アステール帝国
◆◆◆
「ふむ」
薄暗い執務室で、ハバキリは壁に掛かった魔術学園の紋章を見上げながら言った。
ハバキリの影は蝋燭の明かりに揺れ、壁一面に影絵を描き出している。
「学園時代ならばお主を指導するのも構わなかったが、今となってはな……政が絡むのでな。詳しくは言えんが、帝国魔術師長という立場上、特定の公爵家と近しくなるのは避けねばならん」
言葉を区切り、ハバキリはヘルガの反応を窺う。
「だが、手順を踏めばやってやれなくもない。まずはお主が教壇に立つのはどうだ? 初級魔術くらいなら、今のお主でも教えられる。むしろ、教える事でお主自身も成長するじゃろう」
ヘルガは困惑の表情を浮かべる。
「手順、ですか。それは、どういう……」
予想外の提案に、言葉が出てこない。
「教える事は、己の魔術を見つめ直す機会となる。基礎から積み上げ直す事で、お主の魔術はより強固なものとなろう。まあそれだけではないがな」
それに、とハバキリは言を継いだ。
「十二公家の中でもアステール公爵家とサリオン公爵家は、通常の貴族家に求められている事とは違う事が求められておる。それは帝都の防衛じゃ。言うまでもないことだがな」
ハバキリは煙管を弄びながら続ける。
「つまりは待機じゃ。いつ襲撃があってもいいように、常に備えておかねばならん。だが逆を言えば、普段は暇を持て余しているということになる。ならば教鞭を執る程度の時間など、いくらでも捻出できるじゃろう」
「それが本当に強くなることにつながるのでしょうか」
ヘルガの言葉に、ハバキリは自信ありげに頷いた。
「あくまでも儂がてずからお主を指導するための手順の一つじゃがな。まあ、お主も大分さび付いているじゃろうから丁度良いじゃろう」
「……わかりました」
ヘルガは了承した。
いきなりの話で困惑したものの、話が決まればとりあえずやってみようという気になってくる。
実際、ハバキリが言った様に魔術の腕がさび付いているのも事実だ。
帝都の防衛の責務は本来ならばヘルガも担わなければならないのだが、それはハインが梃子でも許さない。
ハインは普段、ヘルガの言う事ならば大体何でも素直に聞くのだが、ことヘルガの身に危険が及ぶような事は絶対に了承しないのだ。
勿論ハインは暴力的にむりやりおしこめておくというような事はしないが、それ以外の事はなんだってやる。
いつだったか旧魔王軍の残党が襲撃してきた際に、ヘルガは出陣を強く主張してハインの制止をも振り切ったのだが、そのときにハインが何をしたかといえばそれは泣き落としであった。
俯き、ぽろりぽろりと涙を零す愛息子の姿を見てしまえば、心を打たれない母親などいない。
だが実戦は駄目でも、こういう形ならハインも納得するのではないだろうか──ヘルガはそう考えた。
──それに、私もハインとの時間が増えて嬉しいし
その想いをハバキリの前で口にしなかったのは英断だろう。
してしまえば、いい年して子ども離れもできていないと呆れられてしまうだろうから。
「んん? ヘルガ、お主何をにやけておる……気持ち悪いぞ」
だが、想いが顔に出てしまったのか、結局ヘルガはハバキリに呆れられてしまった。
◆
昨日、母上に抱きしめてもらってからというもの心がどうも落ち着かない。
厭な気分ではないが、そわそわする。
「──母上」
言葉に出してみると、落ち着かない気持ちが更に強くなった。
不思議だ、学園に向かうべく屋敷を出て、まだ学園についてさえいないのにもう帰りたい。
ただ、今すぐ帰宅しても母上はいないか。
執務に関する所用があるということで、今朝は朝早くから出かけてしまった。
それにしても学園、学園、学園。
こんなもの、何の意味があるのだろうか。
学び舎だと?
