第4話 妖とバケモノ

 市民病院のロビーでは、ちらほらと人影が行き交っていた。

 受付カウンターの前には、埃の積もった長椅子があり、老婆が一人、小ぢんまりと腰掛けていた。

 その背後に、何者かが歩み寄った。

「おい、婆さん。この期に及んで病院にやって来たところで、どうにもなんねえだろうがよ!」

 そして、声の主は、大きな槍を振りかぶったのだった。


 素晴の仲間である四號が投げて寄越したのは、クリーニング済みらしい病衣だった。

「ほら、俺が着ても、変身した拍子に破けちまうだけだからさ」

 人狼の少年は、それを咲久弥に譲ったのである。

 なるほど、素晴が腰布一丁で過ごしているのも、一理あることなのだな——咲久弥は、彼の親切をありがたく受け取ることにした。

「なんだか、作務衣を簡単にしたような衣だね」

 本来なら、入院患者に貸与される衣服を、咲久弥は纏ったのである。


「なあ、咲久弥、聞いてくれ……」

 素晴は、病衣の双肩に手を置いて、翡翠色の眼を覗き込んだのである。

「実は、この部屋の外には……ってゆーか、この世界中には……人の姿をしたバケモノが、ウヨウヨ、ウゴウゴしてやがるんだ……」


「つまらんな」

 一號いちごうは呟いた。

 彼は、五名の戦闘員のリーダーであり、病院のロビーで、単独行動に興じる仲間たちの様子に目配りしていた。

 本日は、とある要人の身柄の確保と、戦闘訓練を目的として、この病院を訪れた。しかし、戦闘訓練とは名ばかりで、手応えのある相手には出会えそうもなかった。

 今また、一人の男が、おぼつかない足取りで、彼の前を通り過ぎようとしている。まるで酔っ払いのよう……と形容したいところだが、一號の記憶にある人間の酔っ払いよりも、遥かにのろまなのだった。

 一號は、槍を手にして佇んでいるというのに、のろまな男は、そんなことなど気にも留めない様子で、すぐそばを通り過ぎようとする。危険性を認識するだけの知能を、もはや持ち合わせていないのだろう。

 その衣服はぼろぼろで、眼球は白濁しており、肌はくすんだ緑色だ。そして、独特の体臭を放つのである。

 三年ほど前に爆誕した、新型のウイルスに感染した結果、かつては人間だったであろう彼は、バケモノへと変わり果てたのだ。

 一號は、わざわざ槍を振るう気にもなれなかった。


「歩けるか、咲久弥」

「ああ」

 二人は、いよいよ白い部屋を出ることにした。ここは秘密の地下室で、地上では、素晴の仲間たちが、「危険性の排除」に努めてくれているというのだ。

 要は、バケモノ退治らしい。

「俺は、この部屋まで来る途中、地下ではやつらに出会さなかったよ」

 素晴は、そう言いつつも、先に部屋を出て、辺りを警戒した。そして、咲久弥を手招きしたのである。

「ここは元々、市民病院だった。この辺りで一番大きな病院だったんだ。けど、三年前から流行り始めた病気の治療法は見つからなかった。その病気にかかった人間は、バケモノになっちまって、二度と元には戻れないんだ。のろまで、力も弱いし、頭もすっげー悪そうなバケモノだよ。もはや、歩く死体って感じ? ただ、生前の習慣を繰り返すやつもいるみたいで、わざわざ病院に来たりするんだ」

 素晴の所持品は、水筒だけではなかった。咲久弥が扱い慣れた小槍よりもずっと長い、身の丈を超えるような槍も持参していたのである。

 ただし、咲久弥のための武器は用意されていなかった。

「咲久弥、おまえのことは、俺が守る。俺は人狼だから、ひたすら力押しだ。けど、おまえは風を使えるし、バケモノと距離を取って戦えるから、手伝ってくれてもいいよ。だーいじょうぶだって、やつらは、人狼みたいに頑丈じゃないからさ。ただ、やつらに噛みつかれたり、引っ掻かれたりするだけで、病気がうつってしまうんだ。だから、絶対に距離は取ってくれよな!」

