第2話 夜の終わりに

「みんな……どうか、生き延びて……」

 譫言を口走り、頬を血と涙で濡らしていた美少年は、やがて、戦慄きながら翡翠色の眼を開いた。


 辺りは、明るく静かだった。まるで、山中で人狼相手に死闘を繰り広げたことなど、悪い夢幻ででもあったかのように……

 咲久弥は、屋根のある土間で、むしろの上に寝かされていたのである。

 すぐさま辺りを見回したが、そこに仲間たちの姿はなく、彼は独りきりなのだった。

「あれま! 男の子が目を覚ましたよ!」

 女中らしき人が、ちょうど土間を覗いて、驚きの声を上げたのだった。


 女中は、咲久弥が目を覚ましたことを、我がことのように喜んで、すぐさま温かな膳を運んできてくれた。

 白米の粥に、梅干しに、小魚まで添えられていた。

 咲久弥は、どうにも頭がぼんやりとして、状況を呑み込めずにいたが、そんな食事を与えられては、気前の良さに驚かずにはいられなかった。

 女中は、食事を済ませたら、庭に出て主人たちに挨拶するようにと、少年を促したのである。

 どうやら、長者と呼ぶべき富農の宅に、咲久弥は運び込まれたということらしかった。


 やがて、咲久弥は、庭土の上に礼儀正しく座して、縁側に居並んだ長者夫婦と対面することになった。

「助かってくれて、本当に良かった。おかげで、わしも善根を施すことができたというものだ」

 長者は、中年の男であり、福々しい丸顔に笑みを浮かべた。

 隣の妻も、膝を乗り出した。

「実はね、当家の下男を、山の向こうに使いに遣ろうとしたのです。それが、山道で、あなただけはまだ息があるのを見つけたものだから、大急ぎでおぶって引き返してきたのですよ」

「私だけ……で、ございますか?」

「ええ! もう、何人亡くなったのかもわからぬくらい、むくろが獣に食い荒らされていたと聞きましたよ!」

「おい!」

 長者が妻を制したのは、少年が、ひどく呆然として、珍かで美しい翡翠色の眼から、はらりと落涙したからだった。

「ああ、そうね! 何人亡くなったのかもわからぬということは、何人もが逃げ延びたということじゃないかしらと思うのよ、わたしは!」

 妻は、慌てて取り繕うように、着物の袖で口元を覆いながら、オホホと笑ったのである。


「一座の者が……私を見捨てて、逃げた……」

 咲久弥の記憶は、小槍を大地に突き立てて、渾身の妖術を放ったところで途切れている。吾兵衛が羽交い締めにして足止めしてくれた人狼相手に、力を使い果たして、気を失ってしまったのだろう。

 その後、一座の者たちがどうなったかなんて……わからぬし、わかりたくもない、かもしれない……

 ただ、吾兵衛は、深傷を負って、せめて、死に花を咲かせようとしていた。思えば、咲久弥だって、似たような覚悟だったじゃないか……

 いっそ、吾兵衛や咲久弥を見捨ててでも、皆が逃げてくれたというなら、それが良い。

 幼いねねやののに、咲久弥をおぶうなんて、とても無理じゃないか。

 お頭だって、腰が痛んだろう。

 そうだ、仲間の犠牲を無駄にせず、逃げ延びてくれたというなら、それで良かったじゃないか……


「そなたらは……旅をしておったのか?」

 長者がおずおずと尋ねたことで、少年は、現実へと引き戻された。

「はい、猿楽の一座にございます。大祭に馳せ参じるべく、山中を旅していたところを、狼の群れに襲われてしまったのです」

 咲久弥は、「人狼」とは言わなかった。

「そなたも、芸を売る身か?」

「はい。舞を得手としております」

 長者夫婦は、顔を見合わせて、眉を開いた。

「実は……そなたが伏せっておった間に、大祭は終わってしもうた。つい昨日で終いだったのじゃ。されど、儂ら夫婦は、歌舞音曲を好む。もし、儂らのために舞を披露してくれるのなら、礼として、幾許かの路銀を用立ててやってもよいのだぞ。どうじゃ?」

