11.博愛と勇者(前編)

 アルドリック・ベルガーは、数少ないエリアスの友人のひとりだった。

 高名な貴族の家柄であっても、無駄に偉ぶることもなく、エリアスが孤児と知っても、公平に柔らかだった。

 こんな男であれば、ハルトも安心するに違いない。そう安堵した瞬間を、エリアスはよく覚えている。勇者の護衛係がどんな男か、気にかかっていたからだ。

 自分がハルトの世話係でなければ、繋がることもなかっただろう縁。それだけだった縁は、いつしか大切な縁になった。

 ――そう言ったところで、あいつが顔を出さなかったら、続きもしなかったのだろうが。

 自分は、ここで待っていただけ。アルドリックの好意の上で、ただ胡坐をかいていた。夜の深い台所でひとり、エリアスはそっと息を吐いた。

 こんな時間に起き出すことも、思えば随分とひさしぶりだった。

 ハルトの部屋から響く物音はなく、耳に入るのは開いた窓から届く虫の声ばかり。生活音がないと、ひとりの夜に戻った心地になる。

 ハルトが戻ってきたのは、自分に都合の良い幻なのではないか、と、そう。

「……あんなふうに言われたのは、はじめてだったかもしれないな」

 誤魔化すように、エリアスはひとりごちた。数日前に受けた、清廉とも言えるアルドリックの告白のことである。

 性欲の発散を目的に遊ぶことは多々あれど、心を通わせたいと望まれた覚えはない。そのせいか、自分には不釣り合いなほどきれいに聞こえたのだ。

 ちなみにだが、ハルトの言う「好き」は、親愛の延長線と捉えているので、ノーカウントにしている。うっかり関係を持ってしまったものの、それも当然ノーカウント。動物も寂しければ共寝をするわけで、その過程でうっかり番ってしまうことも、まぁ、なくはないだろう。

 だが、しかし。「友情の延長線にあるもの」という理屈でアルドリックと寝ることは、少し違う気がした。

 溜息を呑み込み、手に取ったグラスに水を注ぐ。また近々宮廷に赴く手筈となっていることも、うんざりとした心境を加速させていた。

 ――この手伝いも、いいかげんに蹴りをつけるべきなのだろうな。

 宮廷に戻る気がないと公言するのであれば、縁を繋ぐ必要はないだろうに。本当に未練たらしくできている。

 少し遠くで聞こえた扉の開閉音と、ぺたりとした足音。耳が拾った生活音に、振り返ることなく声をかける。

「どうした?」

 深夜に起き出すとは珍しい。大きな音を立てたつもりはなかったのだが、邪魔をしただろうか。キッチン台を背に、エリアスは振り返った。

「うるさかったか」

「ううん。そういうわけでもないけど」

 もう一歩近づき、隣に並んだハルトが静かにほほえむ。寝起きには遠い瞳に、エリアスは首を傾げた。

「眠れないことでもあったのか」

 随分と昔。ハルトがまだ自分よりも小さかったころ。いろいろと考えて眠れなくなったというハルトと、幾度も夜を過ごしたことはある。

 ふたりきりの空間で温かなものを飲みながら、ハルトの国の話をよく聞いた。幼い横顔ににじむ哀愁に、そばにいるあいだは守ってやらねばと決意を新たにしたものだった。

 今になって鑑みるに、分不相応な祈りであったのだろうが。

「……そういうわけでもないけど」

 ほんの少しの間のあとで、ハルトが苦笑を刻む。暗順応を終えたエリアスの瞳には、なにか思うところのある表情のように映った。

「師匠こそ」

「なんだ?」

「眠れないことでもあったの? なにか考えごと?」

「そういうわけでもないが」

 苦笑ひとつで、グラスに口をつける。事実、以前はよく起きていた時間だ。ハルトが来て、変わったというだけで。

 そっか、と相槌を打ったハルトが小さく笑う。

「でも、師匠は、結構、昔から、考えごとがあるとき、こういうところにいるよ」

 予想外の台詞に、エリアスは視線を隣に向けた。すっかりと大人びた横顔に、大人びた笑みが浮かぶ。

「師匠が言ったんだよ、俺に。もしかしたら、部屋から出る理由をくれただけだったのかもしれないけど。部屋でひとりで考えると、必要以上に気持ちが沈むことがある。だから、悩みごとを持って来たらいいって」