 長い槍なんて、室内や廊下では扱い難いのではないかと、咲久弥は思ったが、なるほど、距離を取りつつバケモノに立ち向かうには、その長さが利点となるかもしれなかった。


「討ち取ったりい!」

 二號にごうは、芝居がかった雄叫びを上げて、愛用の槍を、片手で高々と掲げた。

 彼は、迷彩色のズボンを着用しているが、隆々とした筋肉こそが重装備とでも言わんばかりに、上半身は露出している。

 そして、彼が掲げた槍には、小柄な老婆が、口から股間までをまっすぐに刺し貫かれて、仕留められていた。


 咲久弥が、素晴と共に長い階段を昇って、病院のロビーへと到着した時、ちょうど二號の雄叫びが、辺りに響き渡っていたのである。

 二號は、人狼だ。

 素晴は、少年の姿をしている今も、咲久弥よりも頭半分ほど背が高い。人狼形態へと変身したならば、身長も体格も、さらに一回り大きくなる。

 しかし、二號は、そんな素晴よりも一層の巨躯であることが明らかだった。

 まるで、吾兵衛に深傷を負わせた、あの人狼のように……


 咲久弥は、思わず、素晴に身を寄せた。

 素晴は、槍を持っていないほうの手を、病衣の腰に回したのだった。

 素晴は、五名の仲間と共に、今日この場所を訪れていたが、仲間たちは全員が人狼の男である。そのことを、ロビーに着くまでに、咲久弥に伝えていた。

「あいつらは、軍事用の人狼だから、やたらとでかいんだ。俺は、民生用に造られてるから、あんなに大柄じゃねーけど」

 咲久弥の耳元で、説明を付け加えたのだった。

 素晴は、頭髪も、狼としての体毛も黒い。しかし、軍事用の五名は皆、灰色の毛並みをしていた。


「あれが……ゾンビというバケモノなのか……」

 咲久弥は、二號の槍に仕留められた老婆にも、注目せずにはいられなかった。

 その肌は、緑青を吹いたような、くすんだ緑色で、生きている人間とは、明らかに異なる。それにしても、噛まれることも引っ掻かれることも避けなければならないとはいえ、あのように串刺しにすることに、いったいどんな意味があるというのだろう……


