第10話 豊穣の女神
山田は、なにも軍事用人狼たちだけに役目を与えようとしたわけではなかった。
御崎家の関連施設の探索を提案したのみならず、咲久弥と素晴が、「どんぐりは食べ物です!」と力説したところ、「それは盲点だったな、僕は肉食主義者なものだから」と笑ったのである。
「ならば、咲久弥くんは、素晴を連れて、この付近の椚の木の在り処をマッピングするというのはどうかね? それはそれで有意義な作業のはずだ。僕のような人狼は、そもそも人肉食に抵抗を感じないが、きみは違うのだろう? その気質は、きみの子供たちにも受け継がれるかもしれないからね。そうだ、ボディーガードとして、軍事用人狼を一名つけよう」
「素晴が一緒なら、ボディーガードなんていりません!」
「そーだそーだ!」
民生用の二人組は、揃って異議を唱えたが、山田は、宥めるように首を横に振った。
「咲久弥くん、過保護と感じるかもしれんが、きみはVIPなのだから。それに、今となっては、電話やメッセージの遣り取りもできず、GPSも使えないのが実情だ。オメガ・パンデミック以前と比較すると、迷子となるリスクを無視できんのだよ。僕とて、なにも、きみたち二人が駆け落ちするかもしれないだなんて、心配しているわけではないからね」
山田は、とんだ冗談によって、話を締めたのである。
「駆け落ち!?」
いくらなんでもパワーワードが過ぎると、咲久弥は驚いた。
行く当てもありはしないというのに……
しかし、素晴と二人きりでの道行きの光景は、すんなりと想像できてしまって、そんな自分にも驚くことになった。
「そんな、やめてくださいよ、博士。私は、シミュレーションの中では、猿楽一座のましら拍子でした。素晴は狼なわけですから、駆け落ちするどころか、犬猿の仲かもしれませんよ」
咲久弥は、内心の動揺を、花咲くような笑顔で覆い隠した。
「なあ、カケオチって、なんだ? なんか、唐揚げみたいで美味そうだな」
せっかくの咲久弥の笑顔は、一瞬にして凍えた。見れば、傍らの素晴は、白い歯を覗かせたばかりか、軽く舌舐めずりまでしているではないか。
「……かしか合ってませんし、あげてません。おちるんです。そもそも食べ物ではありません」
咲久弥は、無愛想な教師のような口調で説いた。
もっとも、互いに取って食いたいほど想い合う者たちが、駆け落ちなんぞしでかすのかもしれないが……
「素晴……おまえ、高校の国語の成績、ボロボロだったんじゃないのか?」
「なんでわかった!?」
素晴は、前のめりに驚いた。
「やはり、わかるか……」
山田は、陰ながら呟いた。
「なあ、ケンエンノナカってーのは、店の名前みたいな響きだな。美味い焼肉だのラーメンだのが出てきそうだ」
「素晴、お座り」
「なんでだよ」
「風刃」
「僕のオフィスではやめてくれないか!」
言われるがままに、飼い犬のごとくお座りした少年と、掌を天井へと向けて、風を威嚇射撃した少年は、とうとう山田によって、雑木林の探索へと追い立てられてしまったのである。
ねえ、美道理。もしも、この世界に、豊穣の女神がおわすなら、彼女はとっくに犯し尽くされているね、忌まわしきゾンビウイルスによって。
もちろん、この僕が、きみ以外の女性を女神として崇めることなどあり得ないのだが。
素晴が持ち帰った椚の実を調べてみたが、やはり、Z毒素が検出されたよ。あのウイルスは、細菌にすら感染して、Z毒素を産生せしむるのだから。
この研究所の地下水は未だ清浄だが、雑木林の木々を潤している水は、やはり既にゾンビウイルスによって汚染されているようだ。
この世界において、植物は、オメガ・パンデミック以降も泰然として存在しているかのようでいて、実は、水に含まれたゾンビウイルスを多分に保有している。そして、ゾンビウイルスは、常在菌のごとくありふれた細菌たちを使役して、植物にまで毒素を撒き散らしているのだ。いくら毒素を蓄積しても、植物そのものの細胞に影響を及ぼすことはないとはいえ……
