ママの愛
◆◆◆
ハインはヘルガにとって自慢の息子だ。
彼女はハインを溺愛しており、ハインの為ならば文字通り
そう、なんでもだ。
ただ、それはハインに隷属しているという意味ではない。
自身とハインの近すぎる関係が将来に禍根を残すと考え、距離を取ろうと考えたのがそれを証明している。
彼女はあくまでもハインファーストであり、己の欲望ファーストというわけではないのだ。
とはいうものの、「サリオン家は今更何を」という思いがある事は否めない。
ダミアンとの間に結ばれた約とはいえ、それまで何の音沙汰もなかったというのに、ハインが目覚ましい功績を残し始めたからといって平然と元の関係に戻ろうとするのは一体どういう了見であろうか。
ヘルガはサリオン公爵家の事を面白く思っていなかった。
──でも、サリオン公爵家は……
そう、サリオン公爵家とアステール公爵家で血の繋がりが出来れば、それは両家にとって大きなメリットであることは言うまでもない。
サリオン公爵家にとってはハインという麒麟児の力を得る事が出来るし、なによりアステール公爵家の立場の改善に繋がるという面が非常に大きい。
ハインを取り巻く情勢は決して簡単なものではなかった。
アステール公爵家の立場は、少なくともハインがその働きを見せるまでは決して良いものではなかった。
先代当主ダミアンが残した負の遺産――亜人狩り、魔術儀式における人体実験。それらの噂が未だに影のようにまとわりつき、家の名誉を蝕んでいた。
亜人に対する蔑視、軽視といった風潮はガイネス帝国全土にはびこっていたが、それでも表立っての人権侵害は許されていない。
ましてやダミアンは亜人だけではなく、普人にまで手を出していたのだ。
帝国の剣としての役割があったからこそ目を瞑ってもらえていたが、他の貴族家の視線は冷ややかであり、時に侮蔑すら滲んでいた。
サリオン家との血縁関係はアステール公爵家の立場を改善するための一歩となるだろう──そう理屈ではわかってはいる。
さらに言えば、他家との婚姻は明確な親からの自立を意味し、そういう意味でもハインは一端の男として扱われるだろう。いつまでも親にすがる貴族子弟というのは、ガイネス帝国では侮蔑になるのだ。
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「母上……ママ、うん、僕はこうされたかった、です」
そう言って強く抱きしめてくるハインの頭を撫でていると、この可愛い息子をサリオン公爵家に渡してしまう事が惜しくなってくる。
ハインは可愛いのだ。特に、普段背伸びして大人っぽい口調で話しているのに、甘えるとなると年齢相応──いや、さらに幼い感じになるのがまた良い。
そんな風に思いながら、ヘルガはハインのつむじに頬を寄せて背中を撫で擦った。
──少なくとも、この子が愛そうと思える相手以外とは結婚させたくないわ
貴族にとって政略結婚は半ば義務でさえあるが、ヘルガはハインの意思を第一に考えたいと思っていた。
だがこの時、自身の内心に一つの想いが沸いて出た事は努めて無視をする。
そう、もし自分がハインの母親でなかったら?
別の形でハインに出逢う事が出来ていたら?
そのときは、また別の形でハインとの関係を築く事が出来たのだろうか?
その考えは母親として決して抱いてはならない類のものであったが、罪悪感と同時に一種の薄暗い快感を伴った。
国の風潮、一般常識──そんなものにかかずらうことなく、ハインから存分に愛され、そして存分に愛したいという欲望がヘルガにはある。
◆◆◆
学園に登校するハインを見送った後、ヘルガは執務室で物思いに耽る。
ここ最近の旧魔王軍の侵攻は目に余るものがあるが、その襲撃の殆どは主にハインの手によって防がれている。
その功績は大であり、皇帝からの覚えも良い。
貴族家からの評価も、かつてのアステール公爵家よりは大分良くなった。
とはいえ、アステール公爵家の復権を快く思わない貴族家は多く、過去の悪行が祟って大きな恨みを買ってさえもいる。
そういった家々からは刺客を送り込んでこられたりと、アステール公爵家には敵が多い。
「私があの子の弱みになるわけにはいかないわね……」
力をつけねば、とヘルガは思う。
貴族家としての権力もそうだが、もっと純粋な力だ。
ガイネス帝国では個の力が尊ばれており、立場を良くしたいなら強くなるのがシンプルな手段と言える。
そうしてアステール公爵家の立場をより良いものとすれば、ハインの将来は安泰となるだろう。
ヘルガの生家であるエルデンブルーム伯爵家は、代々良質な魔術師を輩出してきた名家である。
ただその気質は穏やかで、闘争よりは調和、融和を重んじる所が大だ。
ヘルガ自身もその例に漏れず、慈母めいた気質を有する。
ただ、彼女とてやる時はやるのだ。
かつてダミアンがハインを殺せと言った際、命を賭してそれに抗った様に。
そうしてヘルガは筆を取り、一通の書をしたため始めた。
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