「……そうだったか?」

「そうだよ。優しいなって思ったから、よく覚えてる。たぶん、だから、俺、師匠にいろいろと話すことができるようになったんだよ」

 そうだっただろうか。思い返したものの、判然としなかった。

 あのころのエリアスは、人付き合いのなんたるかを今以上にわかっておらず、目の前の子どもを見守ることに必死で、それだけだったからだ。

「アルドリックさんのことを考えてたの?」

 黒い瞳をじっと見つめ、静かに問い返す。

「なぜ?」

「このあいだ、宮廷で話してるのを見たから」

「趣味が悪いな」

 くつくつとエリアスは笑った。考えごと云々と言い出したあたりで、思うところの見当はついていた。わざわざ驚くことでもない。

「だって」

 バツの悪い顔で、ハルトが唇を尖らせた。

「いや、その、覗き見したかったわけじゃなくて、声をかけづらかったっていうか」

「かければいいだろう。聞かれたくない話だったら場所を選ぶ」

「でも」

 言い募ったところで、迷うように目を伏せる。珍しい態度だな、と思った。

 だが、仮に、ハルトがあの場面を見たとして、なにか会話を漏れ聞いたとして、なんだと言うのだろう、とも思う。

 馬鹿の一つ覚えのように、ハルトは自分のことを好きだと言う。スキンシップもいささか過剰で、むず痒くなるような台詞を囁くこともある。けれど、それだけだ。

 身体を重ねたのは一度きり、それ以降「したい」と言い出すこともない。一度したことで満足したのか、男の身体はこんなものと熱が冷めたのか。

 ハルトの真意は定かでないにせよ、自分たちの関係に名前がないことはたしかだった。

「師匠は、アルドリックさんのことが好きなの?」

「……なんでだ」

 勿体ぶった沈黙を挟んだあとに、聞くべき質問がそれなのか。余計なことを考えていたことも相まって、エリアスの声は地を這った。そうだというのに、ハルトに堪えた様子はない。

「だって、師匠とアルドリックさんは仲も良いし。この家にもアルドリックさんのものはいっぱいあるし」

「だったら、なんだ」

 開き直った調子で重ねられ、うんざりと頭を振る。仲が良いだとか、好きだとか。子どものようなことを拗ねたそぶりで問われても、返すことのできる言葉はない。

「だったら、なんだって。だって……」

「だって?」

 促してやったものの、ハルトはまたしても言葉を噛んでしまった。

 言いにくいのであれば、はじめから言わない選択肢を取ればいいだろうに。グラスをシンクに置き、エリアスは溜息を呑み込んだ。

 ――ハルトもハルトだ。しつこくする話でもないだろうに。

 ハルトの話を聞くこと自体は嫌いではない。気になったことを素直に尋ねる心根も、かわいく思っている。だが、これはそういったものとはまた違うだろう。

 とは言え、おまえには関係のない話と断じれば、拗ねるに決まっている。つらつらと考えていると、ハルトがようやく口火を切った。

「個人の自由だってわかってるけど。師匠も、アルドリックさんも、結婚していてもおかしくない年なのに、そういう噂がまったくないって聞いた」

 本当に個人の自由だな。呆れたものの、エリアスは言わなかった。

「結婚する気があるなら、そういう噂のひとつやふたつあるはずで、でも、ふたり揃ってまったくないって」

 呑み込むことをやめて、ひとつ溜息をこぼす。「妻帯者を妄言に巻き込むな」と言ったのは自分だが、だからと言って、独身者を妄言に詰め込んでいいわけがないだろう。

「おまえが言ったとおりで、結婚をするもしないも個人の自由だ。女を好きだろうと、男を好きだろうとな。勝手に噂をする人間が宮廷に多いことも否定しないが、いちいち首を突っ込むな」

「それはそうだと思うけど、でも」

 そうだと思うなら、それでいいだろうに。発展性のないやりとりに嫌気が差し、銀色の髪を掻きやる。食い下がるハルトの態度に、わずかながら苛立ったのだ。

 自分とアルドリックのあいだの話に、無遠慮に首を突っ込まれる謂れはない。まして、宮廷のくだらない噂を盾にしてなど論外だ。だが、それ以上に。

「そもそも、おまえは向こうに帰るだろう」

 自分たちの関係に名前はない。ハルトはいつか向こうに戻る。

 そうであるのだから、自分にも関係があるような顔を、嫉妬をしていると勘違いしそうになるようなことを、言わないでほしかった。

「それ、本気で言ってる?」

 エリアスの感情を反射したように、ハルトの声に苛立ちが混じる。その声音に、言うつもりのなかったことを言葉にしたと気がついた。

 言えば、ハルトが拗ねるから、面度なことになるから。理由を取ってつけて、胸の奥に押し込んでいたもの。身体ごとエリアスのほうを向き、囲うようにハルトの両の手が台の縁を掴む。