あれは、そもそもは、Z因子と呼ばれていた。動物の細胞の腐敗を劇的に遅延させる、ゾンビウイルスの作用機序の要のごとき因子だった。勿論、人体には無害だった。しかし、ゾンビウイルスの突然変異とともに、その作用もまた変化してしまった以上、僕はもはや、あれを毒素と呼ぶしかないだろう。
オメガ・パンデミックの当時、ゾンビたちと接触さえしなければ、ゾンビウイルスに殺されることもないと信じ込んでいた人間たちを、一気に滅亡の淵へと追いやった毒素だ。
ゾンビウイルスは、加熱により死滅するが、あれは、文字通り、煮ても焼いても食えない毒素だからね。
秋を待ちわびてどんぐりを収穫したところで、それはZ毒素に汚染されている。奇跡的に農業の真似事ができたところで、清浄な水のみを用いるのでなければ、せっかくの作物もまた、Z毒素を豊富に含むことだろう。
仮に、現時点で、ゾンビ化していない人間や獣がどこかで生存していたところで、植物を食して、Z毒素を摂取したが最後、もがき苦しんで死ぬしかないんだよ。
僕は、そうした真実については、未だ少年たちに話していない。だって、彼らにだって、多少の夢や希望は感じていてもらいたいじゃないか、この世界で生き続けるためにね。きみが手塩に掛けた咲久弥くんの前向きさを曇らせたくはないし、うちのやんちゃ坊主は、「そんなのハードモードすぎるじゃないか!」とかなんとか文句を言いかねない。あれは、ゲームが大好きだったからね。
さて、僕は急がなければならない。きみが提供してくれた卵子も、あの人工子宮の生体パーツも、ゾンビウイルスは元より、Z毒素にも耐えられないのだから。研究所の地下水が汚染されてしまう前に、大願成就せねばならないのだ。
「いつか、子供たちに教えることになるのかな。椚の葉っぱは、ちょっと細長くて、縁がぎざぎざしてて、表のほうが裏よりも濃い緑色でつやつやしてるんだよって」
足元の地面は、ふわりと柔らかかった。
咲久弥は、素晴と共に、研究所に程近い雑木林に足を踏み入れていた。博士が与えてくれた端末に、椚の木の所在地を記録するためだ。もはやGPSによる位置情報を得ることはできないため、些か正確さを欠くかもしれないが、それは仕方のないことだろう。
「葉っぱは、わりと栗と似てるしなー……幹を見たほうが、区別がつきやすいかもな」
素晴は、無邪気な笑顔で応じた。
椚の幹は、まっすぐに伸びており、その表面には、縦に幾筋もの裂け目が走っているのが特徴だ。一方で、栗の幹には、そうした裂け目は少ない。そして、今この世界では、虫媒花を咲かせる栗は、実を結ばないのだ。
ところで、今、咲久弥の眼前に存在している椚の木に限って言えば、女のゾンビの胸を刺し貫いた槍が、その幹に深々と突き刺さっているのだった。
「今時のゾンビは、皆、ダイエットが捗っているようだな」
四號は、ふざけた様子もなくそう言うと、女の頭を片手で易々と握り潰してから、槍を引き抜いたのだった。
「どうした? 俺は、マスターの命令に従って、ボディーガードの役目を果たしているだけだぞ」
二人の少年たちからの非友好的な視線に、四號は、飄々と応じた。
「おまえたちは、二人で励めばいい。今朝のブリーフィングでも聞いただろう。今のところ、俺以外の戦闘員四名が探索した、御崎家関連の施設は、全て先客に荒らされた後で、特に収穫なしだったと。おまえたちは知らないか思い出せないのだろうが、オメガ・パンデミック初期の暴徒たちは凄まじかったのだぞ。今でこそ、世界は落ち着いたがな」
三人の間に、沈黙が流れた。そこは、時に風が木々をそよがせるだけの、静かな世界だった。
咲久弥と素晴が、日中を雑木林で過ごすようになってから、既に数日が経つ。今日出会したゾンビは、この一体だけ。昨日は、ゾンビと遭遇する機会は、全くなかった。
「世界が落ち着いたってーのは、ゾンビが減ってきたって意味なのか?」
