第14話 はじまりの神隠し
研究棟の一角には、シャワールームがある。内部は個室に仕切られており、今となっては、水しか出ない。
咲久弥と素晴は、それぞれの思いを胸に、それぞれの個室に長々と入り浸ったのだった。
やがて、二人は、揃って素晴の部屋へと向かった。医務室で独りになるのは二度とごめんだと、咲久弥が言ったからだった。
「なあ、咲久弥ぁ……俺ってもしかして、おまえのこと怖がらせちまったか?」
二人並んでベッドに腰掛けて、レモンティーを差し出してから、素晴は、おそるおそる尋ねた。
五號の腕を食いちぎったことを言っているのだ。
素晴にしてみれば、あれは、そうするしかないという衝動が、瞬時に沸騰したがための行動だった。ミリも微塵も後悔してはいないのだが……
咲久弥は、しっかりと首を横に振った。
「怖くなんてなかったさ。むしろ、私が今もなんとか正気でいられるのは、おまえが、ああまでして助けてくれたおかげだ。ありがとうよ」
咲久弥は、素晴の手に縋るように、自分の手を重ねたのである。
「悪いが、私の話を聞いてほしい。他の誰にも話せないから……」
咲久弥は、意を決して、昨夜の悪夢のあらましを打ち明けた。夢の中で男たちに贄のごとく慰み物にされたこと。そしてそこに、猿楽一座の吾兵衛が大きく関わっていたことを——
「吾兵衛は、シミュレーションの登場人物だった。仲間のために死に花を咲かせるような男だったんだ。けれど、夢に出てきた吾兵衛は、まるで別人で……それに、シミュレーションの中では、私は、ああまで弄ばれた経験なぞなかった。シミュレーションが架空の絵物語だったんなら、なぜ今になって、あんな夢を見なくちゃならないんだ……たかが夢幻だろうと思うかもしれないが、弄ばれた感触があまりにも生々しくて、まだ体に残っているように感じるんだ。手と口を封じられて、風ひとつ使えなくて、私は、どこまでも惨めだった……」
翡翠色の眼から、涙が、一筋、二筋と流れ落ちた。
人狼たちに乱暴され玩弄されたことは、それだけでもひどく辛く悔しい出来事だったのに、おかげで、あの悪夢までもが、より鮮烈な傷として咲久弥の心身に刻みつけられてしまったのだ。
「ごめんよ、咲久弥。夢の中まで助けに行けなくて……」
素晴は、うるうるとした上目遣いで言ったのである。
「けど……おまえ、医務室では、風を使って抵抗したんだろ? あれって、手や口の自由を奪われる前にやったことだったのか?」
素晴の素朴な疑問に、咲久弥は、目を瞬いた。
「いや……夢中でやったことだし、どのみち人狼たちには通用しなかったが……あの風を放ったのは……腕を縛られ、口も塞がれた後だった気がする……」
咲久弥は元々、呪文を唱え、掌から風を放つことしかできなかった。
しかし、シミュレーションの終盤、人狼との戦闘で危機に陥った際、初めて、呪文もなしに掌以外から風を生み出したのである。
そして、現実でも、先程の医務室で……
そうだ。思い返してみれば、シミュレーション強制終了の直後にも、発作的に呪文の詠唱なしで、素晴に風を浴びせ倒したような気がする。
「咲久弥……もっと早くに助けに行けなくて、本当にごめんよ。けどさ、おまえも、シミュレーションを頑張った成果なのか……以前よりも強くなったってことなんじゃないのか?」
咲久弥の胸中を、爽やかなそよ風が吹き抜けた。
素晴の言う通り、風の妖術の扱いについては、些か進歩したかもしれない。
しかし、よもや、あんなにも侮辱され愚弄された自分ごときが、「強くなった」などと評されるとは、思ってもみなかった。
彼は、ふふっと、笑い声を零した。
「そうだね、素晴の言う通りだ。諸悪の根源は、なかなか助けに来てくれなかった素晴だよ!」
だが、たちまち童のような泣き顔と化した素晴を見て、咲久弥は慌てた。
「ああ、素晴! 冗談なんだよ、堪忍しておくれ。私は、これから先も、おまえと共に生きてゆきたい。そのためには、もっともっと強くなりたいと思う。それが、私の本当の気持ちさ」
「そっかー! 俺も、負けていられないなー!」
素晴は、嬉しそうに尻尾を振ったのだった。
咲久弥がまずまず落ち着いたところで、今度は、素晴が、夢の話を切り出した。
「あの瑠璃色の勾玉のことを考えながら眠ったら、流麗って名前のおっかない女が、夢に出てきて、すっげーびびったよ! 風鬼を生贄に捧げろなんて言いやがるんだぜ! おまけに、夢の中の俺は、母親が人間で、半妖だってことになってた。俺は、生粋の人狼のはずなんだけどなぁ……」
咲久弥は、その話を聞きながら、衣服の袖越しに、昨日見つけたあの勾玉に触れた。
彼は、考えた末に、それを左の二の腕に装着していたのだ。おかげで、山田に聴診器を当てられた際にも気づかれなかったし、人狼たちに衣服を剥ぎ取られた際にも、床に捨てられた袖の中に残っていたため、無事に回収することができたのだ。
