16.光あるところ(前編)

「あれ、絶対に嫌がらせだよ、間違いない。ひどいんだよ、アルドリックさん。急いでるなら手伝って帰れって、無理やり引き留めるんだもん。ぜんぜん急ぎの仕事じゃなかったのに。というか、急いでるなら手伝えって意味がわからないよね」

 ぶつぶつと文句を言いながら居間に顔を出したハルトに、エリアスは苦笑をこぼした。帰宅するまでのあいだにと読んでいた本をテーブルに置く。

 不在の期間をものともしない態度で「ただいま」と森の家のドアを開け、さっさと自室で着替えを済ます姿が、なんともハルトらしかったからだ。

「そのわりには、嫌そうな顔をしていない気もするが」

 少し遅いと感じていたので、引き留めがあったことは事実なのだろうが。ハルトの表情は、不貞腐れた子どものそれに近い。

「それは、まぁ」

 エリアスの指摘に唇を尖らせたハルトが、その調子のまま正面の椅子を引く。釈明をする口調は、どこか複雑そうだ。

「今日は本当に早く帰りたかったけど。でも、勇者殿って呼ばれて、雑用もなにもさせてもらえないよりはうれしいよ」

「そうか」

「うん」

 拗ねることを諦めた、くすぐったさの勝る顔で笑い、ハルトが続ける。

「なんていうかさ、アルドリックさん、本当にそういうところがうまいんだよね。ちょっと癪だけど、でも、やっぱり助かってる」

「そうだな」

 癪という表現は脇に置き、エリアスもゆるやかに笑った。

「大事な友人だからな。いいやつだろう」

「友人」

「お互い友人だという認識を、つい先日も共有したばかりだ」

「あ、……そうなんだ」

 大方を察したらしい。相槌を打つ表情は、喜んでいいのかわからないという素直なもので。あいかわらずだな、とエリアスは静かに席を立った。素直で、機微に聡く、どこまでも心根が優しい。ハルトとはそういう人間だった。

「師匠?」

 キッチン台の前でかかった声に、鍋を火にかけながら応じる。

「急いで帰ってきたんだろう? 軽いものしかないが食べるかと思ってな」

「いいの?」

 ありがとう、と明るく喜んだハルトが、ふと首を傾げた。

「師匠も王都に行ったのに、ごはん作って待っててくれたの?」

「おまえが絶対に帰ると言ったからな」

 のっぴきならない事情で違うことはあれ、ハルトが嘘を吐くことはない。誰よりも承知していたはずなのに、「ここにずっといる」という告白をエリアスは遠ざけた。

 ――遠ざける楽さに、慣れすぎていたのだろうな。

 おそらくは、そういうことだった。そっと息を吐き、火を止める。疲れて帰ったときも、少しでも栄養を取ることができるように。らしくない考えで、よく作ったもの。

 とろりと崩れた野菜がたっぷりと入ったスープを、大きめのカップに注ぐ。テーブルに置けば、ハルトは素直に「ありがとう」とほほえんだ。

「俺、これ好きだよ。昔もさ、俺が遅くなったとき、いつも作って待っててくれたよね。師匠も忙しかったはずなのに」

 懐かしそうに目を細め、スープに口をつける。

 そういえば、こちらに戻った直後も飲みたいと強請っていたな。とりとめのないことを、エリアスは思い出した。随分と昔のことのようにも感じるし、昨日のことのようにも感じる。それが少し不思議だった。

