第7話 おおお俺の部屋に!
「咲久弥、ここが医務室だよ」
素晴は、そのドアの前で、しばらくぶりに言葉を発した。
なんだか、随分と長く水に潜っていたが、限界寸前で息継ぎしたかのような気分だった。
傍らには、彼よりも頭半分ほど背丈の低い、咲久弥の横顔があった。
その顔は、元より美しいのだが、今や、夜空の月のような風格を漂わせていた。
いや、月は太陽の光を反射しているわけだが、咲久弥は、自身の内面から光を放っているかのようだ。
「案内してくれてありがとうよ、素晴」
月よりも美しい彼は言った。ひっそりと、ほんの微かに笑みを浮かべて……
屋上での一件は、咲久弥の行動と山田の言葉によって事なきを得た。
五人組の人狼たちは、普段から、研究所の中庭にテントを張って寝起きしているが、今夜も、その
山田は、咲久弥に、医務室を寝室として使うように勧めた。
「所長代理として申し訳ない限りだが、咲久弥くんに使ってもらうとして、あそこよりましな部屋を思いつかないんだ」——と。
頑健にして高い治癒能力を誇る人狼にとって、医務室は、無用の長物と化している。
ベッドはゆったりとしているし、洗面台で水も使えるし、暗証番号式の鍵をかけることだってできる。
素晴も山田のアイデアに賛成して、案内を買って出たのだった。
素晴はドアを開け、壁をまさぐって、室内の照明のスイッチを入れた。その途端に、ひくりと鼻を動かしたのである。
「ゾンビの臭いがする……部屋の中にいやがるぞ!」
人狼の少年は断言した。その嗅覚は鋭敏である。
「え!……」
咲久弥は、些か身を固くしながら、室内を見回した。ゾンビのいる部屋で、休息は元より安眠なんて望めやしない。
しかし、辺りにそれらしい姿は見当たらず、白い布団がかけられたベッドにしても、人の形に膨らんでいるようには見えない……
ところが、素晴は、そのベッドに駆け寄り、掛け布団を引っぺがしたのである。
「咲久弥、見るな!」
「え……まさか……ゴキカブリ!?」
人間の成れの果てたるゾンビを目にした時とは、全く異質な嫌悪感が、咲久弥の声には漲っていた。
白いシーツの上に、黒い楕円形の染みのごとく、そやつは存在したのである。
「あぁ……やっぱり苦手なままなんだな。それにしても、ゴキカブリって……やたらと古めかしい呼び方だな」
「シミュレーションで、あれやこれやと鍛えられたから、毒虫よりは幾分ましだと思えるようにはなったが……ええい、ゴキブリだろうが、Gだろうが同じこと! 私の風で退治してやる!」
「やめろって! 布団がズタズタになっちまうよ!」
結局のところ、素晴が素手の平手の一撃で、そやつを叩き潰したのだった。
「素晴、ご苦労様。まずは、手を洗ってくれないか」
咲久弥の声は、静かでありながら、有無を言わせぬ圧を漂わせていた。
「あ、はい……それにしても、ゴキブリも、ゾンビになると、こんなにのろまになっちまうんだな」
素晴は、潰したそれを窓の外に投げ捨ててから、部屋の隅の洗面台へと向かったのだった。
咲久弥は、翡翠色の眼を、二度ほど瞬いた。言われてみれば、今のゴキカブリは、二人に見つかってもほとんど動き回ることがなかった。ちょこまかと妙にすばしっこいことが憎たらしい虫のはずなのに……
「……昆虫まで、ゾンビになってしまうのかい!?」
「ああ、人間も、妖も、獣も、鳥も、魚も、虫も……全部やられた。動物で無事なのは、おまえと、ワクチンを打った人狼だけなんだよ……どうやら、植物は無事らしいんだけどな」
咲久弥は、日中の、市民病院から御崎研究所までの道のりを思い出した。
廃墟や雑木林にて、人間のゾンビの姿なら時折見掛けたが、生きて歩くものには全く出会わず、鳥の囀りひとつ聞こえなかった、あの景色を……
草木は、確かにそこにあった。
「ねえ、素晴。植物が無事だというなら、ゾンビの肉以外にも、何か食べられるものがあるはずじゃないのかい?」
山田は、「ゾンビこそが我々に残された唯一の食材である」などと言っていたが……
「そう思うだろ? でも、昆虫が消えたんだ。植物が花を咲かせても、受粉させる虫がいなくて、実を結ばないんだ。ゴキブリのゾンビですら、まだいたのかと思うほど久しぶりに見たよ」