その勾玉が、不思議と熱を帯びているように感じられた。
ただ、夢の中とはいえ、素晴が半妖だったという話を、咲久弥は、聞き咎めずにはいられなかった。
昨日勾玉と同時に入手した端末には、素晴や咲久弥の元になったと思しきミイラの資料が残されていた。素晴が半妖なのだとすれば、その資料の情報と矛盾するのだ。そして、風鬼のミイラに関する情報に至っては、もっとずっと決定的に、咲久弥と相違していた。
「寺に祀られていた風鬼のミイラは、生粋の風鬼であるばかりか、女だったというんだ!」
素晴は、晴天色の眼を、まんまるに見開いた。
「ぇえっ!? それって、どういう意味なんだ?」
「いや……私にも、しかとしたことはわからないが……」
かつて、トモダチ高校の勤勉な生徒だった咲久弥は、自分なりの推理を述べたのだった。
「なるほど。つまり、きみたちは、この僕を脅迫するわけか」
山田は、被害者じみたことを言い立てた。
「いいえ。質問に答えてさえいただければ、明日以降も精子を提供させていただくと申し上げているのです」
咲久弥は、しっかりとした口調で言った。脅迫ではなく交渉なのである。すぐ隣に素晴がいてくれるからこそできることだった。
二人は、山田のオフィスを訪れて、昨日中央棟で、ミイラの資料を発見して閲覧したことを伝えた。そして、自分たちの元となったはずのミイラと、自分たち自身の間になぜ相違点が存在するのかと、説明を求めたのである。
事前に二人で相談した通り、咲久弥が私物を隠し持っていることや、彼を苛んだ悪夢については伏せたが、素晴がどんな夢を見たのかは伝えたのである。
「流麗、か……」
なんと、山田が最も反応を示したのは、その名に対してだった。
「まあ、よかろう……話してやろう。旧人類が滅びた今、研究所の体面を死守する必要など、もはやないのだから」
山田は、ゆっくりと語り始めた。
「この地方には、昔から神隠し伝説が存在すると、以前にも話したろう。実は、この僕自身が、神隠しの経験者なんだ」
山田は、事もなげに、思いも寄らない話を切り出したのである。
「あれは、僕が、研修医として市民病院に勤務していた当時のことだ。とある当直明けの朝、病院の廊下を歩いていたら、不意に真っ白な霧が視界に立ち込めたんだ。ああ、さては過労死の兆候かと覚悟したよ。ところが、ものの数分で、霧がすっかり晴れたかと思うと、目の前では村祭りが開催されていて、白拍子が舞い踊っていたんだ。まるで、時代劇の世界に迷い込んでしまったかのようだった。そう、そこは、咲久弥くんがシミュレーションで経験したような、異世界だったんだよ」
咲久弥は、目を見張った。彼に課されたシミュレーションが、どうして時代劇風だったのか……その謎がいよいよ解き明かされるのではと、胸が高鳴った。
「不幸中の幸いと言うべきか、僕は、あちら側の世界の人狼に、その日のうちに接触できた。まあ、いきなり襲撃されたとも言うが……そして、襲撃者と互角に渡り合ったところ、彼らの女王への目通りを許されたんだ。
こちらの世界では、人狼の毛並みは大抵灰色だが、向こうでは、黒い毛並みが主流のようだった。
そして、こちらの人狼は、個々に人間の社会に紛れ込んでいて、同族との繋がりは希薄だが、向こうの世界では、強い妖力を誇る女王が、人狼を束ねていた。人狼は、変身能力と、犬や狼を使い魔のごとく使役する能力を除けば、もっぱら力押しの種族なんだが、女王ともなると、強力な妖術を使いこなすらしい。
妖は通常、妖の肉を食らうことは好まない。シンプルに人肉のほうが美味いと感じるものだが、人狼の女王は、妖力を維持するために、風鬼をせっせと食らうのだそうだ。風鬼の肉は、妖力を維持するための、いわばサプリメントのようなもので、女王は、一妻多夫生活を謳歌しつつ、夫や夫候補たちに、生贄の風鬼を狩り集めさせるのだという。
妖は総じて、人間より長命だが、人狼の女王ともなると、妖力と生殖能力を維持したまま、数百年にわたって君臨するのだそうだ。大したものだな。
僕は、知的好奇心の赴くまま——もとい興味本位で、女王にあれやこれやと質問をぶつけたわけだが、そうこうするうちに、『この無礼者めが!』と一喝されてしまった。どうやら、知らないうちに、彼女の地雷を踏んづけてしまったらしい。
そして、女王の妖術によって、こちら側の世界に強制送還されたわけさ。その術は本来、女王が裏切り者を追放するために用いるものだったそうだ。
僕は、気づくと、元通りに病院の廊下にいた。そして、『仕事のストレスで丸一日遁走した研修医』というレッテルを貼られてしまったよ。ただ、僕自身は確信していたんだ——この地に神隠し伝説が生まれた要因を実体験したのだとね。
