第12話 瑠璃と流麗
やがて、咲久弥たち三人は、研究所へと戻ってきた。椚の木のマッピングに関して、一日分のノルマを達成したからである。
なかなか日の長い季節であり、日没までには、まだ余裕があった。
「どうした、咲久弥」
素晴は声をかけ、四號も怪訝な表情を浮かべた。
中央棟を通り過ぎようとした辺りで、ふいに、咲久弥が立ち止まったからである。
「あの……何かを思い出しそうな気がして……」
咲久弥が、口籠もりながらそんな言い方をしたのは、そこに四號が居合わせたからだ。もしも素晴だけだったなら、率直に打ち明けたことだろう——視界の片隅に、猿楽一座のお頭が姿を現したかと思うと、彼女が、吸い込まれるようにして、中央棟の中に入って行ったのだと。
「なあ、そういうことなら、中央棟を探検してみないか?」
素晴は、晴天色の瞳を輝かせて提案したのである。
「そうだな。今となっては、鍵すら掛かっていない。見て回りたいのなら、日が沈む前でなければ」
四號も、あっさりと同意したのである。
そこは、薄暗く埃っぽく、下手すると、雑木林の中よりも静かな空間だった。
床は、病院などでも使用されている、音が立ちにくい素材だが、かつて窓ガラスだった破片を踏めば、パリンと砕け散る。
そこは、中央棟——かつて、咲久弥が生み出されたという建物である。
「元々、顔認証なしには、入口から入ることもできなかった。だが、とてもじゃないが、暴徒に襲われることを前提に守りを固めたような建物ではなかったよ」
過去を知る四號の言葉も、反響するでもなく、どこかへ消えていった。
オメガ・パンデミックの当時、軍事用人狼たちは奮戦したが、全てを守り切るというわけにはいかなかったのだ。
「先に断っておく。俺は、本を物色する目的で、中央棟に足を踏み入れたことが、何度もある。世界が落ち着いて以来、本でも読もうかと思うようになってな。学術書の類いには歯が立たんが、誰の遺品なのか、オメガ・パンデミック直前に出版された、人気女優の愛人による赤裸々な暴露本なんかは、なかなか笑えたぞ」
「今となっては、ここにあるのは、なんでもかんでも、誰かの遺品だよなー。ここじゃなくても、ゾンビの肉なんてのも、遺品みたいなもんだしな」
四號にそんなふうに応じたのは、素晴だった。
人狼同士の会話が成立したのは、咲久弥が、どこか近寄り難いほど凛とした空気を纏って、何かに導かれているかのように、一人で先を歩くからだ。
彼は、中央棟の入口から最も近い階段については素通りしたくせに、その次に見えてきた階段のことは、迷わず昇り始めた。
せっかく咲久弥が何かを思い出しかけているのなら、人狼たちは、邪魔をする気にはなれなかった。
やがて、咲久弥は、とある部屋の前で足を止めた。
彼にしてみれば、猿楽一座のお頭を追って、階段を昇り廊下を進むうちに辿り着いただけだった。
四號だけは、そこが御崎美道理博士の書斎なのだと知っていて、「おい……」と低く警告した。
咲久弥は、しかし、躊躇うことなく、施錠されていないドアを開いたのだった。
そこは、あくまで書斎のはずだった。しかし、部屋の真ん中には、見るからに大きく頑丈そうな檻が置かれていたのである。
幸か不幸か、その檻は空っぽだった。
「これって……俺が入れられてたような檻じゃないか!」
素晴は、思わず駆け寄った。彼は、オメガ・パンデミックが落ち着くまでの間、地下室の檻に監禁されていた身の上である。
「ここは中央棟だから……もしかして、咲久弥は、あの頃この中に閉じ込められていたのか?」
「素晴、嗅いでみろ。ゾンビの残り香しかないはずだ」
四號は、冷静に指摘した。
「閉じ込められていたのは、私ではないと思う。この部屋の持ち主だったんじゃないのかい?」
しばらくぶりに咲久弥が言葉を発したのである。
四號は、怪訝な顔をした。
「おまえ……記憶が戻りつつあるのか? その通りだ。ゾンビウイルスに感染した御崎美道理博士が、かつてそこに囚われていたんだ。彼女にとっての感染源が、夫だったのか、それとも、あの当時大量発生していた蚊だったのかは、特定不能だったらしい」
「あー、俺、山田博士から聞かされたことがあったわ。美道理博士の夫は、実力よりも家柄重視で選ばれて婿入りした、しょーもない研究者なんだって」
素晴は、思い出しがてら頭を掻いた。
「山田博士は、美道理博士のことを、恋慕していたようにお見受けした。とんだ横恋慕だったというわけだね」
咲久弥は、檻の中に、亡き生みの親の姿を見ているかのようだった。
「そうだな。マスターは、美道理博士のゾンビ化を知って、明らかに冷静さを欠いていた。先に発症した、彼女の夫のことは、さっさと焼却処分にしたくせに、彼女のことは、ここでしばらく飼育していたのだから。しかしある時、彼女の姿は、忽然と消えたんだ」
