幕間:旧魔王軍西方方面軍③

 ◆◆◆


「ぐおおおおおッ!! シャルキの奴め!! 独断専行しおって!!」


 憤怒した魔竜イグドラは苛立ち紛れに岩壁に自身の尾を叩きつけた。


 ここは深淵の海「ネザシア海」の向こう、マリステル大陸に陣を張る旧魔王軍西方方面軍の本拠点、漆黒の城塞「ダルクヘイム」である。


 イグドラはその巨体ゆえ、城塞には入る事ができない。


 ゆえに、すぐ近くの洞窟に居を構えている。


 イグドラが怒り狂うにはそれ相応の理由があった。


 同じ師団長であるシャルキが、独断専行の愚を犯したのだ。


 旧魔王軍西方方面軍の目的はネザシア海を越えた先にあるガイネス帝国の陥落なのだが、これが中々難しい。


 人類の最大戦力である勇者は、魔族の最大戦力である魔王と相打つ形で死亡したが、人類にとって勇者は恐るべき力を持つとはいえ暗殺者でしか過ぎなかったのに対して、魔王は文字通り "王" であった。


 ゆえに魔族の士気低下は著しく、各地で逃亡者が出る始末。


 それでも人類に白旗を上げないのは、魔族の各種族を統べる四人の王、そしてその王らに仕える一部の上級魔族がまだ諦めていないからだ。


 ではなぜ諦めていないのか。


 それは──


 ──『落ち着け、イグドラ』


 イグドラの脳裏に声が響く。


 妙に水気の多い、ごぼりごぼりとした声だった。


「は! 魔王様! ……しかしッ!」


 ──『二度は言わぬ』


 魔王様、と呼ばれたその声の主が切り捨てる様に言うと、イグドラはぐっと堪えて口を噤んだ。


 ──『どのみち、かの者には我が声が届かなんだ。即ち、弱き者だったということだ』


 確かにそうだ、とイグドラは思う。


 人竜シャルキは確かにイグドラと同格の師団長であったが、それは階級が同格というだけで、生物として同格という意味ではない。


 全竜と人竜には隔絶した差がある──そうイグドラは考えている。


 その証拠が魔王の声だった。


 魔王の肉体は滅びても、その精神はいまだ健在なのだ。


 だがその声を聞く事が出来る者は限られている。


 魔族の中でもより強大な力を持つ者たちのみ──イグドラはその一人だった。


 更に言えば、全竜であるオルムンドが他愛なく屠られてしまった事実を考えれば、シャルキ風情が……という思いもある。


 ──『ならば捨て置け……どのみち、あの光を放った者──勇者を斃す事はできまい。それよりも、帝都に感じた闇の魂の所有者が何処に居るかが分かった』


「おおッ! それは一体どのような……?」


 イグドラが嬉々とした声をあげる。


 だが魔王が告げた名を聞くと、この勇ましい竜にしては珍しくぽかんと間の抜けた表情を浮かべた。


 その名とは──


 ──『ガイネス帝国皇帝、ヴァルフリード』


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 ◇◇◇


 ガイネス帝国皇帝ヴァルフリードは本来皇帝になるべき者ではなかった。


 ヴァルフリードが皇帝となったのは、言ってみれば運命の悪戯だ。


 本来ならば彼の兄レオナルドが──あの太陽のような輝きを放つ男が帝位を継ぐはずだった。


 しかしレオナルドは流行り病に没してしまう。


 そしてヴァルフリードが帝位を継ぐことになったのだが、故レオナルドが有能に過ぎたのが災いした。


 民は彼の死を嘆き、残されたヴァルフリードを見る目は冷えきっていた。


 だが、これは決して珍しい事ではない。


 歴史を紐解けば何百何千と同じ様な事例が見つかるだろう。


 それにヴァルフリードとて、能無しというわけではなかった。ただ、兄の影が濃すぎたのだ。


 人魔戦争直後の混乱期、民の不安は募るばかり。


 貴族から市井の者まで、「レオナルド様ならば」という声は絶えることがなかった。


