ママのハグハグ

 ◆


 学園から帰ると、俺は真っ先に執務室へと向かった。


「母上は?」


「執務中です」


 隣を歩くフェリに上着を渡し、廊下を進んでいく。


「忙しそうか?」


「いえ、いつも通りです」


 母上はここ最近、ずっと忙しそうだ。隣に控えるフェリの言葉からも、あまり変わりないように見えるものの、俺にはわかる。わずかに沈んだ母上の眼差しが、日ごとに疲れを増しているのを。


「フェリ、もし母上の様子に変わったところがあればすぐ俺に知らせろ。無理はさせるな」


 俺がそう命じると、フェリは神妙な顔で頷いた。


「承知いたしました、若様」


 母上の執務を手伝うことは出来る。


 俺は5歳の頃には既に複雑な文書を解読し、貴族としての政務に必要なすべてを理解していた。


 なのに、母上はどうしても俺にその役割を担わせようとはしない。


 母上曰く、「学園生活を優先しなさい」とのことだが──


 ともかく俺は、母上がその肩に背負う負担を少しでも分かち合いたい。


 そうだ、 母上は無理をしすぎているのだ。


 今日という今日は一言言ってやらねばならない。


 俺は断固たる決意で執務室の扉の前に立った。


 そうして ノックをしようとすると──


「ハインかしら。入っていいわよ」


 と、 声がかかる。


 母上の声、天上の調べの様な、美しいなどという言葉ではとても言い表せない声! 


 ママ……! 


 ・

 ・

 ・


「最近、敏感になったっていうのかしら。何となく魔力のあしらいが上手くなったのよ。特にハインの魔力はよくわかるわね。とても綺麗で、そして深いの」と、母上は穏やかに微笑みながら言う。


 魔力といえども一様ではない。


 その色、匂い、密度、いずれも個人の在り方を反映し、千差万別である。


 しかし、その微妙な違いを理解できる者はごく少ない。


 それは一つの業と言っても良い。


 無論俺も同じ事が出来るが、それは俺が母上の息子だからだろう。


 それにしても、と母上の麗しい笑みに俺は圧倒されてしまう。


 言うまでも無いが、外見だけの話ではない。


 しかしその身を包む魔力の微かな淀みを通して、俺は隠しきれぬ疲労の兆しを見てとった。


 ──溜まってきてるな


 一見すれば疲労が原因に見える。


 だがどこか違う気もする。


 しかしともかく、今はをしなければ──した! 


 1秒も掛からなかった。


 ──とはいえ、対処療法に過ぎないが


 そう思っていると、母上が俺を急に抱きしめた。


 あの日以来の久々の抱擁だ。


 ──ママの匂い……


 俺は胸いっぱいに母上の香りを吸い込む。


 嗚呼、俺はこのまま母上の胸という海で溺れてしまいたい。


 なぜ俺は15なのだろうか! 


 もっと幼ければ、お、お、お……おっぱいを飲めたのに! 



 ◆◆◆


 ハインの全身から凄まじい速度でが放射された。


 速度にして約299,792キロル/秒。


 それはヘルガの体内に滞留していた淀んだ魔力の塊を、見えない刃で刻むように粉砕していく。


 この魔術は、ハインが独自に編み出した魔術である。


 ヘルガの為にだ。


 ハインはヘルガの為に数多くの魔術を開発している。


 それはハイン自身の知識欲も関係無くはないが、大なる所はヘルガをためである。


 ハインの目から見てヘルガは酷く疲れやすい。


 か弱く、脆い。


 ハインも無駄に過保護なわけではないのだ。


 ハインはヘルガが単純にか弱いだけなのか、それとも他に理由があるのかを疑っている。


 しかし理由を特定することが出来ないため、とにかく全方面的にヘルガを護ろうと考えていた。


 ・

 ・

 ・


 目の前で魔術が行使されたにも関わらず、ヘルガは一切気づくことが出来なかった。


 それには理由がある。


 魔術の感知は、術者が放射する魔力を知覚することによって可能となる。


 では魔力を知覚するとは一体どういうことなのか。


 それは、はっきり言ってしまえば肌感覚だ。


 腕に拳大の石が落とされたなら人は当然気付くだろう。


 では親指大ほどなら? ──それでも気付く。


 しかし爪の先ほどなら? 


 あるいは気付かない者もいるかもしれない。


 それをどんどんと細かくしていくとどうなるか。


 例えば砂粒ほどならば多くの者が気付かないだろう。


 そして、魔力とは砂粒よりも遙かに小さい粒に他ならない。


 この世界のあらゆるものが粒から出来ているのだから、魔力も当然粒なのだ。


 しかし、ハインが放ったは、質量が m ≲ 10−14 eV/c² という極めて微小で、通常の魔力の粒子に比べ5.6×10^25倍ほども小さい。


 ヘルガはふと肩の軽さを感じた。


「……不思議ね、ハイン、あなたの顔を見たら少し肩が軽くなったように思うわ」


「そうですか? それは良かった」


 澄まして言うハインの顔をヘルガはじっと見つめた。


 そして、ややあっておもむろに立ち上がり、ハインをその胸に掻き抱いた。


 ハインがヘルガの為に何かをしてくれた、とは思わない。


 魔術の兆し一つ感じ取る事が出来なかったのだから、単に気分の問題だろうとヘルガは思う。


 しかし、ハインが自分を心から案じてくれている、傍に寄り添ってくれているという温かい感覚に心身が満たされ、ハインの事をひたすら愛おしく思ってしまったのだ。


 まあヘルガがそう感じたのは、単純に自身の中にが浸透していたからなのだが。


 ともあれ、ハインはこうして過保護にヘルガの体をあれこれと気遣う。


 だから "本来の歴史" ではあと数年もすれば原因不明の病で死ぬ筈のヘルガが、単なる疲労感程度で済んでいるのだ。


 とはいえ、ヘルガが死んだ時は原因不明とされていたが、更に後世で原因が明らかになる。


 原因は魔力だ。


 魔力は粒──結局は物質である。


 だから変質もする。


 特に自分の魔力ではない魔力を取り込んでしまった場合、取り込んだ者が余程の魔術師でなければ魔力を吸収しきれない。


 そんな他人の魔力の残滓は、悪性に変質しやすい。


 これが酷くタチが悪いのだ。


 魔術師とは基本的に師弟関係を結ぶ。


 ゆえに師の魔力が弟子の肉体に浸透しやすい。


 だから後世、数千数万という才能ある魔術師達が命を落とす事になった。


 しかし、この世界線ではそんな事は起こらない。


 なぜならこの恐るべき病がその広がりを見せる前に、極めて早期に原因が突き止められたからだ。


 ・

 ・

 ・


「そういえばハイン、ここ最近、体の不調を訴えている貴族が増えているのよ」


「そうですか。母上のご友人も?」


 ヘルガは表情を曇らせる。


「ええ……そうなの」


「私にそれを言ったという事はつまり」


「ハインならどうにかしてくれるって言う事じゃなくて、なんというか……」


「少し見て欲しいと? 何か分かるかもしれないから」


「まるで私の心の中を読んでいるみたいね。でも私だってハインの心を読めるのよ」


 そう言って、ヘルガは再びハインを抱きしめた。


「ほら、こうされたいんでしょう?」


 ハインは答えなかったが、ヘルガの背に回された手の強さがその内心を大いに物語っていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

毎日 06:00 予定は変更される可能性があります

悪役令息はママが好き 埴輪庭(はにわば) @takinogawa03

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