第3話 三十分後にティーブレイクを

「咲久弥、おい、大丈夫か!」

 青い瞳の少年は、真剣そのものだった。彼は、地下室の一角に人工睡眠カプセルを、そして、カプセルの中に美しい少年が眠っているのを発見したのだ。

 そして、カプセルの傍らにあるモニターには、のっぴきならない危機的状況が、映画のごとくがっつりと映し出されていたのである。

 人工睡眠中の咲久弥が見せられている夢なのだろうが、とてもじゃないが、ポップコーン片手に楽しめるような内容ではない。

 カプセルを開く正式な手順など、知ったことではなかったので、少年は、ガコボコと筐体を殴りつけるという、極めてドラスティックな手段に訴えて、シミュレーションの強制終了という大勝利へと至ったのである。

 カプセルの透明な天蓋は、根負けしたように開いたのだった。


 咲久弥は、翡翠色の眼を、ゆっくりと見開いた。

 まるで、夢から覚めたかのような、奇妙な感覚に襲われる。

 なんだか、ぬるい湯船に浸かっているような体感もあったため、そこからいくらか上体を起こした。

 辺りは、あまりにも白く滑らかで、長者宅で、土間のむしろの上で目覚めた時よりも、ずっと明るかった。

 それでも目が眩むことがなかったのは、眼が晴天を思わせるほど青く、髪は黒く短くツンツンとした少年が、視界の大半を塞いでいたからだった。


「誰だ、おまえは……私の名を知っているのか?」

「あたぼーよ! 咲久弥、おまえ、寝呆けてんのか? ほら、俺だよ、素晴すばるだよ! リアルで顔を合わせた回数は、そんなに多くはないだろうけど、メタバースの高校で一緒だったじゃんか! アバターもリアル準拠だったわけだし、この顔に見覚えあるだろ? 俺たち友達だろ? な? な?」

「知らない」

 咲久弥は、率直に答えた。

 素晴と名乗った少年が、必死に自分の顔を指差して訴えるものだから、少々気の毒ではあったのだが……


「咲久弥が俺を知らないなんて……ダンスバトルじゃ無双の、学園のアイドル咲久弥が……MMOのレイドバトルなんかじゃ、俺を頼ってくれてた、とーっても可愛い咲久弥がああっ!」

 素晴は、えらく打ちひしがれた様子で、咲久弥から後退ると、白い部屋の一隅に、いじけたようにうずくまったのだった。


 ついさっきまで夜中で、修羅場だったはずだ。

 しかし、咲久弥が今、床に降り立ったこの部屋は、窓一つないくせして、昼間のように白々として明るい。そして、なぜか彼が浸かっていた、湯船のようで、棺桶のようでもある物体の他にも、小さな光が明滅する大きな箱のようなものが、いくつか置かれているのだった。

 それらはしかし、翡翠色の眼に映っても、何のための道具であるのか意味を成さないのだ。

 咲久弥を知っているという素晴の話にも、意味のわからぬ言葉が、数多く含まれていた。


 咲久弥は、夢から覚めたどころか、異世界にでも飛ばされてしまったように感じていた。


「おい……素晴といったね。悪いが、私はおまえを知らない。けれども、この部屋や、そもそもこの世界がどういったところなのか、是非とも知りたいし、そのためには、おまえと話がしたいのだ」

 咲久弥は、意を決して語り掛けた。

 素晴は、彼に背を向けて座り込んでいた。年の頃は咲久弥と同じくらいだろうが、咲久弥に比べれば、大きく筋肉質な背中であることが、一目瞭然だった。

「頼むから……何かもうちょっと、衣らしい衣を着てくれないか?」

 なぜ、素晴の背中が一目瞭然なのか?——それは、彼が裸同然だからだ。

 彼はおそらく、あの長者夫婦のような厄介者ではないだろう。しかし、咲久弥にしてみれば、腰回りに僅かに布を巻きつけただけの相手とじっくり話をする気には、到底なれぬのだった。

 おまけに、腰布の下から床へと、ふさふさとした黒い尻尾が流れており……


 え……尻尾?


