第5話 悪役令息は心の底から帰りたい

 ◆


 助けてください母上。


 俺は静かに学園生活を送りたいだけなのに、クソが邪魔をしてきます。


「ハイン様、朝の件で謝罪をさせてください」


 ここは教室だ。


 有象無象の声を耳に入れないように瞑想していた俺に、そんなこと言ってきたのは同じクラスのなんとかというメスだった。

 おそらくはファフニル家の関係者なのだろう、朝の件と言うからにはそれしかない。


 しかし当主でもないメスの名前など覚えているわけがない。


 とはいえそれをそのまま言ってしまえば波風が立つ。


「良い。去れ」


 俺は自身にできる最大限の礼節を示し、メスを赦した。


 だというのに──


「なあ、そんな言い方ってないんじゃないか?」


 こんな風に突っかかってくるオスがいる。


 確か何とかとかいう名前だったはずだ。


 そんな言い方ってどんな言い方だ? 


 もしかしてもっとメスの無礼を責めたてた方がいいというのか? 


 甘すぎると? 


 一応聞いてみる。


「何がだ」


 俺が尋ねるとオスは言った。


「だからさ、この子はあんたに謝ってるんだろ? つまり何か悪いことしたってわけだ。なのに頭を下げてるって言うのに、そんな突き放すような言い方はしなくてもいいんじゃないかっていうことだよ」


「ちょ、ちょっと! アゼル君! 勝手な事を言わないで! 私はそんな風に思っていないよ!」


 メスがそんな事を言う。


 つまりオスとメスは意見の一致すらみていないのか。


 助けてください母上。


 俺の頭脳をもってしてもオスの言っていることが分かりません。


 仕方がないので俺は一から説明してやることにした。


 母上は"トモダチ"と仲良くしろと言っていたので、なるべく丁寧に柔らかく答えてやるようにする。


「いいか劣等。そこのメs……ファフニル家のご令嬢は子爵家の出だ。そして俺は公爵家だ。これを念頭に置いておけ。まずは今朝、ファフニル家の馬車の車輪が壊れて道を塞いでしまった。俺の馬車はファフニル家の後方を走っており、当然進行が妨げられるわけだ。この国の貴族の慣例ではこれは大きな無礼にあたる。学園では身分差はないというのが建前だが、学園の外では別だ。こういった場合、我がアステール家はファフニル家に対して金銭の支払いが伴う罰の履行を求めるというのが普通の対応だ。しかし俺は道を逸れ、特に苦情を申し立てることはなかった。それに対してこのご令嬢は詫びているわけだ。後から請求されても困るだろうからな。だから俺は後から請求はしないという意味であのように答えた。それとも何か? 高額な慰謝料を請求すればよかったか? 無知も限度を過ぎれば罪となる。朝からあまり苛々させてくれるなよ。分かったら生涯俺に話しかけるな」


 母上の愛を受け、俺も精神的に日々成長してるのかもしれない。


 まさか俺にこんな慈悲深い側面があるとは。


 しかし次の瞬間俺はとんでもない仕打ちを受けた。


 あろうことかオスが俺の机に手を叩きつけたのだ。


 挙句の果てに「ふざけるなよ! 人を馬鹿にするのも大概にしろ!」などと言う。


 流石にここまでされてしまえば、俺としてもそのまま許すことできない。


 ここまでなめられて許してしまえば、アステール公爵家の名を穢す事になる。


 無礼討ちだ。


 学園の建前など知ったことか。


 こいつはアステール公爵家の名を貶めようとする"敵"だ。


 "敵"ならば是非もなし──ここで死んでもらう。


 俺は人差し指をオスの脳に向け、圧力を加えて破裂させようと考えた。


 この殺し方は突然死に見えるので後々の話が楽になるのだ。


 しかし──


「ふざけているのはアゼル君だよ!」と叫ぶ声。


 声の主はファフニル家のメスである。


「なっ……」


 アゼルと呼ばれたオスが絶句し、そのツラの間抜けさが少し愉快だったので殺すのは待ってやった。


「どなってごめんね、でもハイン様の言う通り、私は見逃してもらった形になるの。本当なら少なくないお金を支払わなきゃいけないんだよ? アゼル君が私の為を思っていってくれたのは嬉しいけれど、アゼル君があんな風に言えば言うほど私は立場が悪くなるんだよ。アルファイド伯爵家が貴族の慣例を教えていないとは思えないけれど……。ハイン様、本当に申し訳ありませんでした、どうかアゼル君と私を許しては頂けないでしょうか」


 ファフニル家のメスが、頭頂部まで見えるほど頭を下げるので、俺はもう面倒になってしまって許してやってもいいかと思う。


 良く考えてみれば野良犬がこちらを見て吠えたとて、それを無礼だとしてむきになる必要があるだろうか? 


 礼節だとかそういうものは、一定の知性がなければ理解が出来ないのだ。


 しかるに、あのオスにはその一定の知性がないように思える。


「良い。行け」


 だから俺はオスを赦す事にした。


 というより、もしあそこでオスを殺してしまえば俺と言えどもある程度の事情は聞かれる事になるだろう。


 そうなると帰宅が遅れる。


 それは──最悪だ。


 俺の優先順位はまずは母上、次に母上、そして母上だ。


 母上に逢う時間が何より優先される。


 俺は過ちを犯す所だった。


 ◆


 授業は退屈極まりなかった。


 何もかも既知の事だ。


 しかしこのストレスがどこか快感でもある。


 母上、ご照覧あれ! 


 このハインは堪え難きを堪え、忍び難きを忍んでおりますぞ! 


 だから褒めてください……。


 ──と、俺が自画自賛しながら帰る用意をしていると。


「随分と印象が違いますね。もう少し乱暴な方だと思っていたのですが」


 そんなことを言ってくるメスが居た。


 いや、さすがにこのメスは俺も知っている。


 サリオン公爵家のエスメラルダ・イラ・サリオンだ。


 一時期は俺との婚約の話も出ていたが、いつの間にか立ち消えになった。


 俺にとってもそれは都合がいいので特にその話を蒸し返すつもりもない。


 もしもその話が消えなければ俺から蹴っていたところだ。


 俺は生涯独身を貫くつもりでいるからだ。


「そうか」


「まだ婚約の話について怒っていらっしゃるのですか?」


 何のことを言ってるのかちょっとよくわからない。


「さあ」


 俺はそれだけ答えて、手早く荷物をまとめその場を立ち去った。


 背に強く刺さるエスメ……サリオンメスの視線が鬱陶しい事この上ないが、今は文句を言う時間すらも惜しい。


 ◆◆◆


 本来の歴史では、ハインがアゼルを手に掛けようと魔力を発した瞬間、エスメラルダによって魔力を打ち消される事となる。


 この時のハインは力に溺れ、驕り高ぶって研鑽を怠っていたのでエスメラルダでも抗する事が出来たのだ。


 そしてハインはエスメラルダから危険因子だと見做され、ハインが覇道を征くにあたって大きな障害となる。


 ちなみに仮に平行世界のハインが同じ事をしていたなら、エスメラルダが介入しても結果は変わらなかっただろう。


 なぜならこの世界のハインは努力を怠らず、常に自己研鑽に励んでいたからだ。


 ハインが頑張れば頑張るほど母親であるヘルガが喜ぶとあっては、マザコンの彼が頑張らない理由はない。



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