咲久弥は、目を伏せて、「そうか」と呟いた。
「あ……」
素晴もまた目を伏せたところ、ベッドの表面が目に留まり、低く唸った。
小さく汁気の少ないゴキブリのゾンビとはいえ、白いシーツの上で潰すべきではなかったと後悔したのだ。
染みのようだった虫が、本当に染みと化してしまったのである。
「洗えばいいから」
咲久弥は、せめて今できることをしようと、シーツを剥がす。
「乾かすのに時間がかかるだろ? 替えのシーツがあればいいんだけどな」
素晴は、ロッカーなどの収納スペースを、片っ端から覗いたが、徒労に終わった。
「やっぱ、物資が残ってねーんだよなー……」
その時、彼の脳裏に、アイデアが一閃した。
素晴は、にわかに背筋を伸ばしたり、胸の高鳴りを抑えるべく猫背になったりと、忙しくなった。
やがて、両手を腰に当てて、そのアイデアを発表したのである。
「なあ、咲久弥。今日のところは、俺の部屋に来ないか? 寝床くらい貸してやるよ。ここのベッドよりは狭苦しいけどさ」
素晴の私室もまた、唯一電気が使える研究棟の一角にあった。
「元は、研究者が実験の合間に仮眠するための部屋だったらしい。医務室よりも狭いんだけどさー」
素晴は、先に入室して、電気を点けて、抜かりなく窓のカーテンを閉めた。その窓は、軍事用人狼たちがテントを張っている中庭に面しているのだ。
今後しばらく、なんなら未来永劫、あの五人組に咲久弥の気配を悟らせてなるものか!
「お邪魔させてもらうよ」
咲久弥は、柔和な笑みを浮かべて、その部屋に脚を踏み入れた。
壁の一面に密着して、幅の狭いベッドがあり、他には椅子が一脚と、添え物のように小ぶりな机が置かれているだけの、シンプルな部屋だった。
「素晴の匂いがする」
咲久弥は、何気なく言った。
「へ!? 臭いのか? 空気入れ換えようか?」
断固としてカーテンを閉めたばかりだった素晴は、一転してあたふたと窓を開け放とうとする。
「そうじゃないよ! 決して、狸臭いとか、悪い意味で言ってるわけじゃない。安心する匂いだと言っているんだ。だって、あの病院からこの研究所まで、私を運んでくれた背中の匂いじゃないか」
「狸はイヌ科だ! 狼の親戚だ! だから俺は臭いんだ!……そりゃぁ、咲久弥みたいに甘い匂いなんて、するわけねーけどさぁ……」
「なんでそうなる? そして、なぜ涙ぐむんだ?……って、私は、甘く臭うのかい!?」
咲久弥は、眉間に皺を寄せて、病衣に包まれた自分の腕やら腋やらを嗅いだ。
些か、いや、少なからず汗臭い。いったいどこが甘いというのだろう。
咲久弥は、改めて窓辺の素晴を見遣ったが、彼は相変わらず、うるうると涙ぐんでいた。
ふと、その表情が、水底の宝物に引っ掛かったような気がして、咲久弥は、頭に手をやり、髪を掻き上げた。
「ねえ、素晴……話をしないか? 私は、おまえのことを、少し思い出した気がするんだ」
実は、屋上で少しばかり踊ったことをきっかけに、こちらの世界での記憶と思しき映像が、咲久弥の脳裏に蘇り始めていた。
素晴の部屋には、椅子が一脚しかない。
だから、少年二人は、窓際のベッドに並んで座ることにした。
「あの学園祭の日のことを、少しばかり思い出したんだ。素晴、おまえ、ハードル走に出場してなかったか?」
「したした!」
「漆黒の四つ足の狼が、将来は災害救助で人の役に立ちたいですと宣言して、ぶっちぎりのトップでゴールした。けれど、残念なことに、失格になってしまった——だって、全力でハードルの下を駆け抜けたから!……違ったかい?」
「うぅ……違わねーよ! ルールをよく知らなかっただけだ! なあ、咲久弥ぁ、なんでそんな黒歴史を、ピンポイントで思い出しちまうかなー!」
「だって、おまえのうるうるとした顔を見るうちに、失格になった後、人間の姿に戻って、山田博士にどやされていた時にもこんなだったなぁと……あはは、くすぐったい!」
素晴は、ハードル走に出場した時と同じ、四つ足の狼へと変身すると、咲久弥のことを、ほっぺたペロペロの刑に処したのである。