「俺の帰りを待っててくれる人がいるんだってわかって。だから、うれしかったよ」

「そうか」

「あとさ」

「なんだ?」

「これは、俺の勝手なんだけど。宮廷に来る回数が増えるって聞いて、なんか、ちょっとほっとした」

 ――ほっとした、ときたか。

 ハルトにまで心配をかけていたらしい事実に、エリアスはなんとも言えない心地になった。無論、自分のどうしようもなさについてである。

「宮廷でまた仕事するってことで合ってるんだよね? なんていうかさ、俺、師匠は仕事が好きだったんじゃないのかなと思ってて。だから」

 ほっとしたのだ、と。ハルトは優しい瞳で繰り返した。

 あいかわらずの雑で率直な物言い。話そうと考えていたことであるし、いまさら誤魔化すつもりもない。だが、どう答えるべきだろうか。とりわけ、後半は。

 悩んだ末、エリアスは前半に焦点を当てた。自分の内面を言語化することが、昔からどうにも苦手なのだ。

「合っていないわけではないが、現時点ではこちらの意向を伝えたという状態だ。具体的にどうこうというのは、まだ少し先の話になる」

「あ、そうなんだ。じゃあ、その準備で忙しくなるってこと?」

「まぁ、そうだな」

「そっか」

 マグカップを持ったまま、ハルトは頷いた。

「なんで戻ろうと思ったの? 俺が戻ってきたから?」

 少しの間を挟んで重ねられた問いに、たまらず小さく笑う。そのとおりだったからだ。

「そうだな」

「そうなんだ……」

 端的に認めたエリアスに、ハルトの肩から力が抜けた気がした。疑問に思っていると、ほっとした顔で「よかった」と呟く。

「よかった?」

「だって、師匠が五年前に辞めた理由って、俺だったでしょ?」

 こちらに戻ってすぐのころ、同じようなことを問われたと思い出した。宮廷の食堂で、真面目な瞳で。子どもが気にすることではないという建前を封じ、エリアスは首肯した。

「切欠のひとつだったことは否定しない」

「だよね」

「だが、あくまで切欠だ。宮廷内のもろもろに、俺が嫌気が差したんだ」

 それだけのことだ、と淡々と続ける。

 決断に影響を与える存在であったことは事実だ。戻ると決めたこともそうで、ハルトの存在があったことに感謝をしている。だが、決断の責任を押しつけるつもりは微塵もない。それだけのことだった。

「もろもろって、なにが嫌だったの? ビルモスさま?」

「それもある」

 やはり端的にエリアスは認めた。馬鹿な子どもだったのだ。

 幼い愛を彼に求め、勝手に失望した。それだけのこと。あるいは、ハルトを救うことのできなかった罪悪感を転化したのかもしれない。全能と信じていた彼に。そうやって、すべてを放棄した。まったくもって、みっともない話である。

「もっとも、ビルモスが悪かったわけでもないが。青かったのだろうな」

「アルドリックさんに聞いたことがあるんだ。師匠は将来を渇望された優秀な学生だったって」

 失笑しようとしたエリアスを遮り、ハルトは切り出した。

「学校を首席で卒業して、宮廷に勤めて、そんな師匠だから、俺の召喚の場に立ち会っていたんだよね」

「……まぁ」

 唐突に始まった世間話のようなそれに、戸惑ったものの頷く。概ね事実だったからだ。そのエリアスの反応を、ハルトが笑う。どこまでもあっさりと。

「あのさ、師匠」

「なんだ?」

「師匠にはどうしようもなかったんだと思うよ」

 この世界にふたつとない瞳を、エリアスはただ見つめた。戸惑いを通り越し、とうとう思考が停止したのだろうか。理解の進まない頭に、穏やかな声が響く。

「あのときの師匠の年齢を超えて、ちょっとわかったよ。あのころの俺にとって、師匠はどこまでも大人だったけど、そんなことはなかったんだって」

 そう言って、くすくすとハルトは笑った。

「学校卒業して、仕事に就いたばかりだったんでしょ? そんなのさ、師匠がなにか言ったって、変わるわけないじゃん。俺でもわかるよ。それでも、師匠は、俺のために精いっぱい考えてくれたでしょ。だから、俺はそれで十分だったんだよ」

