第9話 ころころと丸っこい

 私は、いったい何をしているんだ……

 咲久弥は、医務室で独り、自己嫌悪に陥っていた。

 この部屋で、博士の要望に応じて、自慰を行い、容器を満たした。

 容器を博士に届けるには、一旦、この部屋を出るしかなかった。ドアを少しばかり開いて、素晴の姿がないことを確かめてから、外に出たのである。

 博士とはすぐに落ち合えて、ブツを引き渡すことができた。

 そしてまた医務室へと舞い戻り、独りで立て籠もるかのように過ごしているというわけだ。


 まさか、素晴が、性的な意味であんなにも未成熟なのだとは、思ってもみなかった。

 一見したところ、咲久弥と同年代で、かつて同じ高校で学んでいて、咲久弥よりも体格が発達した、あの素晴が……

 もちろん、咲久弥も、人狼の生態について不勉強だったといえよう。昨夜、素晴が咲久弥の体を求めなかった理由が、そもそもそんなところにあったとは……

 咲久弥は、昨日素晴と再会してからというもの、どれだけ彼に感謝し、信頼を寄せ、親近感を深めたことか。

 決して、それらの感情がガラガラと瓦解したわけではないのだが、ああも曇りなき瞳でウブな発言を連発されては、どうすればいいのやらわからなくなってしまうではないか!

 咲久弥は、火を噴き出しそうな思いで、両手で顔を覆ったのだった。


 それにしても、博士も無茶を言うものだ。この私を父として、新人類を生み出そうだなんて……

 咲久弥は、はなはだ強引に、晴天色の瞳の人狼を、脳裏から締め出したのである。

 山田の説明が理解できないような咲久弥ではない。ゾンビウイルスに感染しない人間を生み出すためには、咲久弥の体質を遺伝させるしかないというのだろう。例えば、人狼を父としたところで、生まれた子の感染を回避するためには、咲久弥の血を原料としたワクチンが必須となる。

 もしや、新人類云々というのは、やたらと壮大な口実で、山田は、ワクチンの供給源となりうる存在を増やすために、咲久弥の子を生み出そうとしているのではないのか?

 その場の勢いで、山田の頼みを引き受けてしまったが、咲久弥は未だ、自分が父親になるという自覚も実感も持ち合わせていない。かつて、猿楽の一座にいた双子の幼女のお守りをした記憶があり、彼女たちを可愛らしいと感じもしたけれど、あれとて年長者の義務として行なったことに過ぎないのである。

 咲久弥は、シミュレーションの世界では、孤児みなしごだった。そして、目覚めてみれば、ミイラの遺伝子を元に製造された存在なのだという。そのせいかどうか、子を持つ父のあるべき姿なぞ、うまくイメージすることができないのだった。


 ただ、父親の立場になぞ立たずとも、咲久弥には、重大な心配事があった。

 それは、食料についてである。

 この研究所は、地下水には恵まれている。

 しかし現在、この世界では、鳥獣の肉はおろか、魚も、虫すらも手に入らない。種子さえあれば農業を行うこともできるというが、その種子の在り処もわからない。

 こんな世界で子供を生み出して、山田は、どんなふうに養うつもりだというのだろう?

 訊くまでもない。ゾンビの肉を食わせればよいと答えるのだろう。

 ゾンビウイルスは、そもそも、常温で十年間保存できる食肉を生むべく作られたものだという。旧人類がゾンビ化して、概ね三年——あと七年くらいは、ゾンビを狩るなら食べてゆけるということなのだろうか?

 しかし、その後は……

 咲久弥が、山田の大言壮語に応じて、精子を提供してしまったことは事実だ。やがて生まれ来る子供たちは元より、自分や素晴が生きてゆくためにも、ゾンビの肉以外の食料を調達する方法を考えずにはいられなかった。


 そうだ、どこかに備蓄されているかもしれない種子の類いを探して、旅に出るというのはどうだろう?