黒い狼の悪戯は、とどまるところを知らなかった。
伸し掛かられた咲久弥は、ベッドに仰向けに倒れるしかなかった。
「おい……どこ舐めてんだよ……」
紫を帯びた暗紅色の大きな舌が、咲久弥の口を塞ぐようにぬめぬめと往復したかと思うと、今度は、その唇を抉じ開けて、口内に押し入ってきた。
大きいばかりか、びっくりするほど肉厚な舌だった。
咲久弥は、思わずカチリと、狼の舌を噛んだ。
二人の唾液は混ざり合い、覚えのある塩と肉の味が広がった。
咲久弥の唇と素晴の舌は、粘り気のある糸で繋がれたが、やがてそれは切れた。
素晴は、咲久弥の口からは出て行ったが、その首筋を下へと辿り、鎖骨を堤とする窪みをたっぷりと濡らしてから、さらに下へと向かったのだ。
「あぁ!」
「ルームサービスでございます」
コンコンとドアをノックする音と、そんな言葉が聞こえたのは、咲久弥が、身を捩って艶めかしい声を上げてしまい、そんな自分に驚いた刹那のことだった。
「なんの用だ!」
応対したのは、素晴だった。当然のことながら、ルームサービスなんて誰にも頼んではいない。
彼は、二本足の人狼と化して、ドアを半分ばかり開いたものの、来訪者に立ちはだかるような体勢を取った。
やって来たのは、四號一人だった。
四號にしてみれば、素晴が精一杯の人狼形態と化したところで、自分よりも貧弱な存在にすぎない。
室内のベッドを垣間見れば、すらりと長い脚の片膝を立てて、仰向けとなった美少年がいた。
病衣の前を大きくはだけられており、どこか呆然とした表情を浮かべていた。
とても良い眺めだった。
人狼とは異なる甘やかな体臭にもくすぐられる。
四號の視線に気づいて、翡翠色の瞳に怒気を宿しつつ、両手でさっと服を掻き合わせた辺りが、なお良かった。
「この部屋に灯りが点った後、なんだかドタバタしているようだったから、二人ともここなのだろうと見当がついた」
四號は語った。なんと、「狸臭騒ぎ」のせいで、居場所を特定されてしまったらしい。
「今日、市民病院で発掘した物資の残りだ。おまえたちで好きにするがいい」
四號がルームサービスを名乗ったのは、全くのデタラメというわけではなかった。
病衣やらシーツやらタオルやらを、彼は持参していたのである。
「どうして、私たちに?」
手早く身繕いを済ませた咲久弥が、素晴の背後から、硬い声で問う。
「病衣については、単純に我々にはサイズが小さすぎる。他は、まあ、手打ちの品といったところだ。咲久弥、俺はおまえを見直したよ。この世界に関する記憶が曖昧な状況で、よくぞあの爺さんのゾンビに向き合えたな。その胆力と適応力には一目置いてやろう。以上だ」
「そーだそーだ! 咲久弥は凄いんだぞ! けど、あんまりジロジロ見るんじゃねー!」
素晴の威嚇を鼻先で笑いつつ、四號は、あっさりと立ち去ったのだった。
「なあ、咲久弥……あの時のこと、訊いてもいいか?」
素晴は、獲得した物資を机に積むと、人間の少年の姿を取った。尻尾は生やしたままであり、随分と真剣な表情をしていた。
「屋上でのことを言っているのかい?」
「そう……大皿に盛られたゾンビが運ばれてきた、あの時のことだよ」
「……いいさ」
二人の少年は、再びベッドに並んで腰掛ける格好になった。
「俺……咲久弥がパニックを起こしちまうんじゃないかと、心配したんだぜ。あのステーキがゾンビの肉だって知ったら……生きてくためには、ゾンビを食う以外にどうしようもないって現実に直面したら……パニックでは済まないかもしれねえって、こっちがパニクりそうだった。だけど、おまえは……」
皿に盛られたゾンビに敬意を表したうえで、その肉を口にすることを選んだ。おかげで、五人組の人狼たちを鎮めることができたのだ。
「心配してくれて、ありがとうよ。お察しの通り、私は、パニック寸前だったよ。獣の肉だとばかり思っていて、しかも美味い——そんなステーキが、実は、人間のゾンビの肉だったなんて……なんて惨いことだ、こんなものを口にしてまで命を繋ぎたくはないという思いすらよぎったんだ。けれど、そんな時、私の眼前に、お頭が姿を現したんだ……」
