第6話 シェフのおすすめ
「食事の準備をしてくるから」と、山田は、二人を待たせて、屋上を離れた。
二人きりとなった咲久弥と素晴は、屋上の柵に、並んで身をもたせ掛けた。
「素晴、博士は、料理が得手なのかい?」
人類が滅亡しただとか、妖が復元されたなどという話を受け止めきれなくて、咲久弥はついつい、気さくな物言いをしたのである。
「いやぁ? そんなの、聞いたこともねえ。着てる服からして、まあまあヨレヨレだろ? 身の回りのこととか、料理とか、とても得意とは思えねーけどなー……」
「おまえが、他人の衣のことを云々するのかい?」
相変わらず腰布一丁の少年相手に、咲久弥は、ふふっと笑みを零したのである。
「だーかーらー、俺の場合は、これが合理的なんだって。変身するたびに破けるような服はごめんだよ。それに……オメガ・パンデミックからこっち、物資を補給するのが、すっげー難しくなっちまったんだよなぁ。俺が、今朝早く貯蔵庫をあさった時にも、備蓄食料はもう、飲み物くらいしか残ってなかったはずだ。博士は、何を料理するつもりなんだ?」
素晴は、夜空を見上げて、眉を顰めた。
「私は、大抵のものなら、ありがたくいただくよ。猿楽の一座として旅する間、ろくに食べられないことだって、珍しくなかったから」
「……それって、シミュレーションの話だよな?」
「ああ、所詮は絵巻物に描かれた絵空事だろうって、言いたいのかい? けれど、そんな絵空事にすぎない身の危険から、おまえは、私を助けてくれたじゃないか。ありがとうよ」
「へ!? いやぁ……あれはさすがに放っておけなかったというか……」
素晴は、翡翠色の眼差しと、率直な礼の言葉に射抜かれたような気がして、思わず頬を赤らめたのだった。
「今日は、長い道中、背負ってもらったりもして、本当に世話になった。おまえの必死の息遣いや鼓動を感じるうちに、こちらの世界も、少なくとも夢幻などではないのだろうと思えたさ」
「おおお俺も、おまえの呼吸や鼓動を聞いてた! 学園のアイドルとせっかく再会できたのに、咲久弥がゾンビになっちまうなんて、絶対に嫌だったから!」
素晴は、幾分早口に捲し立ててから、急に右手で自分の顔を掴んだ。太く長い五指の隙間から、さっき没した夕陽のような色が、熱ましく溢れ返っていた。
「灰色のあいつらってさー、少なくとも、一號と四號は、咲久弥がゾンビになるはずがないって、わかってたらしいんだよ。けど、教えないほうが、俺がキリキリ歩くだろうからって、黙ってやがったんだ。ほんっと性格悪いよなー!」
素晴は、何かをごまかすように、ことさらに言い立てた。
「ねえ、灰色の人狼たちは、おまえのように、人間の姿や、狼そのものの姿に化けることもできるのかい?」
咲久弥は、思わず声を潜めた。あの五人のうちの何人かとは、とても打ち解けられる気がしないし、姿を変えて忍び寄られたりしては堪らない、という思いがあった。
「いやぁ? あいつらは、いつでもあの人狼の姿だ。考えてみれば、博士のクローンだってんだから、博士そっくりの人間の姿に化けられそうなもんだけどなぁ……そうだ、博士は博士で、大抵は人間の姿だ。服を破りたくないのかな?」
素晴は、顎を掴みながら、首を傾げた。
彼らは、博士そっくりに化けられるかもしれない……咲久弥は、そのことを胸の内に刻んだ。
「二人とも、待たせたね!」
山田は、上機嫌の声で言った。
彼は、灰色の人狼たちを伴って戻ってきたのである。
人狼たちは、丸いテーブルに椅子、何かを乗せたワゴンを、屋上へと持ち込んだのだ。
素晴が見たところ、テーブルや椅子は、かつて研究所の食堂にあったもの、そして、料理が乗っているであろうワゴンは、医務室で見掛けたことがあるような代物だった。
人狼たちは、照明に照らされた屋上の一角に、テーブルと椅子をセッティングしたのである。椅子は、全部で三脚だった。
