第15話 運命の抱擁

 二人は、山田のオフィスを辞した。

 その前に、咲久弥は、交渉は成立したのだからと、明日以降も精子を提供し続けることを、山田に確約させられた。

 咲久弥は、情報の洪水に呑まれたかのようで、全てを理解できたかは疑わしい。

 また、山田の言葉をどこまで信じてよいのやらという疑念も湧いていた。

 山田は、あの瑠璃色の勾玉に関して、一切言及しなかった。

 一方で、端末の地図にあった、「研究所から北へ十キロ」という地点については、山田の説明を信じるのであれば、謎が解けたことになる。

 しかし、できることなら、一度は自分で、素晴と共に、その場所を訪れてみたかった。

 咲久弥は、左腕に装着した勾玉が、またもや熱を帯びたように感じた。袖を捲って見てみたが、特に異常はないようだった。


 ふと中庭を見た咲久弥は、意を決して、階段を駆け降りたのだった。体が痛まないわけではなかったが……

「どうした……俺は、おまえたちと接触するわけにはいかんのだが」

「わかっているさ。私はただ、窓を背にして独り言を言うだけだから……おまえもそうしてくれると嬉しい」

 そこは、ガラスが残っている窓だったので、四號が、咲久弥が請うた通りに背中を預けてくれたことが、音と振動で伝わってきた。

 咲久弥は、山田のオフィスを辞した直後、中庭に四號の姿を見つけて、彼への頼みごとを思いついて、階段を駆け降りたのである。

 四號は、察したように、咲久弥が立った一階の窓辺へと歩み寄ってくれたというわけだ。

 四號は、実は、背中を向ける前に、病衣の襟ぐりから咲久弥の首筋を盗み見て、そこに刻まれた噛み傷が、既に随分と薄らいでいることを見て取った。咲久弥は、やはり、妖の血を引くだけあって、心の傷はともかく、体の傷の治りは早いようだった。

「四號、まずは礼を言わせておくれ。おまえが異変を知らせてくれて、素晴と一緒に駆けつけてくれなかったら……私の苦しみは、もっと長引いていただろうから……本当にありがとうよ」

 ふいに、咲久弥の脳裏や粘膜に、人狼たちによる暴行ばかりか、助けなぞついに現れなかった、あの土蔵で玩弄された悪夢までもが、鮮烈にフラッシュバックした。しかし彼は、声を震わせながらも、礼の言葉を言い切ったのである。

「ありがとう。もっと早くに咲久弥を助けたかったけど、おまえがいなければ、もっとずっと遅くなったかもしれないって、俺も思うから」

 素晴までが、神妙に礼を述べたのである。

 掛け替えのない存在の危機を救っておいて、その手柄を独り占めしようとはしない辺りが、おそらく素晴の持ち味なのだろう。いつもは、子供じみた独占欲を、ダダ漏れにしているくせに……

「おい、番犬、仕事しろよ。これから先、必要とあらば、俺の首であっても食いちぎるんだぞ」

「わかってらー!」

 素晴が、牙を剥くようにして睨みを利かせる気配が、ガラス越しでも伝わったのである。


「四號、実は頼みたいことがあるんだ。この研究所から北へ十キロの地点に、廃寺があるらしいんだが……」

 咲久弥は、改めて切り出した。

「寺?」

「そうさ。山田博士を信じるのであれば、私と素晴は、そもそもそこで発見されたというんだ。自分の足で訪れたいのはやまやまだが……いったいどういう場所なのか、見てきてもらえないだろうか?」

「かまわん。おまえは、心身を休めておけ」

 四號は、そう即答したうえで、疑問を口にした。

「だが……その地点に存在するのは、寺ではなく、御崎家の別荘のはずだぞ。知っての通り、俺以外の四名が、御崎家の関連施設を探索していたが、そこも対象としてリストアップされていた。ただ、建物の規模が小さいということで、後回しにされていたな」

「え?……」

「まあ、いい。百聞は一見にしかずだ。とりあえず俺が見てきてやる」

 四號は、ガラス窓から背中を離したが、暫しその場に佇んだ。

「おい、咲久弥。どこまで信じる気だ? マスターや、俺のことを……」

 それは、咲久弥にとって、重たい問い掛けだった。

「そうだね……信じた相手に裏切られて、壊れてしまいそうなほど痛い目に遭う……きっと、そんなことだって、ありうるんだろうね。けれど、私はおまえを信じたい。信じたいから信じるんだ。うわっ、どうした素晴、狼に変身したりして……やんっ、くすぐったいっ、あぁっ……」

