第5話 オメガ・パンデミック

 山田は、咲久弥と素晴の二人だけを、屋上へと連れ出した。自身が活動拠点を置いている研究棟の屋上である。

 そこからは、御崎研究所が一望できるのだ。

「日没前に、見ておいてくれ。きみたちが生まれた場所であり、かつて、国内屈指の威容を誇っていた研究所のことを」

 山田は、穏やかに促したのだった。


 咲久弥たちが病院を出発した時、太陽は中天にあった。

 その太陽が西へと傾くまで、咲久弥を背負った素晴と、他の人狼たちは皆、歩き通しで研究所へと帰還したのである。

「動かせる車なんて、もうないんだ。公共交通機関も、とっくに死んだ。だから、俺のおんぶで我慢してくれ!」

 素晴は、そんな言い方をした。

 人狼たちの歩みは、咲久弥が自分の足で歩くよりも、よっぽど速かった。

 咲久弥は、猿楽の一座における双子の幼女さながらに、ただ運ばれるだけだった。

 研究所への道すがら、時折ゾンビの姿を見掛けたが、生きて歩く者には全く出会わなかった。鳥の囀りひとつ聞こえなかった。

 耳についたのは、緑豊かな廃墟や雑木林で、草木が風にそよぐ音だけだったような気がする……素晴の息遣いや心臓の鼓動を除いたならば……


「素晴は、僕たちが今いる、この研究棟で生まれた。ご覧、咲久弥くん、きみが生まれたのは、あちらの中央棟だよ。きみは、この研究所の所長を務めていた、御崎博士のラボで生まれたんだ」

 所長代理を名乗る山田は、懐かしそうに目を細めた。

「ここには、十を超える研究棟が存在して、研究者だけでも数百人が在籍していたんだ。しかし、僕以外に人狼はいなかった。全員、人間だったらしい。ゾンビウイルスにあっさりと感染して、皆、死に絶えてしまったよ……」

 その声に漂うのは、決して懐かしさばかりではなかった。

「博士……人狼なら、素晴も、軍事用の灰色の五人もいるではありませんか。それに、私の血によって、恐ろしい病を防ぐことができたのではなかったのですか?」

 咲久弥は、話が違うとばかりに、質さずにはいられなかった。


 山田は、全てを否定するかのように、首を横に振ったのである。

「生き残った人狼のうち、研究者は僕だけで、他は皆、被造物にすぎないんだよ。戦闘員たちは、僕の遺伝子をベースに作成されたクローンだ。素晴の出自は、また別物だがね。そして、きみの血液を原材料にして急拵えしたワクチンは、失敗作だった。何しろ、人狼と、その血を引く者にしか効果をもたらさなかったのだからね。人間は元より、人狼以外の妖にも効かなかったんだ。咲久弥くんに素晴、戦闘員五名、そして僕——それが、今この広大な研究所において、いや……僕が知る限り、この世界中において、ゾンビウイルスを恐れることなく生き残っている全員なんだ……」

 咲久弥が瞬いた翡翠色の眼は、今にもひび割れてしまいそうだった。彼は、おそるおそる質問したのである。

「人の世は、滅びてしまったのですか?……」

 それは、彼が、病院からの道すがら、もしやと抱いた疑問だった。もっとも、その時の咲久弥にとっては、自分や素晴がゾンビと化してしまう恐怖こそが、何より深刻に胸を締めつけていたのだが……

