フェリの耳

 ◆


 結局眠れたのはほんのわずかな時間だけだったが、多少なり心の整理がついた。


 ……ついた、多分! 


 だがどうにも気まずい思いが拭えない。


 朝いちばんに大きなため息というのは辛気臭いにも程があるが、しかし仕方がないではないか。


「若様、フェリで御座います」


 いつもの時間にフェリが来る。


「入れ」


 俺はベッドに入ったままそういった。


 いつもの様に体を動かす準備はしていない。


 気分ではないのだ。


 フェリはそんな俺を見ても少しも動揺を見せず、ベッドに近づいてくる。


「本日の鍛錬はお休みという事で宜しいでしょうか」


「佳きに」


 俺がそういうと、フェリはハイと頷き、しかし去っていこうとはしない。


「なんだ?」


 尋ねると、なにやら意を決したような迫力でずいと体を寄せてきた。


 俺を害するつもり──ではなさそうだったので、何を仕出かすのか興味本位で好きにさせてみると、なんと。


「若様、お叱りは覚悟の上です。御手打ちも仕方がない事だと理解しております」


 などと言って、俺を抱きしめた。


 ◆◆◆


 フェリという女にとってハインは絶対的な存在であった。


 神のような、と言い換えてもいい。


 フェリはハインに情ではなく信仰を抱いている。


 しかしこの日、フェリがハインに抱いたモノは信仰でも忠誠でもなかった。


 恋でも愛でもなければ、憐れみの類とも違う。


 敢えて言うならば、寄り添いの情であろうか。


 フェリは口下手だ。


 巧言令色を得手としない。


 可愛げがないともいう。


 こんなフェリだからこそ、から散々な目にあわされたのだが。


 ともあれ、この女は己の心情を表現するためには分かりやすい方法を選ぶ気質にできている。


「若様」


 フェリはただそれだけを言ってハインを胸にかき抱いた。


「不敬な奴」


 ハインもそうは言うが抵抗する様子を見せない。


 フェリの胸に顔を挟まれ、じっと大人しくしている。


「これが森の香か」


 ハインが言う "森の香" とは、黒肌のデルフェン種、白肌のエルフェン種特有の体臭の事だ。


 体臭といっても別に臭いわけではなく、しかし人間のそれとは違う風情がある。


 嗅いだ者の気分を高揚させたり、鎮静させたりするのだ。


「私に当たってくださっても構いません、若様」


 フェリはある種の覚悟を固めてこの台詞を口にした。


 というのも、デルフェン種の体臭は相手を高揚させるが、一口に高揚と言っても色々と種類がある。


 相手によっては酷く嗜虐的な気持ちになる事もままある。


 "本来の歴史" のハインがフェリを四肢をもぎ取って非人道的な扱いをしたのは、ハイン自身の残虐性もあるが、デルフェン種の体臭に当てられたという事情もないではなかった。


 しかしこの世界のハインは──


 ◆


 俺はフェリの胸に顔を埋めながら、舌を出し皮膚を舐めた。


 フェリの声が漏れるが気にしない。


 それより、舌先に感じる甘い痺れはフェリの魔力の作用だろう。


 フェリの匂いは魅力、興奮、発狂を初め、様々な異常を及ぼす魔香だ。


 といってもこの程度の作用ならば、余程精神が軟弱でないかぎりは劣等平民でも耐えられる程度だろうな。


 俺をどうこうしようなどという悪意は感じられない。


 つまり、フェリは生意気にも自身の特性を使って俺の精神を賦活しようなどと考えているという事だ。


 生意気な女め! 


 少し腹が立った俺はフェリの乳房に歯を立ててやった。


「あっ……若、様……」


 途端にフェリの肌が汗ばみ、魔香の濃度が密になる。


 これはフェリの意思ではないだろう、精神が多少強靭であっても狂する程度には匂いが濃い。


 だが俺の精神は今や星天の高みにあるといっても過言ではなく、フェリの魔香など物ともしない。


 とはいえ──母上との関係性に悩んでいた数分前の俺の精神の立て直しの切っ掛けが、フェリの献身であったことは否めない。


 しかし! 


 これだけははっきりさせて置く必要がある。


「フェリ、俺をこの様に抱くとは不敬千万。俺がまるで貴様のモノであるかのようではないか。貴様が俺のモノなのだ、逆はない。心得よ」


 そう言って俺は、フェリの右の耳を撫でてから部屋を退室させた。


 これから食事だ。


 着替えなくてはならないからな。


 食卓で母上と顔を合わせるのが妙に気まずかったが、今なら普通に話せそうだ。


 ◆◆◆


 デルフェン種、エルフェン種の特徴と言えばその長い耳だが、これは彼らにとって特別な部位でもある。


 耳の役割とは聴く事であるが、この聴くという行為は学びを意味している。


 長命種である彼らの文化では、その長い生の中で学んだ知識が全て耳に宿るとされているのだ。


 彼らは自身の耳を神聖視しており、ゆえに滅多に人に触らせる事はない。


 また、他の種族も彼らを捕らえ、隷属させることはしても耳に触れたり怪我したりすることはめったにない。


 なぜならばそれをされれば彼らは死を選ぶからである。


 奴隷にするにせよ、死んでしまっては意味がないのだ。


 彼らが自身の耳を触らせるとすればそれは余程信頼している相手に限るし、同時に、彼らの耳の神聖性を知ってなお触る者がいたとしたら、それは相手への強い親愛と信頼を意味する事に他ならない。


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