 四號は、もはや付き合いきれんと、さっさと出発したのである。


 四號は、日没前に、易々と帰還を果たした。

「一通りの探索は行ったぞ。まず、御崎家の私有地であることを示す看板が残されていた。何者かにボコボコにへし折られた看板ではあったが……あそこは、御崎家の別荘と見て、間違いないだろう」

 四號は、またも窓辺で咲久弥たちと落ち合い、窓の隙間からスケッチブックを差し入れた後、依頼主と背中合わせになったのだった。

「うわぁ……わかりやすい見取り図だね。ありがとうよ、四號」

 スケッチブックには、別荘の様子が描かれていたのである。

「建物は小さく、別荘というよりも、素人画家のアトリエのような造りだった。庭の井戸や石灯籠が、やたらと古びていたから、元は古い寺だったのを建て替えたのかもしれん。暴徒に物色されたような痕跡はあったが、取り立てて盗むべきものもなかったのではないかと思えた。俺の力では、隠し部屋だの隠し階段だのを見つけることもできなかったよ。要するに……収穫なしだな」

「そうか……アトリエのような場所だったから、スケッチブックが手に入ったんだね」

「それはそうだな。ああ、絵の具や画材なら、まだ多少は残っていたぞ。咲久弥が欲しいのなら、取ってきてやろう」

「いやいや……私には、絵心はないよ。絵を描くよりは、踊りたいな」

「そうか……咲久弥は確かに、画家よりもモデルに向いているかもしれんな」

「素晴、待て。お座り。無駄に狼に変身するんじゃない」

 今回は、咲久弥は、やんちゃな番犬を冷静にあしらえているようだった。

 いずれにせよ、四號は、肩をそびやかすしかなかった。


「現地調査では、収穫らしい収穫がなかった……という情報が、収穫だったのかな……」

 咲久弥は、素晴の部屋の天井に、独り言を投げ掛けた。素晴がベッドで休息するよう勧めてくれたのである。

 本日、四號に「廃寺」の調査を依頼して、その帰りを待っていた間、山田が、素晴の部屋にいる二人を訪ねてきて、いつもの肉をいつもより塩を効かせて焼いたものを差し入れたのである。

 そればかりか、かつては門外不出の機密文書だったという、「ミイラ復元プロジェクト」について綴った分厚い紙の束を、「興味があるなら読めばいい」と置いていったのである。

 山田なりの気遣いなのか、はたまた監視の一環か、それとも両方なのだろうか……

 咲久弥にしたところで、四號に頼みごとをしたことを、山田の前ではおくびにも出さなかったのだ。山田のような大人には、きっともっと、思惑や秘密があるのだろう。

 プロジェクトについて記した紙の資料は、少年たちには、あまりにも難解だった。素晴は、「いつでもどこでも、ひと眠りしたくなったら、こいつを読めばいーんじゃね?」と、晴天色の瞳をどんよりと曇らせたのである。

 ただ、帰還した四號の報告と合わせて考えると——研究所は、突如として出現した咲久弥と素晴という生体を獲得したことをきっかけに、復元の目処が立たぬミイラのデータを、二人と矛盾せぬよう改竄した。廃寺についても御崎家の私有地とすることで、諸々を隠蔽したうえで、ミイラ復元プロジェクトを中止した——ということは、確かであるようだった。