 御崎研究所を創設した御崎家は、財閥であり、研究所以外にも別荘などを所有していたという話だった。例えば、そうした別荘に、種子だのなんだのが秘宝のごとく隠されていやしないだろうか……


 その時、誰かが、医務室のドアをノックした。

「なあ、咲久弥ぁ、見てほしいものがあるんだ。ここを開けてくれないか?」

 それは、素晴の声だった。

「なあ、頼むよ。咲久弥が博士から与えられたの話は、しないように気をつけるからさぁ……」

 なるほど、「特別任務」ときたか。素晴なりに気をつかってくれているのはわかるが、さては、山田に知恵をつけられたか。人間の生殖機能について、懇切丁寧なレクチャーを受けたりしたのだろうか……

 気まずい思いを振り切れず、返事ができないままの咲久弥に向かって、素晴は、なおもドア越しに話し掛けた。

「なあ、咲久弥ぁ……実は、通りすがりの四號が、すぐそばにいたりするんだけど、俺か四號だったら、どっちと話がしたい?」

「そりゃあ、素晴だよ!」

 咲久弥は、大急ぎでドアを開けたのだった。


 そこには、人間の姿をした素晴が立っていて、はにかむような笑みを浮かべた。

「咲久弥、これを見てくれ!」

 素晴は、右手を差し出して、握っていた拳をゆっくりと開いた。

 その掌には、小さく茶色く、ころころと丸っこいものが、いくつか乗せられていたのだ。

「これは、どんぐり……丸っこいから、くぬぎの実のようだね」

「あのさ、俺は食べたことないんだけど……思い出したんだよ、大昔の人間は、どんぐりを食べてたって話を……」

 素晴の言葉に、咲久弥は、椚の実よりも丸く眼を見開いたのである。

「そうだよ! アクを抜きさえすれば、どんぐりは食べられるんだ!」

「研究所の周りに、雑木林ならいくらでもあるし、椚もたくさん生えてるんだ。ちょっと行ってみたら、こういうのが落ちてた。今は初夏だし、これは去年の秋に落ちた実だろうから、食べられないだろうけど、秋まで待てば、どんぐりなら手に入るんだよ、咲久弥」

 咲久弥は、頬を紅潮させて、素晴の右手ごと、大事に大事に両手でどんぐりを包み込んだのだった。


 一口にどんぐりと言っても、それは、様々な木の実の総称である。中には、昆虫の助けを借りなければ結実できないものもある。しかし、椚はいわゆる風媒花を咲かせるため、昆虫がおらずとも実を結ぶのだ。

「素晴、ありがとうよ。私も、今すぐにでも、どんぐりの林を見て回りたい! それから、私なりに考えてみたんだが、御崎家にゆかりのある建物なんかを、調べて回ることはできないだろうか? もしも、農作物の種子が保存されていれば、それに勝るものはないだろう。他にも役立つ物資が見つかるかもしれないじゃないか……ああ、わかってはいるんだ、これが盗みの相談だってことくらいは」

「マスターにも相談すべきだろう。咲久弥、おまえはVIPだ。おまえ一人の体ではないのだから……っておい、なんだ、その、『なぜ存在する?』とでも言いたげな目は!」

 四號は、通りすがって、少年たちの会話を腕組みしながら聞いていたのである。妥当なアドバイスを行ったつもりなのに、二人揃って邪険な視線を向けてくるとは、些か心外だった。

「俺たち五人は、約束通り、マスターと話し合いを行ったぞ。そして、咲久弥の子供たちが生まれてきたら、その護衛の任に就くようにと拝命した。現状、マスターは、赤ん坊のことまで、ゾンビの肉で養うつもりらしい。ゾンビの肉を液状化する技術があるから大丈夫なんだそうだ。一応、報告しておこうと思ってな」

 それこそが、四號が、ここを通りすがった理由なのだろう。

 そしてやはり、ゾンビの肉頼みなのか……


 灰色の人狼は、大きな口をより一層裂くようにして、笑みらしきものを浮かべた。

「少なくともこの俺は、悪くはない未来だと思っているぞ。美しい少年と、その血を引く子供たちがいて、俺も、なんだかんだと巻き込まれては、どんぐりの粉で団子を作ったりするんだ。そんなある日、雑木林の中で、昆虫の助けがなければ生らないはずの木の実に出会す。さらに数年後、死に絶えたはずの野兎が、ひょっこりと顔を出す……なんてな。この世には八人の男しかおらず、やがて時間に殺されてゆくだけというよりは、よっぽどいい」

