第1話 白拍子の弟子

 猿楽の一座が、山道を進んでいた。荷車の列を成し、力を合わせていた。

 荷車の上に、のんびりと座ることを許されているのは、双子の幼女である、ねねとののくらいのものだ。

 あとは、男も女も、踊り手の花形である少年も、楽器や装束や日用の品々をまとめた荷の運搬に加勢しているのだった。

 悪天候に祟られて、大祭が催される神社への到着が遅れているのである。祭りや宴席にて、歌や踊りや軽業といった芸能を披露する機会を得なければ、一座の者たちは、みんな揃って、おまんまの食い上げとなってしまう。

 ゆえに、できる限り急がねばならないのだ。

 いくら大雨が上がったばかりで、道がぬかるんでいようとも。鬱蒼と生い茂る木々が、どこか不気味な影を落としていようとも……


「すまんな、咲久弥さくや。おまえや女衆にまで、苦労をかけたくはないんだが」

 大男の吾兵衛ごへいは、先頭の荷車を引きながら、後方にも目配りした。

 彼は、芸については、時折、請われれば相撲を取る程度である。荷運びや用心棒として、率先して役立てばこそ、巨体の腹を満たすだけの飯にありつけるのだと、よくわかっていた。


 名を呼ばれた踊り手の少年は、荷車を押しつつ、顔を上げた。

 目元が涼しく鼻筋の通った、美しい顔立ちが明らかとなった。その瞳の色は、とても珍しい、翡翠のごとき緑である。

 少年の年の頃は、十五ばかりだろう。

 そして、翡翠色の瞳に、むしろ仲間を気遣うような笑みを浮かべたのだった。

「いいさ。これも、踊りのための鍛錬だと思っておくよ。お頭までもが精を出しているのに、わたしのような若輩者が楽をするわけにもゆくまい」

 一座の頭目は、年季の入った白拍子である。歌も舞も熟練の極みで、流石の腕前だ。

 手甲に脚絆といった旅姿であっても、長年の鍛錬がそこはかとなく香るほどなのだが……近頃しょっちゅう腰が痛むらしい。

 そんな彼女が、常よりも随分と大きな荷物を背負って歩いているくらいだから、若い咲久弥も、一座のために力を尽くしたかった。


「おわ!?」

 吾兵衛が、ふいに素っ頓狂な声を上げた。咲久弥の腕にも、ガクンと揺れが伝わった。

 荷車の車輪が、山道のぬかるみに嵌ってしまったのだ。

 吾兵衛は、ばつが悪そうに、後続の面々へと振り向いた。

「すんません、ここは、ちょっとばかりお力添えを……」

 もしも彼が、拝むように手を合わせて頭を下げることをしなかったら、その首はもぎ取られていたに違いない。

 その刹那、かつて大男の頭部が存在していた空中を、不吉な影が鋭い牙を剥いてよぎったのである。


「みんな、狼だ!」

 咲久弥は、声を張り上げた。

 そいつは、山肌を力強く蹴って跳躍したものの、大男という馳走にはありつけぬまま、山道を横断するように飛び越えて、森の中へと落ちていったのである。


「戦仕度をしな!」

 頭目が、鋭く命令する。

 狼は、群れで狩りをする獣だ。人が一目散に逃げたところで、狼のほうが足が速いし、やつらはとにかく執拗だ。一度狙った獲物は、半日がかりでも追い続けるほどである。

 流浪の民である、猿楽の一座の者なら、皆が知っていることだ。狼に狙われてしまった以上、群れのうちの何頭かを仕留めることによって、敵わぬ相手なのだと思い知らせて、襲撃を諦めてもらうより他にないのだと——