「まずは咲久弥くん、座りたまえ」
山田は、エスコートするように椅子を引き、咲久弥は、戸惑いながらも従った。
「素晴は、咲久弥くんのそばに座るといい」
言われなくともそのつもりだった素晴は、自分で椅子を引いて着席した。
「実のところ、僕の唯一絶対の料理のレパートリーが、これなんだ。飲み物は、レモンティーでいいかな? 水と二択でしかないのが、残念なところだが……」
山田が、ワゴンから手に取り、咲久弥の前に配膳したのは、それなりに大きな皿に盛りつけられた、その皿からはみ出さんばかりのステーキだったのである。
「僕は、肉食主義を気取っているものでね。ただ、口に合うかどうか尋ねる前に、あらかじめ白状しておくよ。僕がこの世界で調達できる調味料は、もはや塩だけなんだということを」
咲久弥は、思わず、腹に手を当てた。こんがりと焼かれた肉を前にして、自分の胃袋が鳴いたのが聞こえたからである。
「マスター、どうぞ」
山田が機嫌良く三人分を配膳したところで、一號が、彼のために椅子を引いた。
山田が、咲久弥の正面に着席すると、人狼の五人組は、屋上から去って行ったのである。
「食べたまえ」
「いただきます」
咲久弥は、肉を一切れ、口に入れた。
素朴な塩味と適度な獣臭さが、口から鼻へと突き抜ける。
全身がドクドクと脈打つようにして、血の巡りが盛んになるのが感じられた。
「どれどれ……うむ、あからさまにスジがあって固い肉だな。オメガ・パンデミック以前の、サシの入った牛肉が恋しいよ」
山田は、自身の皿に厳しい評価を下したが、咲久弥は既に、二切れめを口に運んでいた。
「美味しゅうございます! 一座で旅をしていた道中、襲ってきた獣を返り討ちにして、捌いて食べたこともありましたが、あいにく塩の持ち合わせすらなくて……」
咲久弥の言葉は曖昧に途絶え、彼は、肉を咀嚼することに夢中になった。
山田は、目を細めたのである。
「咲久弥くんは、カトラリーの扱いが上手だね。優雅さすら感じるよ。一座で旅をしていた当時、ナイフやフォークを使って食事していたのかい?」
翡翠色の瞳が、ゆっくりと瞬いた。咲久弥は、山田の指摘に驚きながら、改めて自身の両手を見遣る。
「いいえ……箸や匙なら、使うこともありましたが……」
咲久弥は、初めて見るはずのナイフやフォークを、自然に使いこなしている自分を、不思議に思ったのである。
ついつい、素晴の手元にも目をやれば、彼は、ナイフとフォークでステーキの両端を突き刺して持ち上げ、その真ん中辺りを齧っていたわけだが……
「いいんだよ、咲久弥くん。僕は、むしろ嬉しいんだ。きみは、人間社会において、民生用の労働力となるべく生み出されたんだ。おそらく、生みの親である御崎
「博士! 咲久弥は、俺のことなんかも、いつか思い出してくれるかな?」
素晴は、顔を輝かせた。彼はなぜか、ステーキが運ばれてきた頃から、浮かない表情をしていたのだが、急に元気を取り戻したのである。
「黙れ、やんちゃ坊主! きみの粗忽さには、時として、暗澹とした気分にさせられるよ……せいぜい、咲久弥くんの手助けに励むんだな」
山田に叱られた素晴は、尻尾を下げて上目遣いとなった。
「頼りにしてるよ、素晴」
咲久弥に微笑み掛けられた途端、たちまち白い歯を見せて、尻尾を振りたくったのである。
「そうだ、咲久弥くん。学園祭の映像を見てみるかい?」
食事が一段落した頃合いを見て、山田が言った。
「学園祭?……ああ、私が踊ったとかいう……」
「見たい! 見たい! 見る! 見る! 咲久弥しか勝たん!」
「テーブルを叩くな、やんちゃ坊主!」
山田は、軽く嘆息したが、薄い長方形の端末を、卓上に置いたのである。
「今や、インターネットは使えない。テレビやラジオも、沈黙して久しい。しかし、ライブラリに保存した映像であれば、こうして視聴することもできる」