 そんな中でもヴァルフリードは黙々と国の再建に励む。


 しかし、すでに傾いた国を立て直すには生半可な努力では足りない。


 人々の不満は消えるどころか、むしろ増していった。


 そして彼らは、その全てをヴァルフリードの無能の証としたのだ。


 そんなある日、ヴァルフリードは虚空を見つめ、独り呟いた。


「余は、一体何をしているのだ?」と。


 そしてある日を境に、ヴァルフリードは酷く無気力になった。


 最低限の政務はこなすが、それ以上はしない。


 ただ、だからといってガイネス帝国が揺らぐと言う事もなかった。


 ヴァルフリードが半生を懸けて建て直そうと尽力してきた甲斐もあり、また、かつて世界の安寧を脅かした魔王も没していると言う事もあり、ガイネス帝国はある程度安定している。


 更に言えば皇帝を補佐する女宰相ジギタリスがその才を大いに発揮し、政務を過不足ない様に取り仕切っているという事もある。


 女宰相ジギタリス・イラ・マリシア伯爵はガイネス帝国きっての才女だ。


 彼女はまだ幼い頃から、その才知で名を馳せていた。


 マリシア伯爵家に養子として迎えられる以前の出自は不明とされるが、十歳にして既に複数の言語を操り、財政や軍事に関する驚くべき見識を持っていたという。


 血筋の不明な少女が名門マリシア家の養嗣となった事実に、当初は多くの疑念の目が向けられた。


 しかし彼女は自身の才覚でそういった声を確実に黙らせていった。


 宰相就任後、彼女が打ち出した政策の中には物議を醸すものも少なくない。


 特に「人種序列法」は激しい反発を招いた。


 この法は人間種を頂点とし、エルフェン種をはじめとする亜人種を下位に置くという内容で、エルデンブルーム伯爵家など亜人の血を引く名門貴族からの反対は根強い。


 しかし、彼女の手腕は否定しようのないものだった。


 軍事費の大胆な削減、特に伝統的な近衛騎士団の規模縮小。


 学術予算の見直し、特に魔術研究への投資を大幅に抑制。


 そして浮いた予算で、有力貴族への恩賞を増やした。


 平民に対しては「賢民登用制」を制定。


 才能ある平民を官僚として採用し、貴族の反発を抑えつつ平民からの支持も集めた。


 また「共同倉庫制」により各地に食糧備蓄を置き、凶作時の民衆の不安を和らげる施策も実施している。


 さらに言えば、ジギタリスが有能なのは政務の面だけではない……


 ・

 ・

 ・


 ジギタリスが皇帝の寝所を訪れたのは夜更けのことだった。


 扉を控えめにノックする音が響くと、下女がジギタリスを招き入れる。


 それと入れ替わる様に下女たちが出ていき、ジギタリスは纏う衣をゆっくりと一枚ずつ脱いでいった。


 ヴァルフリードは寝台に腰かけながらそれをじっと眺めている。


 なお、この時のヴァルフリードは夜着の一枚も纏っていなかった。


 飽食により膨れた体はだらしなく弛み、力感がない。


 だがその中でただ一部分のみが力強く存在を主張している。


 やがてジギタリスが生まれたままの姿となったとき、ヴァルフリードは息を荒らげて寝台から立ち上がった。


 そして事後。


 ヴァルフリードはジギタリスの腰を抱きながら寝台に横たわり、その滑らかな皮膚の感触を味わうのに余念がない。


 そんなヴァルフリードの耳元で、ジギタリスは甘い香りを漂わせながら何事かを囁くのだ。


 ヴァルフリードに否やはなかった。


「佳きに計らえ……」


 ただそれだけを言って、再びジギタリスを組み敷いて獣欲を満たす。


 次の日、いくつかの重要法案が特に何の議論もなくすんなりと通り、施行された。


 そして幾つかの貴族家が更に富み、幾つかの貴族家が消滅した。

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