「その尻尾……おまえ、まさか……」

「おーよ! 思い出してくれたのか? 俺が、こーゆーもんだってことを!」

 素晴は、パタパタと尻尾を振りながら立ち上がると、振り向きざまに、ことさら筋肉を強調するようにして見得を切ったのである。

 白い歯を見せて笑った途端に、その口は大きく裂けて、体は黒々と膨張したではないか!

 彼は、紛うことなき人狼だった……


 咲久弥は、薄紅色の唇を、ぎこちなく開いて、口をつけた。

 その白い喉元が、ゴクリと上下するのを、素晴は、息詰まるような思いで見届けた。

「甘酸っぱい茶か……悪くないね」

 咲久弥は、いくらか頬を紅潮させて、微笑んだくれたのだ。素晴が持参していた水筒から、レモンティーを飲んでくれたのだ。

 素晴は、人間の姿に戻っていたが、狼の尻尾だけは生やしっぱなしで、それをブンブンと振りたくらずにはいられなかった。


 実は、素晴が、人狼という正体を開陳してから、その麗しの笑顔を目撃するまでには、三十分ばかりの時間を要したのである。

 なかなか壮絶な三十分間だった。


 咲久弥は、人狼を視認した次の刹那、問答無用で、「風刃!」と叫んだのである。

 白い地下室は、たちまち妖術の暴風域と化した。

「おいおいおい! 俺のことを思い出してくれたんじゃねーのかよ!」

 素晴は、咄嗟に物陰へと隠れたが、妖術の風は、しなやかな鞭のごとく回り込んでくる。

「痛い痛い痛い! 当たると痛い!」

 素晴は、咲久弥が眠っていたカプセルの天蓋に目をつけた。それに駆け寄り、腕尽くでもぎ取るという、単純明快なDIYによって、丈夫で透明な盾を得ることに成功したのである。

「咲久弥くん! きみのおとぼけのせいで、お友達の素晴くんは泣いているぞ!」

 漆黒の人狼は、必死に盾越しに訴えたのだった。


「おまえ……なぜ反撃せぬ? 人狼のくせに!」

 咲久弥は、両の掌から風を放ち続けながらも、訝しげに目を細めたのである。

「だってーっ、友達に怪我させたくなんてねーよ! それにおまえ、俺に服を着ろとか言うけどさー、おまえのほうこそスッポンポンじゃねーかよ! 学園のアイドルとして、自覚が足りてねーんじゃねーかあっ!」

 妖術の風が、ぴたりと凪いだ。人狼による告発は、あまりにも衝撃的で、翡翠色の眼は、おそるおそる下を向いたのである。


 咲久弥は、長者宅での修羅場から、いきなり新たな人狼と遭遇するという、激動の展開に翻弄されつつも、自分は当然、寝衣と首飾りを身につけているものだと思い込んでいた。

 しかし果たして、素晴が言ったことは本当だったのである。


「首飾りが……無い!?」

 実は全裸であったということ以上に、咲久弥にとっては、勾玉や管玉を連ねた、あの大切な首飾りが消えてなくなっていたことのほうが、遥かに凄まじい衝撃だった。あれは、孤児みなしごだった咲久弥が、猿楽一座のお頭に拾われて、何年もの厳しい修業の果てにようやく獲得した、ましら拍子としての魂のごとき宝物だったのだから。

「私は、ましら拍子の咲久弥なのだ! たとえ、素性がわからずとも……妖の血を引いているかもしれなくても……けれど、あの首飾りを失くしてしまったら……ああ! 私はいったい、何者なんだ!」

 咲久弥の呼吸が、みるみる荒くなり、彼は、胸を掻き毟りながら倒れ伏す。

 素晴が見たところ、どうやら、過呼吸発作のような状態に陥ってしまったらしかった。

 そして、白く明るい部屋には、またもや暴風が吹き荒れたのである。


 発作は、時間が解決した。妖術の暴風も、次第に凪いだ。

 咲久弥は、随分と消耗したものの、一応の落ち着きを取り戻した。そして、素晴が傍らに留まって、手を握ってくれており、自分もまたその手を握り返していたことに気づいて、翡翠色の眼を見張ったのである。

