15.親愛と深愛(後編)
訓練場とこちら側を隔てる柵の手前で立ち止まる。胸ほどまでの高さの木の柵も、ここから見る風景も。昔と変わっているところは多々あれど、それでも変わらず懐かしいものだった。
「エリアス」
アルドリックに声をかけられ、訓練場の奥に目を向ける。あいかわらずの目敏さだな、と呆れ半分で感心していると、歩み寄ってきたアルドリックが柵に肘をかけた。
「魔術師殿に行っていたのか? こうと決めたら、おまえは本当に行動が早い」
「そんなところだ」
軽く笑って応じ、簡単にわけを話す。
「実際に動き始めるのは、まだ先になるだろうが。魔術師長殿に意向を伝えないことには、なにも動かないからな」
「違いない」
愉快そうに肩を揺らし、「勇者殿か」と休憩中の一団を視線で示す。
同じ年頃の団員と喋るハルトは、遠目にも楽しそうだった。独身寮でも一緒という連中だろうかと思考を馳せる。夕食時に聞いた後輩も混ざっているのかもしれない。
じっと見つめていると、アルドリックは目元を笑ませた。
「どうだ。すっかり打ち解けているだろう」
「そうみたいだな」
「勇者殿は生粋の人たらしだからな。まったく羨ましい能力だ。……いや、そう評してばかりも失礼だな。人当たり良くを心がけた結果に違いない」
「どういうことだ?」
問い返したエリアスに、アルドリックは少し驚いた顔をした。エリアスを見、それからハルトを見る。夏の風に乗ってかすかに届く、にぎやかな声。その中に、ぽつりとした声が混ざる。
「それは、まぁ、誰も自分を知らないところに放り込まれたら、よほどの阿呆か身の程知らずでない限り、好かれようと努めるだろう。好感度は自分の安全保障に直結するからな」
癖のある髪の毛をくしゃりとやり、アルドリックは続けた。
「もちろん、もともとの勇者殿の性格が人好きのするものであったことも事実だろうが、努力の面もあっただろうということだ」
さすがは勇者として召喚された子どもというべきか、頭の良い子どもだったからな。苦笑まじりの台詞に、そうか、とエリアスは頷いた。そうだったと思い出したからだ。
「いや、そうだったな。あれは、他人を気遣う子どもだった」
「一番近くにいたおまえが、誰よりも知っていたことだろう。それが頭から抜け落ちていたというのなら、今のおまえの前にいる勇者殿は、随分と気を抜いておられるのだろうな」
「そうかもしれない」
「なんだ、今日は素直じゃないか」
からりと笑ったアルドリックの視線は、ハルトたちのほうを向いている。
「まぁ、あのころのおまえも、似たようなことを言っていたがな」
「ハルトのことか?」
「そうだ。家にいるときは、あれで案外と怖がりで甘えただ、と。だから、騎士団で気を張って強いことを言っても、完全な本心と思わないでやってくれ。人の機微に敏感で、無意識に人の期待に応えようとするところがあるから、と」
そういえば、そんな知ったふうなことを言ったかもしれない。エリアスは思った。
あの当時も、今も。エリアスにとって一番身近な騎士団員はこの男だ。ハルトを送迎するアルドリックと毎日のように顔を合わすうち、気安く話すようになって、彼の人間性を信用し、心配を預けた。そんな日々も、たしかにあったのだ。
「ビルモス殿のお人形と言われたおまえがそんなことを言うと知って、俺はおまえの見方を変えたんだ。――お、勇者殿」
ようやくこちらに気がついたらしい。足を向けたハルトを、アルドリックが笑顔で迎える。肩をぽんと叩き、入れ違いに立ち去った背中に、ハルトは戸惑った声をこぼした。
「えっと……」
予期せずふたりきりとなって、困っているのだろうか。だが、ハルトはすぐに人当たりの良い態度に切り替えた。エリアスに向かい、にこりとほほえむ。
「どうしたの、師匠。このあいだも来たばかりだったのに、また来るなんて珍しい。ビルモスさまも喜んでるんじゃない?」
「そうだな」
ゆっくりと応じ、ハルトを見上げる。