 咲久弥はすかさず、荷車の上に片手をついて、それをひらりと飛び越えた。そして、森の中、狼が落ちた辺りへと向けて、両の掌を揃えて突き出したのだ。

風刃ふうじん!」

 咲久弥が叫ぶや、鋭い破裂音が響いて、その掌から疾風が噴き出したのである。

 その風は、木の幹に当たれば、手斧で斬りつけたような傷を与え、森の下草に当たれば、草混じりの土煙を上げるほどの威力を示した。

 咲久弥には、風を操る妖術の心得が、少しばかりあるのだった。

 咲久弥は願った。どうか今の狼が、群れからはぐれた一匹狼でありますように。風の妖術に恐れをなして、ここから逃げ去ってくれますように、と——


「仲間を呼びやがった!」

 吾兵衛は、地団駄を踏んだ。咲久弥の願いを裏切る狼の遠吠えが、森に響き渡ったからである。

 しかしながら、一座の者たちは、手早く戦仕度を進めていた。頭目の命に従い、弓だの、槍だの、燃え盛る松明だのを準備していたのである。

 未だ幼い双子である、ねねとののまでが、互いに頷き合い、吹き矢の筒を手にしたのだった。


「弓使いたちは、木に登りな! 狼は木登りはできないからね!」

 頭目のさらなる指示を、軽業師たちがテキパキと実行する。

 狼の増援が姿を現す前にと、一座の者たちは、そこら辺りの木に数人ずつ登った。登れぬ者たちは、幹を背にして松明などを構え、さらに周囲にトラバサミを撒いたのである。


「出やがったな! これでも食らいやがれ!」

 吾兵衛は、先程の狼が飛び出してきたのを見逃さず、特製の武器をお見舞いした。自分の頭部を食わせてやるかわりに、数多の棘が生えた棍棒でぶん殴ったのである。

 キャインともんどり打って、ぬかるんだ地面に転がった狼の背に、「せいっ!」と精一杯に小槍を突き立てたのは、咲久弥だった。

 吾兵衛はすかさず、狼の尻尾を掴んで、力任せに引っ張った。

 すると、狼の背の肉は大きく裂けて、ついに獣は絶命したのだった。


 しかし、それで終わりではなかった。

 先程の遠吠えに応じたのであろう、別の狼が出現したのである。

 松明を構えた頭目をはじめ、幾人かの白拍子が背を預ける木の元へ、そやつは、不穏に唸りながらにじり寄る。

 頭目たちが、燃え盛る松明を振り回し、あるいは、本来は楽器である鉦や太鼓を激しく打ち鳴らして、懸命に威嚇するうちに、狼はたたらを踏み、その足元で、カシャリとトラバサミが作動したのだった。

 樹上の弓使いは、満を持して、獣を射殺すことができたのである。


「これで二頭倒したぞ! 狼どもめ、思い知ったか!」

 吾兵衛は、味方を鼓舞すべく、棍棒を振り上げ吠えたのである。

 ところがふいに、メリメリと音を立てて、彼の大きな腹から、銀色の光が差した。太刀の刃が生えたのである!

 吾兵衛が、血を吐きながら倒れ伏したことで、彼の背後に片膝をついて、その巨体を刺し貫いた者の姿が露わとなったのである。


 その者は、頭部は狼と同じだった。しかし、それに連なる、筋骨隆々にして毛むくじゃらの肉体は、尻尾が生えているとはいえ、ほぼ人型である。

 おもむろに二本足で立ち上がり、ひどく大柄であることを見せつけると、手にした太刀を染めた血をペロリとひと舐めしてから、得物を肩に担いだではないか。

「てめえら……よくも俺様のかわいい手下を殺めてくれたなぁ……」

 狼頭のくせに、人語まで操るのだ。あたかも不逞の野武士のごとき輩であるが、実のところ、野武士なぞより余程恐ろしい。

人狼じんろう……」

 一座の者たちは、その忌まわしきあやかしの名を、口々に唱えずにはいられなかった。

 人狼は、狼たちを、手下か使い魔であるかのように従え、狼以上に人肉を好む、凶暴な妖だ。

 山を越えねばならぬ旅人——猿楽の一座が、何より恐れていると言っても過言ではない。


「あぁああ……風刃!」

 咲久弥は、渾身の力で小槍を人狼へと投げつけ、間髪入れずに、精一杯の妖術の疾風を放たずにはいられなかった。

 やつが、吾兵衛を倒したばかりか、森の木々を拠り所にしている人間たちを、果樹に鈴生りの食べ頃の実であるかのように見遣ったのが、どうしても許せなかったのだ。

 やつなら、おそらく木に登れる。人も木もへし折ってしまうかもしれない。

 だから、その目を狙った。やつの胴体目掛けて放った小槍が命中してくれれば良いが、たとえ防がれようとも、その隙に疾風の刃によって目を潰してやろうと考えたのだ。


ってえなぁ……てめえ、かまいたちを使うのかぁ?」

 人狼は、小槍を太刀で防ぐことすらしなかった。それが空を飛んでいるうちに、易々と片手で掴み取ったのだ。

 風はその顔に命中したはずだが、人狼は、鼻の周りに皺を寄せて、不機嫌な問いを発しただけだった。

 それでいて、返事なぞ求めてはいないとばかりに、咲久弥目掛けて、小槍を投げ返したのだ。

 咲久弥は、俊敏さには自信があったが、それを避けることは全く叶わなかった。

 小槍に肩を刺し貫かれ、その圧によって吹き飛ばされて、背後の山肌に身を縫い止められてしまったのである。


 しかし人狼は、些か咲久弥に気を取られていた間に、まさかの吾兵衛に取りつかれた。深傷を負い、死を免れ得ぬと悟った大男が、最後の力を振り絞って、人狼を羽交い締めにしたのである。

「ぐぅ……みんなぁ……おでごと射抜けえっ!」

 一座の者たちは、吾兵衛の名を呼びながら弓を射た。人狼は、彼よりもさらに頭二つぶんほどでかい。あくまで人狼を狙って、矢を放ったのである。


 咲久弥も、山肌に縫い止められたままで終わりたくはなかった。

 彼は、自由になる一本の手だけで、必死に肩の小槍を掴んで引き抜こうとした。それは、肩の肉を自分でもう一度抉ることを意味していたが、咲久弥は、声にならぬ雄叫びを上げつつ、ついにやり遂げたのである。

 咲久弥は、前のめりになって、小槍の穂先を大地に突き立てた。もはや足取りがおぼつかない一方で、その翡翠色の眼は燃えていた。

「大地ごとでも……きさまを引き裂いてやる!」

 妖術使いの少年が叫ぶやいなや、地中の穂先を起点として、人狼目掛けて、細く素早く地割れが疾ったのである。

 地割れが人狼の足元に到達した刹那、そこから噴出したのは、これまでの風刃より何倍も強烈なかまいたちだった。

 咲久弥は今まで、こんな形で術を使ったことなどなかった。使えると思ったことすらなかった。

 彼の仲間たちへの思いや、あるいは魂そのものから生まれたような風の刃たちは、獣人の巨躯に幾重にも絡みつくようにして斬りつけたのだった……


「みんな……どうか、生き延びて……」

 咲久弥は、涙ながらに祈りを唱えた。

 しかし、それはもはや譫言だった。


 

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