そんなもの、わざわざ学園などに通わなくとも日々の生活で幾らでも学べるではないか。
空を見ろ。
渡り鳥たちは風に逆らわず、身を任せる──だが目的地を見失うことはない。
変化を受け入れ、それでも目的を見失わない意思の強さが学べるではないか。
地を見ろ。
大地は己の役割を決して放棄しない。
どれだけ踏みにじられても、全ての生命を支え続ける。
ただそこにあり続ける──己の責務から目を逸らさず、黙って耐え抜く姿は何と頼もしいことか。
何があろうと己に課せられた責務を果たすタフさが学べるだろう。
海を見るがいい。
海面は荒れ狂っていても、海の底には静謐が流れているだろう。
これは目の前の事に囚われず、より深い真実を見極めることが大事だと示唆している。
強い意思を持ち、タフで、思慮深い──そんな者がいたとしたら、 "強い" とは言えないだろうか。
言える!
このガイネス帝国に於いて、強さとは至上の価値がある。
畢竟学園での学びの目的は強さを突き詰める事にあるが、そんなものは空と大地、そして海を見ればいくらでも学べるのだ。
学園!
なんと下らん!
劣等特有の
・
・
・
教室にいけばいったで、アゼルやサリオンメス、ファフニルメスといった連中が話しかけてくる。
「よう、ハイン! おはよう! なんだ、今日も機嫌が悪そうだな! どうした? 魔術の修行ばかりで運動が足りてないんじゃないか? 剣でも振ったらどうだ。なんだったら俺が稽古に付き合うぜ!」
「お早うございます、ハイン様。そう言えばそろそろ剣術大会ですね。応援しております。わたくしはそこまで剣を得意とはしておりませんので、その分は学期末の魔術競典で挽回したいと思っているのです」
俺は何も言ってないというのに、好き勝手べらべらとしゃべくり倒す二匹を見ても何も感じない。
むしろ哀れんでさえいる。
アゼルもサリオンメスも、自分の話だけしかしない異常者だ。
恐らくは生まれついての疾患なのだろう。
いくら劣等相手とはいえ、そういったものを嘲笑うというのは貴族としての品格が問われる。
その点、ファフニルメスは少しはマシか。
決して直言してこない辺り、分相応というやつを弁えていると言えるだろう。
教室に響く劣等どもの下らない私語、戯言──俺はそのすべてを締め出し、いつものように瞑想を始めた。
そして──
◆
時間という概念を俯瞰的に捉え、己の精神世界で圧縮し──体感時間では凡そ丸一日といったところか。
俺は目を開いた。
担任の教師が教室へ近づいてくる気配を察知したからだ。
教室の扉を開く音と共に、俺は姿勢を正す。
そうして朝のホームルームが始まり──
・
・
・
「では、ホームルームの最後に重要な連絡です」
担任の声が響く。
「来週から初級魔術の担当教師が変更されます」
魔術とは現実を改変する力だ。
強い意思は現実を書き換え、願いは確かな力となって具現化する。
ただし、それには明確な指向性が必要となる。
漠然とした願いは力とはならない。
初級魔術という階梯は、この願いをより明確にするという段階だ。
勿論願いが明確であっても、それに見合った魔力が無ければ魔術は成らない。
大それた魔術──願いを叶えるには、大それた魔力が必要となる。
「新任の先生は──ヘルガ・イラ・アステール様が教鞭を執られることになりました」
母上?
思わず俺は目を見開いた。
教師の言葉が耳の中で反響する。
しかし、なぜだ?
どうしてこんな場所に?
俺は一瞬混乱するが、すぐに答えを導き出した。
つまり、母上は帝国を掌握すべく動き出しているということだ。
学園は単なる教育機関ではない。
ここは次代の貴族たちが集う場所。
母上が教壇に立つということは、次世代の貴族たちの精神にアステール家の影響力を刻み込むということに他ならない。
優れた教師は生徒の心を掴む。
母上の影響下にある貴族の子弟たちは、やがて各家の重要な地位に就く。
思わず冷笑が漏れる。
なるほど、実に巧妙な手段だ。
表立った軍事力の誇示ではなく、より深く、より確実な支配を目指す。
母上、あなたは覇道を往こうというのですね……!
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