――本当に、随分と大きくなったものだな。
自分の知らない、五年という月日の中で、さらに。そのエリアスの知らない年月で、ハルトは青年となり、こちらに戻ることを選んだのだ。
「師匠?」
どうかした、と問うように、黒い瞳が揺れる。かつて見下ろした瞳を見つめ、エリアスは呼びかけた。
「ハルト」
「うん。なに?」
「帰ってこい」
穏やかな表情は変わらない。だが、わずかに息を呑む音が聞こえた気がした。
無駄な移動時間と呆れたくせに、と思っているのかもしれない。騎士団の寮に入れと言った張本人のくせに、と思っているのかもしれない。
わからなかったが、エリアスは言い募った。
「俺とおまえの話をさせてくれ」
ハルトが戻った当初より、幾分も熱い風が吹き抜けていく。もう夏になった。
そのあいだ、ずっと。ハルトは、ただハルトとして自分の前にいた。それを信じずに、なにを信じるというのか。目を逸らすことなく、ハルトを見上げる。
休憩中と言えど、ハルトの背後から響く声は朗らかで、まるで平和そのものだ。あの当時のハルトが命を賭して守った、今のハルトの居場所。
その平和を尊び、繋ぎたい。そう願う意志を持つ一員である以上、自分ばかりを守るわけにはいかないのだ。そうやって決めたことを、ほかならぬハルトに聞いてほしい。そう思った。
沈黙していた黒曜がゆるみ、柔らかな笑みをかたどっていく。
「もちろん、いいよ。……っていうか、話したいって言ってたの、たぶん、俺のほうだし。だから、ぜんぜん俺はいいんだけど。師匠は本当に俺でよかったの?」
「おまえがいいんだ」
はっきりと言い切り、エリアスは小さく笑った。
「帰るのはいつでもいい。騎士団とおまえの都合もあるだろう。俺が宮廷に来る回数は増えるかもしれないが、しばらくは変わらず森の家にいるから――」
「え、なに。しばらくはって? 引っ越すの?」
「いや、まだはっきりと決めたわけではないが」
「師匠!」
自分から聞いた答えを遮り、ハルトがこちらに手を伸ばす。ぎゅっと手を握る子どものような必死さに、エリアスは瞳を瞬かせた。
「絶対、今日! 遅くなっても、絶対に家に帰るから。ほら、明日休みだし! ……だから、その、ちゃんと聞かせて。そこで」
「あ、ああ」
「約束だからね」
言い聞かせるように、ハルトの指先に力が籠もる。休憩の終わりを告げる声が響き、やんわりと指が解ける。言葉もなく、エリアスはハルトを見つめた。
ふっとした笑みを浮かべ、じゃあ、と背を向けようとしたハルトが、思い出したように視線を戻した。エリアスを呼ぶ。
「あのさ、師匠」
「なんだ?」
「なんだっていうほどじゃないんだけど、ちょっと思い出した。昔さ、よくそこで見ててくれたでしょ。ちょっと恥ずかしいこともあったけど、うれしかったなって。それだけ」
なんと返すべきだったのだろうか。悩んでいるうちに、ありがとう、と言い放ち、今度こそハルトは背を向けた。大きくなった背中を見送り、眉間に力を込める。
どういった顔をすればいいか、わからなくなったのだ。気恥ずかしさを持て余し、小さく息を吐く。訓練場の風景を、じっと見つめた。
どんな集団の中であっても、エリアスはすぐにハルトを見つけることができる。昔からだ。
つまるところ、ずっと自分の特別だったということ。すぐに泣いて、笑って。ころころと表情の変わるかわいい子どもで、誰よりも勇気のある博愛の勇者だった。
そうして、一時の養い子で、自分のことを好きだと言う馬鹿な男。エリアスは、それがかわいくて、しかたがない。
半ば開き直った心地で、ほんのしばしのあいだ、エリアスはハルトを眺めた。
夏の盛りの風が、エリアスの銀糸を揺らしていく。ハルトの国の夏の盛りは、子どもが外遊びを控えるほどの高温になるのだという。あの雑な説明で構わないから、また聞きたいと思った。
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