程なく、丸いステージが映し出され、DJが音楽を奏で始めた。
「笛や太鼓……というわけではないのですね」
咲久弥は、耳慣れぬ音楽に戸惑ったが、なんだかおのずと体を揺すりたくもなった。
そこへ、風船で飾られたゲートから、軽やかな身のこなしで、一人の少年が登場した。
彼が、やおらキャップを脱いで客席へと放り投げると、観客の雄叫びじみた歓声が聞こえ、翡翠色の瞳が明らかになった。
「あ! 私だ……」
映像の中の咲久弥は、赤に近いショッキングピンクのシャツとパンツを着こなしていた。
キャップを投げて伸ばした腕を、顔ごとクイッとステージ上へと戻すと、彼は、上半身を三拍子で揺すりながら、四拍子のステップを踏み始めたのだ。
上半身の動きはみるみるダイナミックとなり、ついに、右へ左へと側宙を切るに至った。
咲久弥のすらりと長い脚が、空中へと解き放たれるかのようだった。
やがて、バック宙をも決めた彼は、着地と同時に、しなやかに前後に開脚した。
両手を上げて、軽く観客を煽った後、両手と頭部を地面につけて、三点倒立からヘッドスピンを開始したのである。
卵のごとく丸まった体勢から、次第に回転速度を上げつつ、まっすぐに伸び上がってゆく。両脚だけでなく両腕までも空中へと解放して、頭だけを支えに回転を続けたのだった。
最後は、ぴたりと回転を止めるや、体を捻って空中で脚を組み、観客が投げ返したキャップを片手で見事にキャッチして、ポーズを決めたのである。
そして、キャップを投げ返した観客こそ、青いTシャツ姿の素晴だったのである。
咲久弥は、薄紅色の唇を戦慄かせた。
「すごい……素晴が、着物を纏っている……」
「そこなのかよ!」
咲久弥は、ふふっと笑い声を零して、椅子から立ち上がった。
「見ているうちにわかりました。これ、今すぐにでも踊れますよ」
幸い、屋上はそれなりに広々としている。
咲久弥は早速、四拍子のステップを踏み始めた。翡翠色の瞳が、これまでとはまた違った光や熱を帯びていた。
「どーもー! 追加の肉をお持ちしましたぁ!」
二號の、芝居がかった声がした。愛想が良いようでいて、白々しかった。
それは、咲久弥が、踊りたいという衝動に身を任せようとした時のことだった。
「追加の肉? そんなものをオーダーした覚えはないが」
山田は、腕組みして、鼻の周囲に皺を寄せた。
しかし、二號は返答しない。彼が、澄まし返った様子で脇へどくと、三號が進み出た。
三號は、あまりにも大きな、銀色のトレイを抱えていた。
「咲久弥、見るな!」
素晴が、咄嗟に彼を背後に庇ったが、翡翠色の眼は、既に大きく見開かれていた。
「ジョリー・ロジャー」と呼ばれる、海賊旗の意匠がある。
人間の大腿骨を二本交差させた上に、同じく人間の髑髏が乗せてあるというデザインだ。
咲久弥が目撃したものは、それと似ていた。
人体を乱雑に切り刻んだものを、大皿の上に積み上げて、盛りつけの仕上げとばかりに、てっぺんに人の頭部が飾られていたのである。
人体のパーツは、ピクピクと蠢いていた。
てっぺんに乗せられた顔の眼球は、左右別々にギョロギョロと動き回っていた。もはや声を立てることはなかったけれど……
人の姿をしてはいても、くすんだ緑色であるそれはゾンビで、病院で三號に玩具にされていた老爺であることに、咲久弥は気づいた。
そう、風の妖術を放って、老爺の首を落としたのは咲久弥である。しかし、誓って、それ以上のことはしていないのに……
「お客様、先程のステーキは、このゾンビの腿肉を焼いたものです。お口に合いましたでしょうか?」
慇懃無礼にそう尋ねたのは、四號だった。
咲久弥は、両手で口元を押さえながら、地面に膝をついた。
美味しゅうございます!——
それは確かに、彼自身の口を突いて出た言葉だ。
素晴は、すかさず、咲久弥の双肩を抱きつつ、四號を睨み上げた。