 見たところ、辺りには、人狼の他には、数えるばかりのゾンビしか存在していなかった。

 元々市民病院だったという建物は、方々が打ち壊されて、荒れ果てた廃墟と化していた。

 咲久弥が匿われていた秘密の地下室とは大違いだった。


 一號が、ホイッスルを吹き鳴らした。

「要人の確保を確認した。撤収準備!」

 よく通る声で、一同に通達したのである。

 二號と四號は、すぐに応じた。

三號さんごう! 繰り返す、撤収準備だ!」

 しかし、三號と呼ばれた人狼は、槍を振るうことを止めようとはしなかった。

 まるで竪杵たてぎねで餅でもつくかのように、彼は、うつ伏せとなった老爺の腿を踏みつけながら、その背中に槍を刺しては引き抜くことを繰り返していた。

 老爺は、白く濁った眼を見開き、低い唸り声を垂れ流していた。

 もしも彼が人間なら、とっくに声無きむくろと化していただろう。ゾンビへと変わり果ててしまったばかりに、玩弄物とされているのではないか……


 咲久弥は、三號へと歩を進めた。

 素晴は、すかさず付き添った。

「風刃!」

 素晴に教わった通り、ゾンビとはある程度の距離を保って、咲久弥は風を放ったのだ。

 老爺は静かになった。その首が、風の一撃によって、床に転がったからだった。

「三號! 遊びは終わりだ!」

 重ねて一號に呼び掛けられて、ようやく三號も応じたのだった。ただし、咲久弥のことをねっとりとめつけたのである。

 咲久弥も咲久弥で、険しい表情で見返したのだった。

 緊迫した空気が流れた、その時——

「これでも食らいやがれってんだ!」

 素晴は肩先を噛まれ、咲久弥は首筋を引っ掻かれた。

 五號ごごうが、二人の背後から忍び寄り、抱えていたゾンビをけしかけたのである。

「ざまあねえな! ゾンビになるまでの潜伏期間は、せいぜい二十四時間だぞ!」

 五號は、ゲラゲラと笑い転げたのだった。


「博士! 咲久弥がゾンビに引っ掻かれちまったんだ! 俺も噛まれたけど……俺はまあ、大丈夫なんだろうけど、咲久弥のことを助けてやってくれ!」

 素晴は、研究所に辿り着くや、迎えてくれた人物に縋ったのである。

 博士は、軽く嘆息した。

「いいか、素晴。我々人狼は、ゾンビと濃厚接触したところで、ゾンビになる恐れはないんだ。それは、既にワクチンの接種を済ませていて、ゾンビウイルスへの耐性を獲得しているからだ。きみは、その類稀なるワクチンの原材料を知らんというのかね?」

「知らないよ……」

 博士は、二度ほど頷いた。

「確かに、きみには、機密情報に触れる権限を与えていなかったな。ならば教えてやろう。ワクチンの原材料は、他ならぬ、咲久弥くんの血液なのだ。僕の知る限り、この世界で唯一、生まれながらにして、ゾンビウイルスに感染せずにすむ存在——それこそが咲久弥くんなのだよ。だからこそ、俗悪な世間から守るために、秘密裏に設置したあの地下室で眠ってもらっていたというわけだ」

 実は、素晴は、咲久弥をおぶって、全速力で研究所まで戻ったのだ。博士の言葉を理解した刹那、素晴は今度は、咲久弥を両腕で抱え上げて、その場でくるくると回ったのである。


「皆、ご苦労だったな。咲久弥くん、この研究所へと戻ってくれたことを、心から歓迎するよ」

 素晴が、そっと咲久弥を下ろすのを待って、博士は言った。

 人狼たちが咲久弥を伴い帰還したのは、御崎みさき研究所と呼ばれる場所だった。そして、彼らを出迎えたのは、博士にして所長代理の山田一雄やまだかずおと名乗る、人間の姿をした中年男性——ただ一人だった。

 市民病院は、長者の屋敷よりもずっと大きかった。御崎研究所は、そんな市民病院よりもさらに何倍も広大らしかった。

「お初にお目にかかります」

 咲久弥は、礼儀正しく率直に応じた。

 山田は、たちまち違和感を覚えたようだ。

「マスター、報告します」

 四號が、姿勢を正して発言した。

「素晴は、咲久弥の身柄を確保する際、人工睡眠カプセルに物理的な衝撃を与えて、シミュレーションを強制終了に至らしめた模様です。それが、咲久弥の記憶障害を引き起こしたのではないかと愚考します」

「なんだって!?」

 山田は、たちまち色をなした。

「素晴、ロックを解除する方法なら、しっかりと教え込んだはずだぞ! 手間はかかるが、手順通りにやるようにと、あれほど……」

「知ってたけど、知ったこっちゃなかったんだよ……」

 素晴の抗弁は、そこまでだった。シミュレーションとはいえ、咲久弥の身に危険が迫ることを見過ごせなかったという事情は、黙っていたのである。


「あの……素晴が何かしら下手を打ったせいで、私が物忘れをしてしまったということでしょうか? 素晴のことや、あなたのことも思い出せないほどに」

 咲久弥は、真面目な顔をして小首を傾げた。

「その可能性は、大いにあるな」

 山田は、吐き捨てた。

 素晴は、そんな咲久弥と山田に、交互に視線を送ったのである。うるうると涙ぐんだ眼をして……

「それでも、私は、素晴に感謝しています」

 咲久弥は、山田相手に、きっぱりと言い切った。

 素晴はたちまち、晴れ渡った笑顔となり、ブンブンと尻尾を振りたくったのだった。


 

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