 研究所に到着して、二人ともゾンビになる恐れはなく、むしろ、自分の血が素晴たちを救ったと聞かされた時には、安堵を通り越して夢見心地となった。

 しかし、山田が、「失敗作」だったと断じたことで、咲久弥の夢は、儚く潰えた。

 すると、やはり、この世界の人間は……


「人類は滅亡した。ゾンビウイルスが出現してから、ものの三年で、こうも呆気ないとはな……」

 山田は、中央棟を見遣りながら、随分と淡々と応じた。

「博士! 人が滅んだとおっしゃるのなら、この私は、いったい何者なのですか!?」

 山田は、怪訝な表情で、咲久弥が取り乱すのを見詰めた。

「きみは……そんな基本的なことまで、思い出せないというのかね?」

 そして、咲久弥のそばを離れようとしない素晴へと、あからさまに舌打ちしたのである。全ては素晴の不手際に起因すると言いたげだった。

「咲久弥くん、きみは、風鬼かぜおにと呼ばれる妖だ。文字通り、風を操る鬼だよ。その昔、風鬼が、陰陽師に力を貸したという伝説が残っている。ただし、きみの遺伝子を解析したところ、半分は人間のものだった。つまり、きみは、風鬼と人間との間に生まれた半妖ということになるな。ゾンビウイルスへの耐性は、風鬼の血に由来するのだろう」

 妖の血を引いているかもしれない——それは、咲久弥を深刻に悩ませてきた謎だった。山田は、そんな謎の答えまで、いとも簡単に投げて寄越したのだった。


「本当に、どうしてこんなことになってしまったんだろうな。僕だって、自問せずにはいられないよ……」

 人間の姿をした人狼——山田へと、夕陽が照りつけて、その影を黒く長く伸ばしてゆく……


「この地方には、昔から、所謂、神隠し伝説があってね。神隠しを恐れるあまり、そこここが禁足地とされていたほどだ。十九世紀の終盤、当時の自治体や財閥が、そうした土地を購入して、市民病院や御崎研究所を建設したというわけだ。財閥の主たる御崎家は、研究所だけではなく、別荘だのなんだのを建設することにも余念がなかったようだがね。

 二十一世紀ともなると、御崎研究所は、遺伝子関連の研究で、世界にその名を馳せていた。

 きみたちは、古い寺に、妖のミイラが祀られているといった話を聞いたことがないかね? 人魚や河童が定番だな。無論、そのほとんどは、獣や鮫なんぞの死骸を材料にした偽物にすぎないのだが、この研究所に所属していた学者が、そうした中から、本物を探し出してしまったのだよ。風鬼と人狼のミイラだった。この地方の寺から見つかったものだから、神隠し伝説との関連性も取り沙汰された。

 もっとも、その後、他の地方でも、妖狐ようこ土蜘蛛つちぐもといった妖のミイラが発見されることになったのだがね、これは、他所の研究所の手柄だ。

 二十一世紀の後半ともなると、この国の労働力不足は、極めて深刻でね。数々のロボットが実用化されたが、それでもまだまだ足りない。御崎研究所も、後発の他の研究所も、妖のミイラの遺伝子から生体を復元して、人間にとって都合の良い労働力にできないかと考えた。名づけて、『トモダチ計画』さ。

 ゆえに、寺で発見されたミイラを元に、きみたち二人も生み出されたのだ。

 政府も、『遺伝子の二十五パーセント以上が人外に由来する個体には、人権を付与する必要はない』などという、とても有り難い法整備を行なって、支援してくれたよ。わかるかい? 『妖の遺伝子を人間に組み込んで良し。そして、そんな被造物は、人権を持たぬ奴隷として扱き使っても良し』という意味だ。

 ただし、そうした被造物が、人間の社会に適応できるか、人の役に立つかどうかは、慎重に見極める必要があった。そのため、インターネットを活用して、メタバースに『トモダチ高校』を開設して、被造物の教育に乗り出したというわけだ」


「そうそう! 全国各地の研究所から、妖の生徒が、リモートで出席してたんだ。俺は、咲久弥が、この研究所の別棟にいるだなんて知らないまま、高校で会うのを楽しみにしてたんだぜ!」

 素晴は、無邪気に口を挟んだ。しかし、晴天色のその瞳は、ただ無邪気なだけではなく、気遣わしげな色彩を帯びて、咲久弥のことを見詰めたのである。


「私は……高校というもののことも、まだほとんど思い出すことができません。博士、そういった計画やら高校やらが、ゾンビとなる病が生まれたことに、何かかかわりがあるのですか?」

