たちは、父親から耐性を受け継ぐはずだし、僕の子供たちに関しては、人工子宮の胎内にいるうちに、ワクチンを接種するつもりだ。咲久弥くん、子供たちのワクチンの材料とするから、改めて採血させてくれ」
「はい!」
咲久弥に異論なぞあるはずもなかった。
「いやはや、きみに採血を依頼するために中庭に出たというのに、暫し農作業に見入ってしまったよ」
山田は笑った。
「博士……子供たちを宿す人工子宮には、ワクチンを打つわけにはいかないのですか? 人工子宮は、生体パーツでできているのですよね?」
咲久弥は、率直に質問した。
「無理だ。以前にも言ったはずだろう、人工子宮は使い捨てなのだと。何しろ、オメガ・パンデミック以前に製造された代物だからね。ゾンビウイルスやZ毒素には耐えられない。ワクチンですら毒にしかならんのだ。なんとか出産に漕ぎ着けるまでは、清浄な地下水で運用してやるしかないのだよ」
「そうですか……」
咲久弥は目を伏せ、睫毛を戦慄かせた。
そもそも人工子宮というからには、子宮を模して造られただけの、物言わぬ肉塊に過ぎぬのだろう。それでも、死を運命づけられながらも、六人もの子を産んでくれる「母」に対して、咲久弥は、手を合わせずにはいられなかった。
その朝、咲久弥は、やけに頬を紅潮させて、中庭で畑に張りついている四號の元へと駆けて来た。もちろん、素晴を引き連れてのことである。
「ああ、おはよう、咲久弥に素晴。残念ながら、まだ全く発芽していないんだ。本によれば、十日ほどかかることもあるらしいから、気長に待つしかないんだろうが……」
四號は、少年たちが、枝豆の畑を見に来たものだとばかり思っていた。
「そうかい。じゃあ、枝豆のことは、先々の楽しみに取っておくとして……あのね、四號……博士が言ったんだ。私はもう、精子を提供しなくていいんだって!」
「うん!?」
四號は、すぐには理解が及ばなかった。
「六個の受精卵が、無事に着床したって! 人工子宮が、子供たちを宿してくれたんだよ!」
三人の男たちは、それぞれに神妙な面持ちで、水しか出ないシャワールームの個室へと入った。
咲久弥がねだったところ、山田が、人工子宮を収めた培養槽の見学を許可してくれたのだが、体と身なりを清潔にすることが条件だったからだ。
「おい、咲久弥。いよいよ新人類の父になる気分はどうだ?」
そんなことを尋ねたのは、四號だった。個室に仕切られていても、声くらい届くのだ。
「私は決して、そんな大それた気分ではないよ。ただ、人類が全くいなくなってしまったら、人類が長い時間をかけて織り成してきた文化までもが、途絶えてしまうだろ? それは寂しいことだと思うんだ。歌舞音曲ひとつ取ったところで、人類の誰かが生み出して、大切に伝えてきた文化なのだから。私は、せめて子供たちに、歌舞音曲や、トモダチ高校で学んだようなことは伝えたいと思っている」
「じゃあ、俺は体育担当だな!」
素晴は、嬉しそうに言った。
「ハードル走のルールは?」
「咲久弥の意地悪ぅ……ふん! もはやこの世界では、俺様がルールだあっ!……って、実際、いっぺんに六人も生まれてくるんだろ? 細けーことを考えるより先に、まずは体を動かさないと、やってられねーんじゃね?」
「素晴の言うことにも、一理ありそうだな。俺は、軍事用として生み出されたが、慈しみ育むべきものが生まれてくるというのが、こうも嬉しいことなのかと噛み締めている……」
咲久弥と四號は、洗濯した衣服に着替えた。素晴は、新しい腰布を巻いたのだった。
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