第8話 ウブな狼

「単刀直入に言わせてもらおう。咲久弥くん、きみの精子を提供してくれ」

 咲久弥は、翌朝、博士の言葉にフリーズした。


 その朝、咲久弥と素晴は、山田の提案で、朝食を三人で共にすることになった。

 山田は、所長代理の特権というべきか、研究棟内の多くの部屋を占有しているのだが、そのうちの一室に、二人の少年を招き入れたのだ。

 朝食として振る舞われたのは、ミニステーキだ。咲久弥は、「いただきます」と手を合わせてから、神妙な表情で食べきったし、素晴もそれに倣ったのである。


「咲久弥くん、昨夜はよく眠れたかね?」

「はい。結局、素晴の部屋で過ごしました。二人でたくさんお喋りした後、素晴が私にベッドを譲ってくれて、彼自身は床で眠ったんです。申し訳ないことをしましたが、私はよく眠ることができました」

 咲久弥は、昨夜、狼の姿をした素晴に、唇を奪われ体を舐め回された。もしやこのまま求められるのではと不安がよぎった……なんて言えるわけがなかった。

 素晴は、咲久弥にベッドを譲った後、再び狼の姿となり、床に腹這いとなった。そして、いくらか緊張していた咲久弥よりも先に、すやすやと眠りに落ちたのである。

 素晴は、肉体的にハードな一日を過ごしたうえ、咲久弥の肩に顔を埋めて随分と泣いたから、色々な意味で疲れたのかもしれなかった。


 咲久弥は、素晴が寝入った後も、あれこれと考え事に耽っていた。まだまだ記憶は戻りきっていないが、それでも考えずにはいられなかった。そして、山田への質問を思いついたため、彼と朝食を共にしたのである。

「博士、この世界の食糧事情について、質問させていただいてもよろしいですか?」

 あくまでミニステーキを完食したうえで、咲久弥は申し出たのである。

「かまわんよ」

「この世界では、昆虫までもがゾンビと化してしまったのだと、昨日素晴が教えてくれました。ゆえに、昆虫の働きで受粉する植物は、花を咲かせても実を結ぶことができなくなったのだと——しかし、昆虫の助けを借りずとも実を結ぶ植物だって、存在するはずですよね。人間がいなくなってしまったから、農業も成立しなくなってしまったのでしょうが……」

 山田は、頬を緩めた。咲久弥のことを、多少は頭が回ると感じたのかもしれない。

「確かに、昆虫の助けがなくとも受粉可能な植物なら、少なからず存在するな。農作物に限っても、米に麦、大豆や芋などは、昆虫が介在せずとも収穫可能なはずだ。ただし、人手だけでなく種子こそが必要だ。咲久弥くん、実はね、この国の農業は、オメガ・パンデミックがきっかけで廃れたというわけではない。その何年も前から、採算が取れなくなって、産業としては滅びたといっていいほど衰退していたんだ。だから、我々農業の素人であっても、種子さえあれば試行錯誤できるかもしれないが、肝心の種子が入手できない。どこかに秘密裏に備蓄されているかもしれないが、それを探すことすらできずにいるというのが実情だよ。インターネットが使えなくなって、情報収集の難易度が一気に跳ね上がってしまったことが痛いな」

「そんな……」

 咲久弥は、落胆の色を隠せなかった。

 しかし、博士に訊きたいことなら、他にもあった。


「博士、あの軍事用人狼たちについて、少しばかり教えていただきたいのです。彼らは、あなたのクローンだということですが、あなたそっくりの人間の姿に化けることもできるのでしょうか? 私は、彼らとは、距離を置いて接したいのです。博士に化けて近寄られたらと思うと……」

 その疑問は、昨日素晴にも尋ねてみたが、どうもはっきりとしなかったのだ。

 山田は、二度ほど頷いた。昨夜の顛末を踏まえてのことだろう。

「彼らは常に、あの二足歩行の人狼の姿だよ。人狼本来の変身能力は封印してある。なぜなら、軍事用である彼らの肉体には、骨格を強化するための金属部品が埋め込まれている。金属部品は、変身には対応できないし、うっかり変身しようものなら、命にかかわりかねないからね。彼らは、オメガ・パンデミックさえ発生していなければ、とっくに某国へと輸出されて、紛争地帯の最前線へと投入されていたはずなのだ。しかし、現状では、物資の不足が原因で、軍事用としてのマインド・コントロールも行えていない。だからこそ、性格にばらつきが生じて、僕のことをマスターだと認識しつつも、不満を募らせたりするのだろう。しかし、咲久弥くんに矛先を向けるのは、明らかにお門違いだからね。彼らとは、本日中に、待遇の改善について話し合うことになっている。だから、どうか安心してくれたまえ。そうそう、彼らが変身できないからこそ、僕は、顔認証システムを愛用している。本当に安心してくれていいのだよ」

 山田は、かなり明快に回答してくれた。咲久弥は、「ありがとうございます」と感謝した。


「因みに、彼らのオリジナルである僕は、人狼の変身能力を維持しているが、この人間の姿にこだわっている。なぜだかわかるかい?」

 咲久弥は質問を終えたつもりだったが、今度は、山田が謎掛けのように言った。彼は、自分のシャツの袖口に手をやったのである。

「もしかして、その袖口のカフスボタンですか? 随分と愛着を持っておられるようにお見受けします」

「そうとも! カフスボタンを填められるシャツは、僕の手元には、もうこの一着しかないんだよ。うっかり人狼やら狼そのものの姿になろうものなら、シャツが破れておしまいだろうからね」