素晴は、鼻を鳴らした。
「いや……未だゾンビ化していない人間を見掛けなくなった時点で、落ち着いたと感じたのを覚えている。オメガ・パンデミック真っ只中だった当時、御崎研究所こそがゾンビウイルスの発生源だというデマが流れて、こんな片田舎にけっこうな数の暴徒が押し寄せたことがあった。研究所を守るべく彼らを駆逐したのは、他ならぬ俺たち五人組だ。やりがいを通り越して、随分と骨が折れたものだ」
四號は、淡々と述懐した。
「その暴徒は……未だ人間だったのかい?」
咲久弥は、尋ねずにはいられなかった。
「どうだかな。やつらは、研究所の破壊と所員の殺害を目的としていた。殺して焼く前に、ウイルス感染の有無なぞ、いちいち確認しなかったな」
「俺はその頃、地下室の檻の中だったってわけだな」
素晴は、苦い表情で唇を噛んだ。
「民生用のおまえたちには、明らかに荷の重い戦場だった。隔離されたのは正解だったろう」
「私は、芸を売り歩く流浪の民だったから、何かにつけて、蔑まれたり迫害されたりした。まあ、シミュレーションの世界での話なんだが。ある日とうとう人狼に襲われ、戦う羽目に陥ったが、ただで死んではなるものかって、強く思った。自分が駄目でもせめて仲間を救いたかった。この世界でだって、敵に襲われれば同じことだろうと思う。それがバケモノであれ、人間であれ……」
翡翠色の瞳が、鋭く煌めいた。
四號は、何か涼やかなものを見たように、目を細めた。
「知っての通り、ゾンビに生殖能力はない。だから、人類が滅んで、世界が落ち着いた今、その数は増えようがない。そればかりか、今時のゾンビは、オメガ・パンデミックの初期と比較すれば、目に見えて痩せている」
「え!? だけど、ゾンビウイルスって、元々、十年間保存できる肉を生み出すためのものだったんだろ? だったら、ゾンビだって、十年くらいは存在し続けるんじゃないのか?」
素晴は言った。咲久弥も数日前に、似たようなことを考えたばかりだった。
「そうでもなさそうだぞ。人間や獣がまだ生き残っていた当時は、ゾンビがそれらを食らう光景も見られた。しかし、どうやら、ゾンビは共食いはしないらしい。それでいてやつらは、のろまではあるが動き回るだろう。そのためのエネルギーは、どこから来ているんだ?」
四號の言葉に、先に反応したのは、咲久弥だった。
「ゾンビは……自身の肉をエネルギー源にしている? だから、ゾンビ化してから時間が経つにつれて、痩せ細っていくってことなのかい?」
「おそらくはそうだ。いつかエネルギーを使い果たして、俺たちに狩られずとも活動を停止するだろう。だからこそ、ゾンビの肉なら手に入る今のうちに、民生用は民生用らしく、椚の木のマッピングに励むがいい」
四號は、言葉を区切ると、くんと風を嗅いだ。
「なんだか生臭いな。栗の花でも咲いているのか?」
「そっかー? あの青臭さは、俺は感じないな。この季節だから、栗の花が咲いてたって、おかしくはねーと思うけど……」
素晴は、同意できないようだった。
「ああ、こんなところに咲いていたか」
四號は、やおら咲久弥に肉薄して、その耳の辺りを嗅いだのである。
「何言ってんだよ! 咲久弥は、甘ーい匂いだ!」
素晴は素晴で、咲久弥が自覚できない体臭について言い立てて、咲久弥を四號から引き離しながら抱き締めたのである。
咲久弥は、四號にからかわれたのだと察していた。
素晴は全くわかっていないようだが、栗の花によく似た臭いだと言われるのだ……精液というものは。咲久弥は、山田に要求されて、毎日精液を提出しているのだった。
咲久弥は、四號を睨みつけずにはいられなかった。実のところ、軍事用の人狼たちの中では、彼は話の通じる部類だと感じていたのだが、どうやら警戒を怠らないほうがよさそうだった。
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