「……赤ずきんは、やはり、狼に食べられてしまったのかい?」
咲久弥は、声を潜めて問うた。
「そのようだな。マスターの腹を割いたところで、今さら戻ってはこないだろうが……」
素晴は、目をまんまるに見開いて、咲久弥と四號を交互に見た後、二人の間に割って入るようにして、咲久弥の手を取ったのである。
「俺は! 何があっても、咲久弥のことを食ったりしないからな!」
「なぜだい?」
「だって、食っちまったりしたら、アイドル咲久弥が踊るところを、もう二度と見られないじゃないか!」
素晴は、力強く宣言したのである。
「……そうだね。ありがとうよ、私の踊りを好いてくれて……」
咲久弥は、ごくごく微かな笑みを浮かべた。それがどこか寂しげに見えて、素晴の胸は掻き乱された。
咲久弥は、檻からすっと離れると、本棚の一つへと、迷わず歩み寄った。
そして、勝手知ったる様子で、スライド式の本棚を操作すると、後列の棚から、大版で分厚い一冊を手に取ったのである。
「そういった本は、俺の趣味ではないな」
四號は呟いた。
それは、素人にとっては、見るからに難解そうな学術書だった。一方で、研究者にとっては、当然踏まえておくべき知識をまとめたような書物である。
この書斎の本棚に置かれていても、誰かが手にする可能性は低い一冊といえた。
咲久弥がその本を開いたところ、中ほどのページが四角くくり抜かれていて、そこにやはり四角い何かが埋め込まれていたではないか!
「勾玉!?」
素晴が声を上げた。
まず三人の目を引いたのは、長さが十センチはあろうかという、瑠璃色の勾玉だった。そんな勾玉が一つ、銀の鎖に通された状態で、四角い何かに飾りつけられていたのだ。
咲久弥が取り出したそれは、端末だった。椚の木の所在をマッピングしたり、学園祭でのダンスの映像を再生したりするような、普段使いに適した代物のようだった。
咲久弥が試しに触れてみると、起動したうえに、ロックも解除できたのである。
そして、表示されたのは、カラフルで丸っこい、「トモダチ高校」という文字列だった。
「あー、こういうの、俺も博士から持たされてたわ……予習復習に使えって……」
素晴は、なぜかもがき苦しんだ。どうやら使っていなかったらしい。
「ふん、民生用の教材に、アクセサリーか。その端末は、咲久弥の生体認証を受けつけた以上、かつての私物だったのだろう。アクセサリーの趣味に関しては、ノーコメントだ。持ち出したければ、持ち出すがいい」
そんなことを言う四號に、咲久弥は、疑わしげな目を向けた。
「俺は、マスターに些細なことまで逐一報告する義務は負っていない。おまえは、マスターの命で、精液まで搾り取られているのだ。かつての私物くらい、こっそり手元に置いておくがいい」
四號は、そう言い捨てると、書斎からさっさと立ち去ろうとしたが、ふと足を止めた。
「咲久弥、なぜ、あの檻に閉じ込められていたのが、美道理博士なのだとわかった? おまえは、彼女がゾンビ化する少し前に、既に人工睡眠カプセルに隔離されていたはずだが……」
「ただの当て推量だよ。私自身には、檻に入れられた記憶はないからね。ならば彼女ではないかと思っただけさ」
咲久弥は、微かな笑みを浮かべた。それは、月光のように冴え冴えとしており、ひどく侵し難く感じられた。
「なるほど。そういうことにしておいてやろう」
四號は、どこか畏れに似た感情を抱いて、今度こそ、二人の少年を置き去りにして立ち去ったのだった。
咲久弥は、その夜、私室と化した医務室で、ベッドに腹這いとなって、中央棟の書斎で発見した端末を操作していた。
端末といっても、インターネット等が死んだ現在、その機能は限られているのだが。
素晴が貸してくれた充電器を使うことができたので、咲久弥は、端末内に残されたトモダチ高校の教材を、興味深く読み漁っていた。
素晴とは、最初の夜こそ同じ部屋で眠ったが、その後は、夜はそれぞれの私室で過ごすようになった。
咲久弥は、毎日、朝一番に、山田に精液を提出させられる。その後は、素晴と合流して、四號を伴い、椚の木のマッピングを行う。
不本意な点もあるとはいえ、それが日々のスケジュールとして確立しつつあった。
今夕、猿楽一座のお頭が、またもや姿を現したことには驚いた。
実のところ咲久弥は、かつての中央棟での生活について、記憶らしい記憶を取り戻したわけではない。その建物に脚を踏み入れても、どこか懐かしいと感じるのが精一杯だった。
しかし、彼の眼前には、彼にしか見えないお頭の姿があった。
彼女は、階段を昇り、廊下を進んで、咲久弥をあの書斎へと導いた。