 博士は、服を破りたくないのでは——素晴は、昨日屋上でそのように推理していたが、どうやら的中していたようだ。

「僕は、元々医師でね。かの市民病院に勤務していたんだ。僕をこの研究所にスカウトしてくれたのが、当時所長を務めていた御崎美道理博士——咲久弥くんを製造した生みの親だよ。僕が研究者として入職した記念に、彼女がこのカフスボタンをプレゼントしてくれたんだ。彼女は、単に御崎家の血統というだけではなく、本当に素晴らしい研究者だった。僕がうっかり独身を通してしまったのも、彼女のせいだ」

 山田が過去形で語るのが、せつなかった。


 御崎がゾンビと化して死去したという話は、咲久弥も、素晴から聞かされていた。

 彼女は、研究所の中央棟に陣取り、風鬼のミイラを元にして咲久弥を生み出し、テーブルマナーまで躾けてくれた——これは、山田が教えてくれたことだ。

「咲久弥くんのシミュレーションを設計したのも、美道理博士だ。どうして時代劇のような世界観を採用したのかは、僕にもわからない。もし許されるのなら、彼女に直接尋ねてみたいところだが……」

 咲久弥が思うに、戦闘やサバイバルの訓練が、ふんだんに盛り込まれたシミュレーションではあった。

 実は、咲久弥は、御崎についての記憶は、ほとんど想起できないままでいた。思い出そうとしても、猿楽一座のお頭のことが思い浮かぶばかりなのである。

 おそらく幻だったのだろうが、お頭は、昨夜も咲久弥の前に姿を現してくれたほどだ。

 体感として何年も生き抜いたあの世界が、シミュレーションだったと知らされた今でも、咲久弥が心から親同然だと慕えるのは、お頭ただ一人なのだった。


「ところで、僕は、美道理博士から、とある重要な使命を託された。人類を再生するという、このうえなく重大なプロジェクトだ。彼女から、あらかじめ対価をもらってしまったこともあってね、この僕の手で、絶対に成功させねばならんのだ」

 山田の言葉が、咲久弥の意識を現実へと呼び戻した。

「単刀直入に言わせてもらおう。咲久弥くん、きみの精子を提供してくれ」

「……はい?」

 咲久弥の頭脳は、理解を放棄した。彼はフリーズしたのである。

「御崎研究所は、遺伝子関連の研究で名を馳せた施設だからね。研究用の、人間の卵子が保存されているのだ。そして、人工子宮の在庫もまだある。咲久弥くんの血を引く子供であれば、ゾンビウイルスへの耐性を持つはずだ。旧人類が滅びて、世の中が落ち着いた今こそ、ゾンビウイルスに感染しない新人類を生み出す好機だ。おそらく、最初で最後のチャンスなのだよ。人工子宮は、生体パーツからなる優れ物だが、あと一つしか残っていないのだ。実のところ、咲久弥くんを研究所へと連れ戻したのも、新人類誕生のためにこそなのだよ」


「なあ、博士。熱く語ってるところへ悪いんだけどさ……咲久弥って、発情してるのか?」

 晴天色の瞳の少年が、ごくごく素朴な疑問であるかのように割って入った。

「だって、精子を提供するなんて、発情してなきゃ無理じゃん? で、男が発情するためには、発情した女がいてくれなきゃダメだろ? 咲久弥は半妖だから、風鬼か人間の、発情した女がいなきゃ、精子なんて出せないんじゃねーのか?」

 咲久弥は、ギチギチとぎこちなく首を回して、傍らの人狼の少年を見遣った。その晴天のごとき瞳に一点の曇りも見出せなかったことで、せっかくの美貌が崩壊しかねないほどの喫驚した表情を浮かべたのである。


「あー、うん、素晴。こと人狼に関しては、きみの認識は正しい。この僕も、風鬼の生態の詳細を知るわけではないのだが、まあ、そのー……咲久弥くんは、柔軟な生殖機能を誇る人間の血も引いているからして……」

 山田は山田で、咳払いなぞ交えつつ、おもむろに説明しようとする。

「もういいです! 提供すりゃあいいんでしょう!」

 咲久弥は、勢いよく席を蹴って立ち上がった。どうにもこうにもいたたまれない気持ちになったのだ。

「ありがたい。用手的に射精を行い、この容器に精液を入れて提出してくれたまえ」

「え?……容器が三つもありますけど……」

「なあ、博士、やっぱり咲久弥、困ってんじゃん!」

「ああ! もう! できる限り努力はしますから!」

 咲久弥は、博士が差し出した容器をひったくった。

 そして博士は、素晴を羽交い締めにしたのである。

「咲久弥くん! 僕はここで待っているから、医務室を使いたまえ!」

「そうさせていただきますよ! 幸か不幸か、シーツも補充されましたからね!」

「部屋の鍵の掛け方は、わかっているかね?」

「ええ、ええ! 暗証番号の設定まで含めて、バッチリですって!」

 咲久弥は、一人で部屋から出て行った。


 素晴は、後を追おうともがいたが、羽交い締めされていては叶わなかった。

「素晴……きみに未だ発情の経験がないことは、よーくわかった。しかし、咲久弥くんは、精子を提供可能であるようだ。何しろ、彼の精神構造は、人間的だからね。新人類を生み出す意義は理解できたとしても、精子の提供について、根掘り葉掘り質問されたりしたら、思春期的な羞恥心が大爆発しかねない。だから、口は慎めよ、素晴。さもなければ、咲久弥くんに嫌われてしまうぞ」

 博士は、ジタバタするやんちゃ坊主に、言って聞かせたのである。

「咲久弥に……嫌われる!?」

 素晴は、本物のこの世の終わりを見たような顔をした。旧人類の世の終わりであれば、とっくに目撃した身の上であるというのに……

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