第8話 ママとすやすや

 ◆


「ハイン、おいで。今夜はあんなことがあったし、私も少し心細い思いなのです。それに、途中で終わってしまったというのもあるから……ね?」


 母上はそう言って、顔を僅かに赤らめる。


 ただそれだけで、俺はもう堪らない気分になってしまった。


 天才の俺をして、その感情に名前を付ける事ができない──単なる喜怒哀楽には収まらない想い。


 母上が好き好き大好きというハピネスな想い!


「おいで」と言われればすごく嬉しい。


 しかし同時に、強い罪悪感も覚える。


 俺も理解してはいるのだ。


 通常、母親と子供がこの様にして睦み合う事などありえないという事を。


 俺もいい年だ、馬鹿みたいに甘えてばかりではいられない。


 母上は俺が親離れ出来ない事をさぞ嘆いておられるだろう。


 当たり前だ、子供の成長を願わぬ親がどこにいるのか。


 分かっている、分かってはいる、だのに──


 ・

 ・


「ママ、どうか怯えないでください。あのようなトカゲなどは……もごもご」


 母上が俺を抱きしめる。


「私が、……僕が、いるかぎりママに指一本触れさせませんッ……魔王軍がなんだというのでしょうか、アステール公爵家は星継ぎの大家!うぎ……み、耳元に息を吹きかけるのは、どうか……」


 俺が……いや、アステール公爵家がどれ程偉大で、どれ程強大なのかを母上に示し、魔王軍恐るるに足らずという事をお教えしたいのだが、母上は意地悪をしてくる。


「お、大いなる星の前で、魔王などは、ま、まお、ま……」


 俺は言葉に詰まってしまう。


 母上に抱きしめられたせいで安心し、眠くなってしまったのだ。



「ハイン、あなただけが背負う必要はないのです。どうか周りの力を頼ってね。そしてあなたの愛は、ん……私にはちゃんと伝わっています。ほら、よしよし、頑張ったんだからそのままおねむしましょうね……」


 母上は俺の頭を二度撫で、三度撫で……背中をとんとんと叩く。


 俺の強靭な精神力を以てしても睡魔に抗えない。


「ほら、我慢しないの」


 四度目の撫でで俺は屈し、あっさりと眠りこけてしまった。


 ・

 ・

 ・


 ◇


 私はバルコニーで全てを見ていた。


 恐るべき邪竜と、邪竜もろとも空までもを貫く光の柱を。


「あ、あの光は…………」


 その光はあまりにも眩く、美しく、そして破滅を強く予感させた。


 お父様は帝都防衛のために王城から使いがきており、城に詰めている。


 恐らくはアステール公爵家にも出撃命令はでるだろうが、現当主であるヘルガ・イラ・アステール様は厳密に言えばテー


 つまり、次期当主であるハイン・セラ・アステールに対して出撃命令が下る筈。


 ただ、ハインはまだ十分に成長しておらず、王城はサリオン家のみで防衛にあたろうと考えていたようだ。


「あれは、まさかお父様が?」


 ただ、自分で言っておきながら私は懐疑的だった。


 私が知る限り、お父様にあのような力はない。


 それに私はお父様が張り巡らせた数百もの攻勢結界が、脆いガラスの如く次々と破られた所を見ていたではないか。


「否。あれはサリオンの業ではない。あれはアステールの業よ」


 私は不意に背後に現れた気配に気付いた。


「おじい様!」


「フォーレがだらしないのでな。隠居した儂も一働きせねばならんかとおもっておったら……」


 フォーレとはお父様の事で、サリオン公爵家の現当主だ。


 ただ、その力の多寡は知れており、2年もすれば私の方が魔術に関しては上回ってしまうだろう。


 ちなみにおじい様は、老いてなおサリオン公爵家でもっとも優れた業を誇る。


「アステールの業……では、まさか」


「うむ。アステールの嫡男じゃろうな。恐るべき魔力、恐るべき魔術よ。先代当主であるダミアンを既に超えておる」


「ハインが……」


 私はハイン・セラ・アステールに複雑な感情を抱いている。


 というのも私とハインは婚約関係にあるのだが、私は彼の内に魔を見てしまった。


 私とて貴族だ、人を見る目はそれなりにあると自負している。


 その目から見て、ハインという人物は厄の塊のように思えてならなかった。


 力はあっても、ただそれだけでは意味がない。


 だから婚約なんて破棄をしたかったのだけれど、公爵家同士の婚姻ともなると政治的な側面が大きくなってくる。


 私情でのみ破棄することはとてもできなかった。


 だから私はハインがしっぽを出すのを待つことにした。


 婚約関係は結びつつ、なるべく関係を疎遠なものとし、それがハインの感情を逆撫でして無体な行為を強いてきたりするようならそれを理由に婚約を破棄……という事だ。


 もしくはそこまで回りくどいやり方をせずとも、勝手に取り返しのつかない失策をして婚約維持が難しい状態になるのを待つというのもアリだ。


 というか、後者の方が可能性が高いと思っていた。


 なのにハインは問題行動どころか、普段の素行も貴族の模範とも言うべき立派なものだった。


 そして感情を逆撫どころか、無である。


 私と婚約している事を忘れてしまったかのように、あちらから全く話しかけてすらこない。


 私は私で完全に無視しては良くないと思い、機をみては話しかけようとはしているのだが、全く相手にされない。


「ところでエスメラルダよ、お主はハインとは上手くいっておるのか?」


 言われてしまった。


「は、はあ……そう、ですね……適切なお付き合いをさせていただいております、が……」


 私はしどろもどろにそんな風に答えてしまう。


「……アステールの嫡男の何が気に入らないのかは知らんがの、彼奴が何かやらかしたか?これまで注視した限りでは、むしろ優等生の部類じゃと思うがの。言っておくが、お主の私情一つで破棄して良い婚約ではないぞ」


「……分かっております」


 まさか全く交渉を持っていないなどとはとても言えない。


 だが、もう私も何らかの行動を起こさなければいけないようだ。


 関係を修復するのが最善だろう、あれほどの力を持ち、更に貴族としての責務をはたしているハインと婚約が頓挫したとあれば、サリオン公爵家の立場がなくなる。


 その場合、恐らくは完全にこちらの有責になるだろう。


 なにせ私はハインと関係を進展させる努力を怠っていたのだから。


 最悪、体を使ってでも気を惹く必要があるだろうか?


 正直、とても気が重かった。


 ◆◆◆


 本来の歴史では、ハインとエスメラルダとの婚約は頓挫している。


 というのも、アステール公爵家が帝都防衛の任を果たさなかったからだ。


 そのおかげでエスメラルダはハインに完全に見切りをつけ、"空喰い"オルムンドを撃退したアゼルを意識するようになる。


 何もかもが上手くいかず、鬱憤を溜め続けるハイン。


 この間、着実に魔王の器に足る負の感情で魂を穢していく。


 だが、平行世界のハインの魂はピュアなままだ。


 実母との愛の形を模索するマザコンというと響きは悪いが、魔王が介入する余地はこれっぽっちも存在しなかった。

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