「もしも体が辛いのなら、二、三日養生してからでもよいのですよ?」

 咲久弥は、涙を拭うと、庭土に両手をついて、長者夫婦をまっすぐに見詰めた。

「どうか、今宵にでも舞わせていただきとうございます。逃げ延びた仲間たちに、の咲久弥は生きていると伝え聞いてほしいのです!」


「ましら拍子」とは、白拍子から派生した芸能である。白拍子と同様に、烏帽子や水干といった装束を纏うが、袴は短めに裾を括る。そして、「ましら」の面を被って舞うのだ。

 猿はしばしば、魔除けの力を持つ神獣と見做される。ゆえに、ましら拍子は、慶事の宴席などで喜ばれる芸能なのだった。


 咲久弥は、長者の勧めで、舞う前に風呂に入ることになった。わざわざ湯を沸かしてもらえたことに驚いたし、浴室の窓の外から、下男に湯加減を尋ねられて、別の意味でびくりとする。

 少年が脱いだ着物には、穴が開き、血が染みついていたが、その裸体には傷ひとつ見当たらない。

 人狼めに小槍で貫かれた肩の辺りでさえ、傷口が塞がったばかりか、湯の中で指でまさぐっても、痛くもなければ、肌も元通りに滑らかなのだ。

 死を覚悟したあれほどの傷ですら、既に綺麗さっぱりと癒えていた。

 咲久弥は、以前から、傷の治りが異様に早いのだ。


 咲久弥は、人間のはずである。しかし、親の顔すら覚えておらぬ孤児みなしごゆえ、確たることは自分でもわからぬのだ。

 まず、翡翠色の瞳は、とても珍しい。一座のお頭にも、「異人の血でも引いているのかねえ」と言われたことがある。

 そして、風の妖術を、曲がりなりにも扱える。呪文を唱えて、掌から風を放つのがせいぜいではあるが……

 もちろん、人の身で妖術を操る者だって、僅かながら存在する。陰陽師として権力者に仕官しているような例もある。

 ただ、痕すら遺さぬこの傷の治りの早さは、どうなのだろう……

 咲久弥は時折、自分は妖の血も引いているのではないかと、怯えずにはいられなかった。


 咲久弥は、着物を脱いでも首飾りは外していなかった。縋るような思いで、それに触れた。

 勾玉や管玉を数多連ねてあるその首飾りは、かつてお頭が、咲久弥の舞の技量が一人前に達したと認めてくれた時に贈ってくれたものである。

 そして、流浪の民たる証のような装身具でもあるのだ。


 芸を売り歩く流浪の民は、定住して田畑を耕す民よりも下賤であると位置づけられている。

 しかし、妖の血を引いていると疑われたならば、その比ではないほど人々に忌み嫌われて、殺されてしまうかもしれないのだ。

 妖は人肉を好んで食らうから。

 咲久弥が、長者夫婦に、人狼に襲われたことを話さなかったのも、人狼という妖は、人間に化けることもできるとされているため、あらぬ疑いをかけられたくなかったからである。

 妖は、同じ妖の肉は食わぬなどという俗信もあるため、咲久弥は、仲間の健在を祈りながらも、自分が今在ることを素直には喜べぬほどだった。

 例えば、咲久弥を長者宅に運んでくれたという下男などは、その回復ぶりを怪しんでいるかもしれない。

 命を救ってもらったことには、当然、恩義を感じている。しかし、翡翠色の瞳の少年は、この長者宅に長居する気にはなれぬのだった。


 長者が歌舞音曲好きだというのは、本当だったらしい。

「実は、いずれまた白拍子を招いた時に備えて、あれこれと誂えておったのだよ」

 湯上がりの咲久弥を待ちかねたように、彼が下人らに命じるや、衣架いかにかけられた色とりどりの水干が、次々と運ばれてきたのである。

 咲久弥を取り囲むほどに数多の装束を並べ立てて、長者は、照れ臭そうに笑み崩れたのである。

 芸を売る身としてはありがたい。しかし、些か道楽が過ぎるのではあるまいか?——内心、咲久弥はそう思った。

 案の定、長者の妻は、「いつの間にやら衣の数が増えているじゃないですか!」と、夫の耳を抓ったのである。

 しかし結局は、夫婦揃って、翡翠のような瞳に映えるからと、朱色の水干を咲久弥に勧めたのだった。

 長者夫婦は、そればかりか、咲久弥の美貌を愛でたいからと、素顔で舞ってほしいなどと無理を言い出した。猿の面を被って舞うからこその、ましら拍子であるというのに……

 咲久弥は、その要求を呑むかわりに、丁重に願い出た。長者夫婦は、下人たちを交えて、笛や太鼓や鉦を手ずから演奏するつもりでいたらしいが、どうかそれはおやめいただきたいと。身にも耳にも染みついている、一座の仲間たちが奏でる音曲の記憶に、身も心も委ねて舞わせていただきたいのだと……