さすがは、実体を伴わない幻だけあって、例の檻にも、鉄格子を透過して入り込み、『あの男のやりそうなことだ』と、眉を顰めたのである。
そして、スライド式の本棚の扱いや、どの本を手に取るべきかまで、咲久弥の耳元で囁いてから、すっと姿を消したのである。
いくらなんでも、そこまでされては、お頭の正体について思うところがある。
咲久弥のために、あの時代劇風のシミュレーションを設計したのは、御崎美道理博士だったという。おそらく、お頭もまた、美道理博士が生み出したキャラクターであり、咲久弥がシミュレーションを終えた後まで、ナビゲーターのような役割を担っているのではないだろうか……
そう考えると、辻褄は合うと思いつつも、一抹の寂しさを覚える咲久弥だった。
やがて、咲久弥は、高校の教材とは思えない資料が、端末に残されていることに気づいた。
まずは、研究所付近の地図だ。研究所から北へ十キロほど向かった地点に、瑠璃色の勾玉のイラストが、アイコンのように記されていた。
あの勾玉と何か縁のある場所を示しているのか? しかし、説明の類いは、一切記されていないのだった。
そもそも、あの瑠璃色の勾玉は、咲久弥の私物なのかもしれないが、ましら拍子の首飾りに使われていた勾玉よりもずっと大きく、咲久弥の記憶にはない代物なのである。
そして、教材ではなさそうな、もう一つの資料は、とある寺にて発見された、人狼と風鬼のミイラについての記録のようだった。
「これはもしや……私や素晴の元になったミイラのこと……」
咲久弥は、強い興味を覚えて、読み進めることにした。
寺に祀られていたミイラは、二体。共に約三百年前に奉納された。
うち一体は、人狼のオスであり、遺伝子を解析した結果、ヒトと交雑した痕跡はなし。
「オス、か……男性と書いてほしいところだね」
咲久弥は、片手で髪を掻き上げながら呟いた。
これが、素晴の元になったミイラということか。ヒトと交雑云々のくだりは、つまり、咲久弥のように人間の血も引く半妖ではなく、生粋の人狼だと言う意味だろう。
続いて、風鬼のミイラについての記述に目を通した時、咲久弥の心臓は、ドクリと跳ねた。
そこには、とても信じられない文言が記載されていた——「メス」と書き記されていたからである。
素晴は、その頃、自室のベッドで、仰向けとなっていた。
彼の頭から離れないのは、実は、あの瑠璃色の勾玉だった。
なぜだか見覚えがあるように感じたのだが、それが、いつどこで、といったことがちっとも思い出せないのだ。
中央棟の書斎に、端末と共に隠されていたということは、端末と同様、咲久弥の私物なのだろうとは思う。
シミュレーションを強制終了してしまった直後、咲久弥は、何よりも首飾りにこだわっていた。
しかし、トモダチ高校であれリアルであれ、はたまたゲームの世界であれ、咲久弥が勾玉を身につけているのなんて、見たことがない。
勾玉は、大昔のアクセサリーだ。もしや、素晴や咲久弥の元となったミイラと一緒に、寺に奉納されていたものなのだろうか?
そんなふうに推理なんぞしてみても、なぜ見覚えがあるのかというそもそもの疑問は、全く解決されないのだった。
「素晴」
女の声で、優しげに名を呼ばれた。
彼が振り返ると、美しく着飾った若い女が微笑んでいた。華やかな着物を纏い、勾玉や管玉を連ねた首飾りを煌めかせていたのである。
「……
彼女の変身ぶりに、素晴は驚かされた。
「そうよ。近頃の素晴は、人間の女たちの踊りを好んで見物しておると聞き及んだゆえ、選りすぐりの白拍子を一人食ろうて、その姿に化けてみたのじゃが……」
流麗は、食らった人間の姿に化けることができるのだ。
彼女は、ゆっくりと一回りして、人間の女から命ごと奪い取った麗姿を見せびらかしたのである。
素晴は、何も言えなかった。彼はただ、人の踊り子の腹から生まれた身ゆえ、母恋しさに踊り子たちを見物していただけなのだから……
「なぜ
気づけば、凄まじい形相と化した流麗に、股間を鷲掴みにされていた。素晴は、そのまま腰を抜かしてしまったのである。
「ああ……あまりウブな若輩者を虐めるわけにもゆかぬな。素晴よ、ならわしに従い、妾に贄として、風鬼を捧げるのじゃ。さすれば、そなたを、妾の夫の一人として取り立ててやろうぞ」
流麗は、打って変わって、甘く囁いたのだった。
——素晴は、そこで目を覚ました。瑠璃色の勾玉について考えを巡らせるうちに、いつの間にやら眠りに落ちたらしいが、なんとも不思議な夢を見たものだ。
素晴は、肝が冷えるような居心地の悪さを覚えて、自分の尻尾を握り締めて、「咲久弥ぁ……」と呟いたのだった。
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