「……」

「繰り返しになるけど、本当にうれしかったんだ。損得なく俺を心配してくれる人がいることが」

 だから、とハルトが言い募る。

「師匠のために、がんばりたいって思ったんだよ」

 言葉を紡げないエリアスを後目に、ハルトは空になったカップをテーブルに戻した。

「おいしいね」

 柔らかに笑む黒曜に、じわりと心臓が疼く。その痛みを知覚したまま、エリアスはぎこちなく頷いた。

 喜ぶものを作ってやりたい。元気でいてほしい。笑っていてほしい。幸せでいてほしい。そう願う心を愛だと信じたかった。

「それでね。……だから、か。師匠に罪悪感なんて持ってほしくなかったし、宮廷だって辞めないでほしかったよ。師匠ががんばってたの、知ってたから」

 だから、戻ろうって思ってくれて、本当にうれしかったんだよ、とハルトが言う。今の俺を見てくれたってことでしょ、と。

 慈愛に満ちた笑顔を見つめ、エリアスはどうにか口を開いた。自分の想いを言葉にすることは苦手だ。だが、どうしても伝えたかった。

「おまえが戻ってきたから、もう一度やり直そうと思うことができた」

「うん」

「おまえのおかげだ。……戻ってくれたから、だから」

 元の世界に帰すべきだ、と。おのれに言い聞かすように、エリアスはずっと考えていた。自分の気持ちを抑えていた。でも、本当は、うれしかったのだ。告げる資格などないと思い込んでいたというだけで。

「ありがとう。本当に、感謝している」

 震えそうになる声で告げる。うん、と頷いたハルトの瞳は、今までで一等柔らかな色をしていた。

「あのさ、師匠」

「……今度はなんだ?」

 穏やかな声に、エリアスも穏やかに問い返した。にこりとハルトがほほえむ。

「俺はさ、師匠の真面目なところも、責任感が強いところも、情に厚いところも大好きだよ。でも、俺はなにも恨んでない」

「ハルト」

「それに、俺は師匠のためにやったんだから。その師匠に感謝されなかったら、やった意味がないよ」

 苦笑まじりに言い切られ、エリアスは小さく息を呑んだ。そのエリアスを諭すように、言葉は続く。

「だから、もし、まだ師匠が罪悪感を持ってるんだったら、謝る代わりに、今みたいに『ありがとう』って言ってよ。勇者殿じゃなくて、俺に」

 ね、と。エリアスを見つめたまま、ハルトがほほえむ。

「そうやって、進んでいきたいな。一緒に」

 博愛。広く平等に愛する心。なぜ、責めるべきはずのハルトが、何年も燻った罪悪感を癒すのか。泣きたいのか、笑いたいのか。ぐちゃぐちゃになった情緒で、エリアスは振り絞った。

「ありがとう、ハルト」

「うん、うれしい」

 満足そうに頷いたハルトは、もうひとつを問いかけた。

「師匠は、今が楽しい? 幸せ?」

 これも、ハルトが戻ってすぐのころ。宮廷の食堂で聞いた問いだった。

 あのとき、自分はなんと答えたのだっただろうか。いや、答えなかったのだ。自分の答えを持ち得なかったから。

 柔らかな顔に向かい、見つけた答えを告げる。たぶん、これが、宮廷に戻ろうと決めたことのほかに、もうひとつ。自分の伝えたかったことだった。

「ああ。おまえがここにいる限り」

「俺もそう。だから帰ってきたんだよ」

 にこりと瞳を細め、ハルトが続ける。軽いようにも聞こえる、いつもの調子で。

「あのね、師匠。何度でも言うけど、俺は、そういう意味で師匠のことがすごく好きだよ。それでも一緒に暮らしていいかな? ここで、師匠の隣で」

「あたりまえだろう」

 乞われるまでもなく、望んでいたことだった。

「よかった。すごくうれしい」

 安心したふうにほほえむ顔がかわいくて、エリアスも笑う。

 はじめて愛したいと願った、唯一無二。二度と会うことは叶わないはずだった相手。その彼が再び現れ、これからも自分のそばにいたいのだと言う。

 知らなかった愛は幸福と一体で、ハルトそのものみたいだった。

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