「こういった遣り口は、悪趣味が過ぎるな」
山田は山田で、灰色の人狼たちを睥睨した。
「咲久弥くんの記憶は、未だおぼつかない。今現在の食糧事情についても想起できていないだろう。加えて、咲久弥くんは半妖ではあるが、その精神構造は、概ね人間のそれだ。いくらゾンビこそが我々に残された唯一の食材であるとはいえ、このような形で見せつけられては、死者への冒涜を感じ、食に纏わる禁忌の念を抱いて、不快になるのも無理からぬことだ。こんな真似をして、一体どういった利益が得られるというのかね?」
「マスター! どうしてあなたは、そんなにもその半妖のことを大切にするんだ!?」
五號が叫んだが、それは、山田の問い掛けに対する答えではなかった。
「何を言っている。我々人狼が、今日までこの世界で命を繋ぐなぞ、咲久弥くんの血液から作られたワクチンなくしては、ありえなかったことだ。彼は、我々の命の恩人だろうが!」
「だとしても、ワクチンの接種は、既に完了した! そいつはもはや用済みのはすだ!」
咲久弥は、頭をぶん殴られたかのような……いや、それ以上のショックを受けて、荒い呼吸を繰り返していた。
彼は、少なくとも、かつて人間だったものの、ピクつく屍肉を焼いたものに舌鼓を打ってしまったのだ!
『咲久弥……』
そんな彼の名を、誰かが呼んだ。
素晴ではない。女の声だ。
「お頭?……」
咲久弥が見遣れば、懐かしい猿楽一座の頭目が、眼前に姿を現していたではないか!
彼女は、人狼同士の舌戦を他所に、研究所の屋上に佇んで、弟子のことを見詰めていた。
その姿は、照明の光を受けているというよりも、自身の内側から、ほのかな光輝を放っているかのようだった。
師匠にして親代わりでもある、凛々しく艶やかな彼女の姿を、咲久弥が見紛うはずもない。
『咲久弥……よくお考えなさい。おまえはこれから、こちら側の世界で生きてゆかねばならぬのです。そして、おまえは、仲間を思う気持ちが、とても強い子です……』
「我々はワクチンの接種を完了した。それは事実だ。しかし、将来的に追加の接種が必要となったら、どうする気かね?」
「マスター、たったそれだけの理由で、あなたは、自身の分身ともいうべき我々ではなく、その半妖を寵愛するのですか?」
人狼同士が言い争う最中、咲久弥は、静かに立ち上がった。
そして、大きな銀色のトレイへと歩み寄ると、その前に跪いた。
瞑目して、両手を合わせて祈ること暫し、「いただきます」と言葉を発したのである。
彼は、皿の上から、恭しい仕草で、老爺の手首を拾い上げた。
薄紅色の唇を戦慄かせながらも、一口齧り、黙々と咀嚼して、ついに嚥下したのだった。
一號もまた、ツカツカと銀の皿へと歩み寄った。
彼は、老爺の頭を片手で掴むや、そのままグチャリと握り潰したのである。
例えば、果実を握り潰すのとは大違いで、ゾンビの頭は、水分に乏しかった。
「同志たちよ、今日のところは、これまでとしよう」
一號は、五人組のリーダーとして宣言した。それに先立つ彼の行為は、手打ちの儀式のような意味合いだったらしい。
「よかろう。つまるところ、きみたちは僕に対して、不満や憎しみを募らせているというわけか。そもそも、生粋の人狼であるこの僕が、人間社会における保身のために、きみたちを生み出し、兵器として商品化したことは、厳然たる事実だからね。ただし、そこに咲久弥くんは全く関与していない。彼を巻き込むことは許さん。僕と五名のクローンだけで、日を改めて話し合おうではないか」
山田もまた、重々しく宣言することで、その場を収めたのだった。
「マスター、決して、憎しみではないのだ……」
一號は、絞り出すように言ったが、それ以上言い募ることはしなかった。
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