 この世界にいきなり現れたのだとすれば、私はやはり、異世界で生まれ育って、こちらの世界に飛ばされたということなのだろうか……

 夜の帳が下りた頃、咲久弥は、そんなことを考えていた。

 またもや山田の言葉を信じることが大前提となるが、その異世界は、咲久弥に課されたシミュレーションの舞台と、よく似ているのだろう。

 咲久弥にとって、踊ることこそが生きることであった、あの世界——

 体感で何年にもわたって過ごした世界なのに、今の咲久弥には、さほど懐かしいとも思えなかった。

 やはり、昨夜のあの悪夢は、今でも焼け火箸のごとくで、とてもじゃないが受け入れ難い。

 さらに、師として親として慕っていたお頭も、美道理博士が造形した架空の人物であるかもしれないのだ。

 枕席に侍るような商売を無理強いしないお頭なんて、存在しなかったかもしれないのだ。

 さらに言えば、仲間を守るために死に花を咲かせるような吾兵衛も……

 そして何より……咲久弥には、あちら側で素晴と出会った記憶がないのである。

 素晴と共に生きてさえゆけるなら、世界なんて、どこだっていいのに……

 人狼の女王は、風鬼を食らうという。

 それでいて、咲久弥と素晴を追放したという。

 もしや、咲久弥が半妖であることが、女王の逆鱗に触れたのだろうか。

 あるいは、まさか、素晴が咲久弥のことを想ってくれたせいで……


 素晴は、咲久弥を労わって、今夜も自分のベッドを彼に明け渡して、狼の姿で床に伏せているのである。

「ねえ、素晴……まだ、起きているかい?」

 咲久弥は、声をかけずにはいられなかった。なぜだか震えてしまう手を、彼へと伸ばしながら……

「俺はもう寝た。おまえも寝ろ」

 しかし、思いがけずぶっきらぼうな答えが返ってきた。素晴は、体を伏せて目を閉じたままで言ったのである。

 咲久弥は、ビクリとして手を止めた。

「そうだね……おやすみ」

 素晴は、咲久弥にベッドを譲り、ドアのすぐ内側に伏せているのだ。もしも侵入者が現れたら、すぐにも対処できるように。

 そして、早く寝ろなんて言うのも、咲久弥を労わってのことだろう。

 咲久弥は、いつの間にか熱を帯びていた体を、ドサリとベッドに収めて、一度は素晴へと伸ばしかけた手で、目元を覆ったのだった。

 素晴は、十二分に気遣ってくれている。そもそも、軍事用人狼の腕を食いちぎってまで助けてくれたじゃないか。私はそのうえ、何を望もうとしたのだろう……


 素晴は、実は悩んでいた。発端は、夢に出てきた、あの流麗という女だ。

 彼女があまりにもおっかなかったため、人狼の女王なのだとか、素晴と咲久弥を異世界へと追放したのだとか、全く記憶にない話を告げられても……信じる気にしかなれないのだった。

 流麗は、風鬼の血を引いているからって、咲久弥のことを食らおうとしたのだろうか。

 全くけしからん。食べたりしたら、もう二度と、咲久弥のダンスを見られなくなってしまうじゃないか!

 しかし、素晴は気づいてしまったのだ。もしかしたら、「舐める」ということは、「食べる」ことに似ているのではないかと……

 今日、素晴は、窓辺で咲久弥が四號と話すのが面白くなかった。だから、狼の姿に変身して、咲久弥のシャツの裾から頭を突っ込んで、その素肌を思うままに舐め回したのである。すると、胸から脇腹へと走った傷が、未だ治りきっていないことが、舌触りでわかった。

 そして、咲久弥はいつになく、大きな悲鳴を上げて、身を捩った。

 四號が戻ってきた時にも、素晴は、咲久弥のことを舐めたくて仕方がなかったのだが、冷淡に断られてしまったのである。


 素晴が咲久弥を舐めるのは、好きだとか、甘えたいとか、ちょっと違うぞとか、もっと構ってほしいだとか……そうした色々な気持ちを伝えるためだ。

 けれど、もしや、咲久弥にしてみれば、四人がかりで痛めつけられるだとか、女王に食べられてしまうだとかいうことと、似ているのではないだろうか……

 ふとそう思ってしまった途端に、今もまた狼の姿となっている素晴は、伏せたまま動けず、咲久弥のことも見られなくなってしまったのだ。せっかく咲久弥が話し掛けてくれたのに、なんだかヘンテコな返事をしてしまったような気がする。

 咲久弥のことを舐めるのは大好きだ。けれど、咲久弥に嫌われてしまったら、どうしよう……

 そう思うと、居ても立ってもいられず、どこか土下座じみた勢いで、ただひたすらに伏せ続けるしかない、漆黒の狼なのだった。


「咲久弥ぁ……大丈夫なのか?」

「おまえが、ベッドを譲ってくれたから、よく休めたよ。それに、博士とも約束したことだから……」

 翌朝、咲久弥は、言葉少なに、山田のオフィスへと向かったのである。

 例の容器を携えて戻ってきた咲久弥は、部屋の主である素晴に、伏し目がちに伝えたのである。

「悪いが……部屋の中で、一人にさせてもらえないだろうか」

 素晴は、コクコクと頷いて、咲久弥の特別任務のために、しばらく部屋を明け渡すことにした。咲久弥が容器を満たすまでの間は、閉じたドアの外側に陣取って、見張りを務めることにしたのである。