既に察しているかもしれないが、僕が目通りした、異世界における人狼の女王の名は……流麗、だった」
その名は、素晴が見た夢と、ものの見事に符合していた。
「ぅえぇっ!? あんなおっかない女が、実在してやがんのか?」
素晴は、人間の姿をしていたが、たちまち総毛立ったことが、隣にいる咲久弥にも伝わってきた。
「さて、僕がこの研究所に入職した後のことだが、この研究所からほんの十キロほど北にある廃寺で、風鬼と人狼のミイラが発見されたんだ。三百年ほど前のミイラだと推定されたが、咲久弥くんが閲覧したという資料にあった通り、風鬼は女で、人狼は男であり、双方とも、人間と交雑した痕跡はなかった。
僕は直感したよ。彼らは、あの異世界から、駆け落ちしてきたのではなかろうかと。風鬼を女王の生贄にしたくはなかった人狼が、二人で手に手を取って逃げ延びる道を選んだのではないだろうかと——こう見えて、僕は、ロマンチストだからね。ただし、他の研究者を納得させるに足るエビデンスなんてあるはずもないから、黙っていたのだがね。
二人は、残念ながら、こちらの世界では、あまり長生きできなかったようだ。もしかしたら、人狼の女王の逆鱗に触れて、瀕死の状態でこちら側へと追放されたのかもしれない。あるいは、あちら側にはないが、こちら側には存在するような感染症にでも冒されたのかもしれないね」
果たして、ロマンチストとは——咲久弥は、疑問を感じないわけではなかったが、山田の話の腰を折らないほうが得策だと判断して、口には出さなかった。
また、「研究所から北へ十キロ」という地点には、思い当たる節があった。咲久弥の私物の端末に残されていた地図である。
「早速、御崎研究所において、風鬼と人狼のミイラの遺伝子から、生体を復元するプロジェクトが始動した。しかし、思わぬ失敗が重なって、成果を得られずにいるうちに、後発の他所の研究所が、土蜘蛛のミイラから生体を復元することに成功したと発表したんだ。
だから、きみたちを、ミイラから復元した個体だと偽って、トモダチ高校に通わせることになった。御崎研究所の体面と、この研究分野におけるイニシアチブを死守するためだった」
「おい、おっさん! 俺たちは、どっから生えてきたんだよ!」
素晴は、突っ込むように噛みついた。咲久弥も、その通りだと感じた。
山田は、あれこれと解説したが、二人の真の出自に関しては、今のところ一切触れていないのだ。
「ここから先は、美道理から聞いた話だ。彼女はある日、何人かの部下を伴って、廃寺の調査に赴いた。二体のミイラが発見された場所なのだから、その復元を成功へと導くファクターが見つかるのではと、藁にも縋るような思いだったらしい。すると突然、彼女と部下たちは、白い濃霧に包まれた。そして、しばらくして霧が晴れたかと思うと、きみたち二人が、身を寄せ合うようにして出現していたというんだ。素晴、おまえが言ったそうだよ、『女王に追放された』んだと」
「……全く記憶にねーんだけど……」
素晴は、ひどい棒読みのように言った。
咲久弥にしたところで、そんな記憶を持ち合わせていないのは同じだ。彼は、自分たちの出自は、実は、寺で発見されたミイラとは無関係なのではないかと推理していたが、想定外の情報が多すぎた。
「美道理は、きみたちを手厚く保護した。オメガ・パンデミック以前のことだったし、御崎家の財力も相俟って、きみたちが美道理に感謝して信頼を寄せるには、十二分な厚遇だったようだな。美道理は、真実を追究すべき研究者としては葛藤したらしいが、結局、きみたちの記憶を消去して、ミイラから復元した個体だと偽った。研究所の権威を守る道を選んだんだよ。
ああ、記憶を消去したというよりは、記憶を再生できなくしたと言ったほうが正しいだろうな。シミュレーションを強制終了するような真似を、意図的に行ったというわけだ。事実、美道理が設計した咲久弥くんのシミュレーションは、咲久弥くんの中に眠っていた、生まれ育った異世界での記憶をベースにしたものだったようだからね」
「おっさん……おっかない女王が実在するだけじゃなくて、俺が半妖だってのも事実なのか?」
「その通りだ。おまえの遺伝子を解析して判明した、客観的事実だ。おまえは、生粋の人狼だが、民生用であるため些か小柄にデザインしたのだと教えていたが、あれは嘘だ。いつかおまえが、自分が半妖ではないかと疑いだしたら、記憶が蘇りつつある目安になるんじゃないかと考えたわけだ。そんな日はなかなか来ることがなく、おまえはおまえなりにすくすくと育ったわけだが……まあ、あの女王の印象がえらく強烈だったという一点には、僕も同意しよう」
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