「おまえ……私の風を、たんと浴びたろ? 無傷じゃ済まなかったろうに……」

「まーな。けど、俺は元々頑丈で、傷の治りもやたらと早いんだ。気にすんな!」

 素晴は、黒髪と青い瞳の少年の姿へと戻っていた。まさに台風一過の晴天のごとき瞳だった。

 そして、白い歯を見せて笑いながら、黒い尻尾をパタパタと振ったのだった。


「そうだ、これ、レモンティーなんだ。ラボの備蓄食料の中に、まだ残ってたから、持ってきた。おまえ、好物だって言ってたろ?」

 咲久弥の発作が落ち着いたため、素晴は、部屋の床にうっちゃってあった水筒を手に取り、差し出したのである。

 しかし、咲久弥は、神妙な顔つきで俯いてしまった。素晴は、一旦水筒を取り戻して、蓋を開け、一口飲んでみせたのである。

「ぷはーっ、甘くて美味い!」

 そして改めて、水筒を手渡した。


「甘酸っぱい茶か……悪くないね」

 咲久弥のはにかんだような笑顔が、とても眩しくて、嬉しくて……素晴は、黒い尻尾を、ブンブンと振りたくらずにはいられなかった。

「ねえ、素晴。おまえは、人の姿を取っても、尻尾を生やしたままなのかい?」

「ああ、この格好が、一番心が落ち着くんだ。けどさもちろん、尻尾のない人間の姿にだってなれるんだぜ!」

 素晴は、咲久弥に背を向けて立ち上がると、わざわざ腰布を捲り上げて、しゅるりと尻尾を引っ込めた。せっかくだから、「あ、そーれ!」などと掛け声を交えつつ、しゅるしゅると尻尾の出し入れを繰り返してみせたのである。

 人狼にとって、変身は念じるだけで可能なことであり、尻尾の出し入れごとき朝飯前なのである。

 しかし、何やらどんよりとした低気圧のようなものを、素晴は感じ取った。

 慌てて振り向くと、他ならぬ翡翠色の眼が、どんよりと淀んでいたではないか!

「え? あ! こういう芸は、好みじゃなかったかぁ……それじゃあ!」

 素晴は、鮮やかに後方宙返りを決めたかと思うと、着地する頃には、黒い狼に変身していたのである。四つ足で歩く、漆黒の全くの獣の姿だった。

「俺は、災害救助での活躍を期待されて造られたし、こういう姿にだって変身できるんだぜ!」

 狼そのものの姿でも、流暢に言葉を発する素晴だった。


 咲久弥は、暫し小首を傾げて、眼前の黒い狼を見詰めた。

「おいで」

 どうして、そんな言葉が口を突いて出たのか、自分でもよくわからなかった。

 素晴のことが、なんだか愛らしい犬のように思えてきた。

 人を襲う狼には、散々苦労させられたはずなのに……

「あはは……くすぐったいよ!」

 黒い狼は、たちまち咲久弥にじゃれ掛かり、その頬をペロペロと舐めたのだった。


「おい、素晴、の身柄は確保できたのか?」

 突然、部屋のドアが、外から開かれて、男の声がした。

 しかし、声の主は絶句して、ドアは、すすすと少しずつ閉じてゆく。

 彼は、黒い狼と白い裸体の美少年が戯れているのを目撃したのである。

「さすがは病院だな。こんな物資を発掘できた。あと、他の連中が飽き始めているから、お楽しみはほどほどにしておくんだな!」

 細い隙間から、衣類が投げて寄越された。

「へ!? えっと、あの……ありがとう、四號よんごう……」

 素晴は、へどもどしながら、人間の姿へと戻って、四號への言い訳めいた言葉を付け加えようとしたが、それを待たずして、ドアは完全に閉じられたのである。


 後に残された少年二人は、急に気まずくなって、どちらからともなく床に正座して、向かい合ったのである。

「あのさ、咲久弥……おまえは、いろいろあって、この場所に匿われてたんだけど……迎えに来たんだ!」

 素晴は、頬を赤らめながら、ようやく用件を伝えたのだった。



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