 咲久弥が部屋の中に消えてしばらくすると、低い溜め息が聞こえた。そして、声を噛み殺したような、せつない喘ぎが耳をくすぐった。

 素晴は思わず、ドアにへばりつくようにして、耳をそばだてたのである。

 ところが、程なくして、喘ぎ声は止んだ。

 そして、素晴は大慌てで飛びずさった。

 咲久弥が、内側からドアを開いたからである。

 

 咲久弥は、少しばかり乱れた病衣姿で、翡翠色の眼を潤ませていた。そして、艶やかな唇を戦慄かせながらも、一大決心したように言葉を紡いだのである。

「やっぱり、今日は、無理みたいだ……一人では……」

 咲久弥は、素晴の手を取った。

「ねえ、素晴……私と一緒に、踊ってはくれないか?」

「ぅぇえ!? 俺には無理だよ! ダンスなんて……」

 素晴は、わけがわからぬほど取り乱して、咲久弥の手を振り解いてしまったのである。

 咲久弥は、何かをこらえるように、暫し顔を伏せていたが、やがて顔を上げた時には、笑みを浮かべていた。とても寂しげな笑みだった。

「そうか……おまえが嫌だと言うなら、仕方あるまい。はっきりと断ってくれて、ありがとうよ。締まらないものだね……私は、自分から誘うのは初めてで……」

 咲久弥は、消え入るように、部屋の中に戻ろうとした。まるで、日向の淡雪のように、そのまま本当にいなくなってしまいそうだった。

「咲久弥……」

 素晴は、ふいに、激しく吹き荒れる桜吹雪に呑み込まれたように感じた。咲久弥の甘い体臭が、それほどまでに濃密に感じられたのである。


 咲久弥は、よろめくように室内へと戻ると、両手を壁について涙した。

 咲久弥にとって、恋心を自覚するだなんて、生まれて初めての経験だ。

 生きていたい。強くなりたいのだ。素晴と一緒にいるために……

 けれど、そんな身勝手な想いのせいで、素晴を困らせたくはない……

「素晴……」

「なあ、呼んだか?……呼んでくれたよな!」

 咲久弥は驚愕した。ズカズカと歩み寄ってきた素晴に、背後からきつく抱き締められたからだ。

「咲久弥、どうしよう……俺、今、咲久弥のことでいっぱいになっちゃって、どうしたらいいのかわからないんだ……」

 咲久弥は、たった今までとは異なる涙の粒を振り撒いた。それは、とても綺麗な悦びの結晶だった。

 咲久弥は、力強い抱擁の合間を縫うようにして、素晴と顔を向き合わせると、彼の唇に、ごく微かに自分のそれを重ねたのである。

 素晴は、答えを得たとばかりに勇んで、咲久弥の唇を舐め回した。

 やがて、咲久弥が、薄紅色のその唇を薄っすらと開いた途端に、少し紫を帯びた暗紅色で肉厚の素晴の唇は、はちきれんばかりの弾力に任せて、唇と歯列の奥まで躍り込んだのである。

「んぅ……」

 咲久弥は、鼻にかかった声を漏らす。

 二人は、呼吸すら忘れるほどに、互いの口を貪り合ったのである。


 やがて、咲久弥は、素晴に触れた。腰布越しに、そっと大切に。

 素晴は、まさに狼のような唸り声を上げた。

 彼はついに、初めての発情を迎えたのである。

 咲久弥は、病衣のズボンを、すとんと落とした。

「おいで、素晴!」

 その声は、甘くも凛としていた。

 

 こうして、素晴は、目覚めたばかりの刀身に無二の鞘を得て、咲久弥は、第二の心臓を内奥に宿したのだった。


 今、恋をしている——


 二人の心は熱く蕩け、体中の細胞の一つ一つに至るまでが、沸騰したように初恋を実感していた。

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