 燭台の光が、金色の屏風に反射して、日没後の座敷を雅やかに照らし出していた。

 朱色の水干姿の美少年は、水に浸した榊を手に現れた。

 まずは、座敷を素早く一巡りして、榊の雫を観客に振り掛ける。それは、巫女などが行う魔除けの儀式を模した所作だが、一方で猿の悪戯のようでもあり、笑いを誘った。

 咲久弥は、軽やかに飛び跳ねては、両足を前後に開いて踏み締め、腰を屈めて辺りを見回した。あたかも、何かを探しているかのように。

 やがて、天を仰ぐと、尻を振りながら立ち上がったのである。

 実は、ましら拍子は、腹を空かせた猿を演じていた。

 猿は、夜空の月を見つけたが、それを極上の果実だと勘違いしたのである。狂喜して手にすべく高々と飛び上がるが、望みが叶うはずもない。

 宙返りやでんぐり返りも交えて、跳躍を繰り返す様は、軽業師もかくやというほど、見事な身のこなしだった。

 はたまた、果実の美味を夢想して、恋焦がれる乙女のように舞う姿は、白拍子のごとくしなやかで艶やかでもあった。


 咲久弥は、思い出の中で仲間たちが奏でる緩急自在の音曲と共に在った。

 彼にとっての月は、誰一人欠けることのなかった、一座での日々そのものだった。

 咲久弥は、それに恋焦がれて幾度も飛び跳ね……そして、涙を流したのだった。


 一心不乱に舞ったその夜、咲久弥は、離れの板の間に夜具を敷いて眠ることを許された。長者夫婦からの褒美ということだった。

 しかし、浮かない顔で寝そべって、溜め息を一つ吐いた、その時——

 ふと、人の気配がしたかと思うと、長者その人が忍んで来たのである。


「いやはや、そなたの舞は見事であった。まさに眼福じゃ!」

 長者の笑顔は、手燭で下から照らされているせいか、気色悪い。

 咲久弥は、表情を消して居住まいを正した。

「いやいや、そうかしこまらずとも良いのだ」

 長者は、咲久弥の夜具の上に座り込んだ。

「そもそも、そなたは、旅の一座の者で、これほど美しいのじゃから、儂の用向きはわかっておろう?……今夜一晩、儂を極楽へといざなってはもらえぬか?」

「嫌です」

 咲久弥は、食い気味に拒んだ。

「私は、春をひさぐことは致しません! ゆえに、あちらのお方共々お引き取りいただきとう存じます」


 長者は、咲久弥のつれなさに面食らいながらも、彼が指し示した部屋の奥のほうへと、手燭をかざした。

 すると、まずは鼾が耳に障り……それをかいているのが、だらしなく横たわった、自分の妻なのだと気づいたのである。

「そなた、あれに何をした!」

 いやいやいや、咲久弥にしてみれば、何ひとつとして、したくもされたくもなかったのだ。だからこそ、ちょっとした妖術を用いて、眠ってもらったわけなのだが……


 咲久弥は、実のところ、このような展開がありうることを読んでいた。

 まず、舞う前に入浴した際、窓越しに下男に湯加減を尋ねられたが、下男以外にも誰かが覗いている気配がしたのだ。

 そして、夜具や寝衣も、なかなか上質なものを与えられたため、鬱々とした気分で用心していたところ、まずは、妻のほうが忍んで来たのだ。

「約束の倍の路銀を弾んであげますわよ!」と、彼女は、鼻息も荒く、咲久弥に同衾を迫ったのだが、咲久弥は、その鼻の穴に掌をかざして、「すい!」と唱えた。

 妖術の微風を、鼻から脳へと送り込んだのである。

 結果、彼女は、あっさりと眠りこけてくれたのだ。


 咲久弥は、芸は売っても身は売らぬ。一座のお頭も、枕席に侍るような商売を決して無理強いしない人であり、そうした一面も、咲久弥は慕っていたのである。

 ただし、誘いを断るにしても、相手に怪我なんぞ負わせぬほうが得策である。

 よって、咲久弥は、妖術の小技で相手を眠らせて乗り切ることにしているのだが……


「あれを昇天させたというのに、儂のことは無理だなんて、ありえぬだろうが!」

 咲久弥が、妖術については話したくないと逡巡していたところ、長者が、謎の暴論を発動して、襲い掛かってきたではないか!

「言うたろうが! 私は、春はひさがぬのだ! このスットコドッコイのコンコンチキめ!」


——シミュレーションを、強制終了します……


 咲久弥に覆い被さろうとした長者の顔が、突然、融けて崩れたかと思うと、青い瞳の少年へと変化したのだった。



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