 四號は、どこか詩人のように語った。

「おい、四號! 俺の存在を、微妙にハブってんじゃねーぞ!」

 素晴は、自分よりも大柄な人狼を睨み上げた。

「ふん、どうせおまえは、咲久弥にちょろちょろと付き纏うつもりだろう。わざわざ語るまでもない」

「あたぼーよ! 咲久弥の子供は俺の子供だ!」

「んぇ!?」

 素晴が、四號への敵愾心たっぷりに放った言葉のせいで、咲久弥の美貌が、またもや崩壊の危機を迎えた。少なくとも本日二度目である。

「だーかーらー! 咲久弥が生んだ子供なら、俺が大事に育てないわけがないだろうが!」

「あのぅ、素晴……生んでくれるのは、人工子宮だよ。私じゃない!」

 咲久弥は、またぞろ逃げ出したくなったが、素晴に正面からきつく抱き締められたせいで、どうにもならなかった。


「御崎家の関連施設の探索か……悪いアイデアではないと思うよ。この研究所の付近にも、何ヶ所かあるしな」

 咲久弥と素晴は、山田に相談を持ち掛け、山田は、顎を摘んで考えを巡らせた。

「ただし、きみたちではなく、軍事用の人狼たちのほうが適任だろう」

「なぜですか? 私が体力的に見劣りするということでしょうか」

 咲久弥は、率直に尋ねた。

「それもある。だが、きみたちが民生用であるのに対し、彼らは軍事用だ。適性が異なるだろうと言いたいのだよ」

 咲久弥は、納得しきれずに小首を傾げた。

「考えてもみたまえ。御崎家は、大富豪だったのだぞ。仮に、セキュリティー関連のシステムが生きていたとしたら、それへの対応は、軍事用人狼に任せておいたほうが得策だ。オメガ・パンデミック華やかなりし当時には、この研究所の警備を担って大活躍していた彼らを信じたまえ。それに、僕としては、彼らにも役目を与えたい。彼らと話し合った結果、どうやら、かつてほど活躍の場面がないことが、不満を募らせる要因であるらしかったからね」


 山田は、溜め息を吐いてから、話を継いだ。

「実は、彼らを納得させるために、咲久弥くんの子供に加えて、僕の子供も一挙に生み出すことにした。当初は、咲久弥くんを父とする女児三人を生み出す予定だったが、僕を父とする男児三人も加えることとする。もちろん、男児たちが生存するためには、咲久弥くんの血液から作成したワクチンが不可欠となるが……僕と彼らは、同じ遺伝子を持つからね。僕の子供は、彼らの子供も同然なのだ。彼ら自身の子供も存在すれば、当然、護衛にあたるモチベーションも上がるはずだからね」

 山田は自信に満ち溢れていた。生命の誕生を思い通りに操ることなど、文字通り、赤子の手を捻るようなものだと言わんばかりに。そして、軍事用の人狼たちも、当然従うはずだと信じて疑わないようだった。

 シミュレーションでの経験ではあるが、双子のねねとののでさえ、姿形はともかく、物言いや考え方には結構な違いがあった。人狼たちが五人揃って、そうそううまく従うものなのだろうか……

 咲久弥は、博士の強烈な自信には付いてゆけないと感じつつも、別の疑問を口にした。

「一度に六人もの赤ん坊ですか? 人工子宮は、耐えられるのですか?」

 山田は確か、人工子宮は、あと一つしか残っていないと話していたはずだ。

「ああ。使い捨てにせざるを得ないが、容量に関しては優れ物の人工子宮だからね。心配無用だよ」

 山田は、太鼓判を押すように言った。


「なあ、博士。博士も父親になるってことは、発情してるのか? 精子を出せるのか?」

 いたよ。またもや無邪気に尋ねるお子様が——素晴は、もうそういった話をするつもりがないのかと思いきや、尋ねる相手が咲久弥でさえなければ構わないと考えているのかもしれなかった。

「ああ。人間の社会に紛れて年齢を重ねることで、存外なんとかなるものだよ。実は、自力でなんとかならずとも、人間が開発してくれた、発情を促す薬が手元に残っている。幸い、人狼にも効果覿面なのでね」

 山田も山田で、ねっとりとした笑みを浮かべて応じたのである。

 咲久弥は、ゾンビウイルスへの耐性ならば元々持ち合わせているが、今後は、こういった「人狼トーク」への耐性も、ある程度は身につけざるを得ないのだろうか……それは、なかなかの悩みどころだった。

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