「いや、無関係だ」

 山田は、咲久弥の懸命の問い掛けを、あっさりと否定したのである。

「ゾンビウイルスの発生は、御崎研究所とは、一切無関係だよ。あの忌まわしい病原体は、海外で行われていた研究に由来するのだ」

 山田は、鼻の周囲に皺を寄せた。人間の顔でありながら、どこか狼を思わせる表情だった。

「連中の当初の研究目的は、地球規模での食糧難を解決しようというものだった。それ自体は、至極真っ当なものだろう。咲久弥くん、きみ、レモンティーは飲んだかね? 素晴が、張り切って持ち出していたようだが」

「はい」

 素晴が振りたくった尻尾が、咲久弥の腿の辺りを掠めた。

「ああいった、災害を想定した備蓄食料であっても、消費期限は五年程度であることが多い。しかし、食糧難の解決を目論んだ連中は、なんと、常温で十年間保存できる食肉を生み出そうとしたんだ。そして彼らは、ごく一時的に成功を収めた。人工のウイルスを作成して、それを屠殺直前の家畜に感染させることによって、長期間保存可能な食肉を生み出したんだ。もっとも、ウイルスに感染した家畜は、その時点で生殖能力を失ってしまうことが確認されていたがね。どうあれ、その人工ウイルスは、ある日突然変異した。人間にも感染するようになったんだ。約三年前のことだよ」


「なあ博士、あの『学園祭』の時、研究所の外の世界では、もう……ゾンビウイルスが広がっていたのか?」

 素晴が、真摯に尋ねた。それもまた、咲久弥の知らない話だった。

「ああ、あれももう三年近く前のことになるな。学園祭を計画した時点では、僕たち研究者は、ここ御崎研究所に、トモダチ計画の成果物を持ち寄って、共有しようと考えただけだった。しかし、その直後に、『新型ウイルスの脅威』が、世界的に注意喚起されたのだ。『オメガ・パンデミック』——即ち、人類存亡の危機であると、ついに公認されたわけだ。何しろ、ゾンビウイルスに感染することで、人間は、二十四時間以内に、知性も生殖能力も失ってしまうのだから。ゾンビ化することは、人間としての死と同義だ。全国各地からこの研究所を訪れた、トモダチ高校の生徒たちは、何も知らされないまま、学園祭のイベントを楽しんでいたのだろう。しかし、僕たち研究者は、せめてゾンビ化を防ぐワクチンを作れないものかと、額を合わせて知恵を絞っていたんだ。結局のところ、恩恵を被るのは人狼のみなどという、ふざけた失敗作しか生み出せなかったがね。地球規模での食糧難は、解決したと見るべきかもしれない。食糧難を憂慮する人間は、もういないのだから」


「あの学園祭は楽しかった。模擬店の焼きそばは美味かったし、ステージで咲久弥が踊ったダンスは最高だった!」

「私が……踊った?」

 咲久弥が小首を傾げると、素晴は、満面の笑顔で、首がもげるほどに頷いたのである。


 やがて、太陽が没すると、咲久弥たちが屋上に立つ研究棟にだけ、灯りが点っていることが明らかとなった。

 中央棟をはじめとして、研究所の他の施設は、深い海にでも投げ入れられたかのように、暗闇に沈んでいったのである。

「咲久弥くん、この研究所は、地下水に恵まれている。飲み水の心配はしなくていい。地熱発電のシステムも生きてはいるんだが、不安定で、発電量も限られている。この広大な研究所の中で、夜間でも明るいのは、この研究棟だけなんだ」

 山田は、シャツの袖口のカフスボタンに触れながら、中央棟を見遣った。あたかも、暫しの別れを惜しむかのように。

 見渡す限り、研究所の外にも、人々の営みを照らし出す灯りなど、確かにひとつとして存在していなかった。

「食事にしようか」

 まるで、夜の帳に抗い、感傷を堰き止めるかのように、山田は提案したのである。


 

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