「本当にそう思ってるの? 俺が戻ったのは一時の気まぐれで、また向こうに帰るって」

「おまえは向こうの人間だろう」

 諦めて、エリアスは認めた。ビルモスは、ハルトを安易に戻すべきでないと言った。だが、あと一度と誓えば、認める公算はある。ハルトが異分子であることに変わりはないからだ。異分子がないほうが世界は安定する。それは間違いがない。

 だから、あってほしくないイレギュラーだ、と。あの男は評したのだ。

「おまえがなにを思ってこちらに来たかは知らないが、向こうに戻るべきだ」

「知らないって、俺、言ったよね。師匠に会いたかったから来たって。ずっといるって」

「七年前、無理やり連れてきたことは悪かった」

 話が噛み合っていないと感じたのは、お互いさまに違いない。

 至近距離で見上げる黒い瞳には、らしくない感情が渦巻いていた。腹立ち、焦燥、悔しさ。いずれも、目の前の子どもに似合わないもの。

 黙ったままでいると、ハルトがそっと息を吐いた。

「それはもういいよ、師匠に謝ってもらうことじゃない」

「だが」

「師匠」

 反論を防ぐように、ハルトが遮る。

「たしかに、七年前、ここに呼ばれたのは俺の意志じゃなかった。でも、魔王を倒したのも、ここに戻ったのも、ぜんぶ俺の意志だよ」

「……」

「そうじゃなきゃ、命なんて懸けられない」

 だが、と否定を重ねることは憚られた。視線を迷わせたエリアスを見つめ、ハルトが言う。

「だから、俺が命を懸けて倒した物語を、巻き込まれた不幸な子どもの話にしないで。師匠と暮らして未来を選んだ俺の話にして。そうじゃないと、無理だ」

 言葉もなにも出なかった。出るはずもない。

 疲れた溜息をこぼし、ハルトはエリアスの肩に額を押しつけた。習い性で背中に回そうとした腕が、中途半端な位置で止まる。そんなことをする資格はないと思ったのだ。

「ごめん」

 所在なく腕を下ろしたままでいると、耳元で絞り出すような謝罪が響いた。上がったハルトの顔はいつもどおりで、エリアスは見上げることしかできなかった。台から手が離れていく。

「ちょっと、頭冷やすよ。この話は今日は終わりにしよう」

「そうだな」

 どうにか応じたエリアスに、ハルトが笑う。気遣いにあふれる微笑だった。

 エリアスは、この笑顔が苦手だった。外で見るたびに胸が苦しく、せめて家では自由でいてほしいと願った。だが、それも分不相応だったのだ。その顔で、ハルトは続ける。

「頭冷やすついでにさ。せっかくだから、一回、騎士団の寮に入れてもらうことにするよ」

「騎士団の?」

「そう。師匠も入ったらどうだって言ってたでしょ。たしかに、こっちに来てから師匠にずっと面倒見てもらってたからさ。一回くらい自立? してみてもいいのかなって」

 突っ込みどころのない台詞を並べ、にこりと笑う。

「ほら、俺、すぐに帰るでしょ? 付き合いが悪いって言われることも多くてさ。寮に空きがあるっていう話も聞いてるし。ちょうどいいかなって」

「……そうか」

 エリアスは、もう一段ぎこちなく頷いた。ハルトの言うことは、なにも間違っていない。承知しているのに、罪悪感が疼いた。これは、なにに由来した感情なのだろうか。

「うん」

 一線を引いた態度で、ハルトは頷き返した。視線を落としたエリアスに対し、挨拶だけを向ける。

「おやすみ」

 それが最後だった。静かに閉まったドアの音に、足元を見つめたまま呟く。内側に収めておくことができなかったのだ。

「……すべて、おまえの意志であるわけがないだろうが」

 ハルトの意志がまったく介在しなかったとは言わない。そばで見ていたのだ。そのくらいのことはわかる。だが、大本の原因は自分たちの側にあり、生き抜くためにハルトは選ばざるを得なかったのだ。どうしてそれをすべて意志と言えようか。

 自分たちが、自分たちの都合で召喚した勇者。堪え損ねた悔恨が、夜に溶け落ちていく。

 この国を救った、選ばれし勇者。この国の希望に応えざるを得なかった、かわいそうな子ども。だからこそ、すべてが終わったあとは、平和な国で幸せになってほしいと願った。

 それが、エリアスのすべてだった。

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