「お頭?」
「ああ、猿楽一座を率いていた女性さ。私が過ごしていたシミュレーションの世界で、師でも親でもあった人だ。彼女が、急に目の前に現れて、よく考えるようにと諭してくれたんだよ」
咲久弥は、小首を傾げた。素晴は、絶句していた。
「なるほど。お頭の姿は、やはり、この私にしか見えていなかったようだね。けれど、彼女のおかげで、思い至ることができたよ。素晴や博士までもが、私と同じ物を食べていたということは、もはや、そうするしかないってことだろう。そうやって素晴が生き延びてくれたことを、否定するのは絶対に嫌だって」
「咲久弥……」
素晴は、名を呼びながら、ベッドの上で手を握った。咲久弥もまた、黙って握り返した。
「聞いてくれ。俺は、学園祭があったあの日、研究棟に戻るよう言われて、突然、麻酔薬か何かを注射されちまったんだ。どれだけ眠ったかはよくわかんねえけど、目が覚めたら、地下室の檻の中だった。人狼の力でもびくともしねえような、頑丈な檻だった。サーカスの猛獣みたいに檻に入れられて、独りっきりにされちまったんだ。
もう、わけがわかんなかったよ。ハードル走を失格になった罰なのかなって思った。
食事だけは運ばれてくるんだ。防護服を着込んで、顔まで覆い隠して、誰なのかわかんないやつが持ってくるんだ。
俺、檻ん中で、二百回は眠ったよ。だんだん食事の量や回数が減らされていった。
もう、どうすればいいのかなんてわかんなくってさ、人の姿でも尻尾を出しっぱなしにして、自分の尻尾に話しかける癖がついちまった。尻尾が咲久弥に見えたこともあったよ。
そんなある日、防護服の誰かがやってきて、『ワクチンを打つぞ』って……声で博士なんだってわかった。実は、ゾンビウイルスに感染するのを防ぐために、ずっと隔離されてたんだって、その時初めて教えられたよ。
ワクチンを打たれた後、なんでか、食事が、肉ばっかりになった。
それからもう三十回眠った頃、防護服の誰かが、食事を持ってきた。そいつは、地下室に入ってすぐ、ドアを閉めたんだけど、そいつが俺の檻に近づく間に、またドアが開いたんだ。
後から来たもう一人は、防護服は着てたけど、顔は剥き出しだった。くすんだ緑色の顔をしていて、体臭がきつかった。食事の肉と同じ臭いだった。
それが、俺が初めて見た人間のゾンビだった。
結局、一號が駆けつけて、防護服のゾンビを、槍の一撃で仕留めた。一號は、防護服なんて着ていなかった。
その頃にはもうとっくに、銃弾は使い果たして、補給もできなくなっていたから、槍みたいな武器を使うしかなかったらしい。
俺が檻から出ることを許されたのは、それからもう三百日ほど経ってからだった。状況が落ち着いたって聞かされて、地上に戻って来た時にはもう……この研究所から人間はいなくなってたよ。ここの所長で、咲久弥を生み出した御崎美道理博士も、ゾンビになって、亡くなったんだって。そして、咲久弥は行方不明になったんだって聞かされて……」
素晴は、言葉を詰まらせ、嗚咽した。
「そうか……その頃既に私は、あの人工睡眠カプセルに匿われていたんだろうね」
「咲久弥、生きててくれて、本当にありがとう。いつでもうっすらゾンビ臭いこの世界に、いい匂いのまま戻って来てくれて、すっげー嬉しい! そのうえ、俺のことを否定しないって言ってくれて……」
素晴は、ついにわんわんと大声で泣きながら、咲久弥の肩に顔を埋めた。
「博士は言うんだ。妖は人肉を好むものだ。人狼である以上、元は人肉であるゾンビの肉を食うなんて、ごく当たり前のことだろうって。俺は、なんか違うと思いながらも、なんも言い返せなくってさ……おまえのおかげで、救われた気がする……」
「私だって、おまえに救われたんだ……おまえの体から尻尾として生えてやることなぞできないが、今確かにここにこうしているよ」
咲久弥は、素晴の背中に両腕を回したのだった。
彼が、山田博士から衝撃のリクエストを突きつけられて、フリーズすることになるのは、翌朝のことだった。
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