12.博愛と勇者(後編)
「俺、勇者殿じゃないよ。ハルト。だから、ハルトって呼んで。それにお兄さんのほうが年上でしょ。その喋り方もやめてほしいんだけど」
落ち着かない。そう訴えて眉を下げた子どもは、本当に困っているように見えた。十三という年よりも幼く感じる容貌を見下ろし、思考を巡らせる。
おそらくではあるものの、この子どもは、豊かな国に生まれ、愛されて育ったのだろう。十三の年のエリアスに、会ったばかりの他人に、素直な瞳を向ける発想はなかった。そんな子どもが、縁もゆかりもない国を救う勇者になる。
伝説の勇者の召喚に成功し、宮廷の関係者は安堵に湧いていた。だが、エリアスは、心のどこかで気の毒の話と思っていた。だから、了承を返すことに決めたのだ。
当時の自分が住んでいた、宮廷にほど近い官舎の一室。これからしばらく一緒に暮らすということで、改めて自分の名前を告げたときのことだった。
「承知しました。では、ハルト」
「ありがとう」
なぜか自分を世話係に指名した子どもが、ほっと表情をゆるめる。そうしてから、今度は悩むように眉を寄せた。先ほどの予想を裏打ちする、平和な表情の豊かさ。
「お兄さんのことはなんて呼んだらいい?」
予想外の問いだった。ほんのわずか悩んだものの、求められたざっくばらんとした口調で「好きに呼べばいい」と応じる。事実、なんでもよかったからだ。
エリアスの返事に、子どもがまた悩むそぶりを見せる。見守っていると、「そうだな」とひとりごちる調子で呟き、彼はひとつ頷いた。うつむいていた視線が上がる。
「じゃあ、師匠」
「師匠?」
「駄目だった?」
困惑をにじませた反応に、子どもが首を傾げる。不安げな黒い瞳が居た堪れず、エリアスは否定を紡いだ。
「駄目というわけではない。ただ、あなたに勇者としての道理を教えるのは騎士団だ。俺が教えることはなにもない。……いや、この国の基本的なことは教えるよう言われているが」
だが、それも、言語が通じている時点で、そこまで重要ではないと思われた。現に、エリアスは、彼の言動に大きな違和感は抱いていない。きっと、頭も良いのだろう。
「なんだ。じゃあ、嫌なわけじゃないんだよね」
「嫌なわけではない」
むず痒くはあるし、そんな呼称をされる器ではないと思っているが。濁した後半に、子どもは気がつかなかったようだった。
「嫌じゃないなら、そう呼びたいな。エリアスさんっていうのも、なんか他人行儀だし」
他人行儀でも問題はないのでないか。疑問を覚えたものの、エリアスは言わなかった。よほどのことでない限りは希望を叶えよ、との命も受けている。
「それに、まだ十九才なんでしょ? 俺とたいして変わらないし。だったら、先生っていうのも違うし、でも、先輩とか、お兄さんって呼びたい気分でもないし」
「気分」
「あと、なんだろ。うまく言えないんだけど、俺が選んだ俺の世界の言葉だから」
できたら、そう呼びたいなって。子どもは笑顔で繰り返した。自分の世界と繋がっている気がするから、と。
うまく言えないという言葉のとおり、子どもの真意はエリアスにはわからなかった。
どこにでもある呼称で、この世界にもある呼称だったからだ。だが、「自分の世界と繋がっている気がする」という言葉の響きは重かった。
問答無用で召喚され、右も左もわからず混乱しているだろうに。自分に向けるにこりとした笑顔も、使う言葉も、あまりにも幼く、そうして、どうしようもなく健気だった。
だから、この家にいるあいだくらいは守ってやろうと決めたのだ。外に一歩出れば、この子どもには使命がある。ほかの誰にも果たすことのできない、勇者の使命だ。そのサポートをすることは、この国に生きる者の義務と言ってもいいだろう。
そう、最初はたしかに憐みだった。勇者と聞いて想像したよりも、ハルトが幼かったことも要因のひとつだ。だが、それだけではない。自分の前でのみ弱音を吐き、必死に外で期待に応えようとする。その姿がひどく不憫に見えたのだ。ささやかな我儘を叶えるくらい、なんでもないと思う程度には。
そうして始まったハルトとの生活は、エリアスの予想を裏切り、いたく穏やかだった。もちろん、ぶつかったこともあれば、癇癪をぶつけられたこともある。
だが、ビルモスに報告したとおり、ハルトは人の機微に聡い、頭の良い子どもだった。おまけに、この世界のよすがを自分に定めたとばかりにエリアスに懐き、信頼を預けるようになった。
そんな子どもに、情を抱かないほうがおかしい。好意を寄せられたから、好意を返す。なんて利己的な愛だったのだろう。けれど、愛だったことは事実だった。
愛だのなんだの、と。大層な感情を抱いた覚えはほとんどない。そんな暇もなく、生きてきたからだ。だから、これが唯一と言っていい例外だった。
とは言え、ハルトに向ける愛は、肉欲を伴うものではなかった。当然と言えば、当然のことである。幼気な存在に対する庇護愛。あるいは、烏滸がましい表現ではあるものの、家族愛のような、そういった柔らかなもの。
ハルトとの日々を通じ、エリアスは温かな感情を知った。
慣れないなりに優しさを注いだ理由は、恩返しのようなものだったのだろうと思う。うまくできていたかどうかは定かでない。けれど、ただ、手放しがたく、大切だった。
ビルモスの言うとおりだ、と。一年を過ぎたころには、エリアスは思い知っていた。ハルトは、本当に博愛の勇者だったのだ。
また一年、日々が過ぎ。エリアスの腕の中の平穏と裏腹に、王都近郊でも魔獣の被害は頻発するようになっていた。力をつけた魔獣が増え、討伐が追いつかなくなっていたのだ。
エリアスが任務中につまらない傷を負ったのも、そのころのことである。頭部だったせいで目立つ程度のものだったが、包帯の表面に血がにじんでいたらしい。
宮廷の廊下を進むたび、ぎょっと視線を送られる事態になってしまった。辟易としていたエリアスは、遭遇したビルモスに笑われたことで、とうとう口を曲げた。
「おやおや、随分と派手な怪我をして。あのあたりは、まだ魔獣が少ない認識でいたのだが。予想外のできごとでもあったかな」
「……子どもがいた」
たいした怪我ではないと承知で問うているのだから、意地が悪い。とは言え、相手は上司である。エリアスは端的に報告した。
「詳しくは報告書に書くが、街に大きな被害はない。魔獣も滅した」
「なるほど、子ども。きみもようやく宮廷の人間らしくなったということだね」
興味深そうに頷いたビルモスが、「これも勇者殿の影響というやつかな」と知ったふうなことを言う。
たしかに、ビルモスと出会ったころの自分であれば、子どもを庇って初動が遅れるという事態は招かなかっただろう。けれど、自分の失態であることに違いはない。
沈黙を選んだエリアスを見やり、ビルモスは顎を撫でた。
「それにしても、あのあたりにも出没するようになっているとはね。騎士団と協議して、見回りの増員をかけたほうがよさそうだ」
「今日の時点では、群れの痕跡はなかったが」
「今後もそうとは限らないだろう。すまないが、先に詳しく聞かせてもらってもいいかな。ただでさえ、騎士団の討伐の遅れを指摘されているんだ」
「構わない」
どうにも目立つようなので、包帯を替えてから報告に向かうつもりでいたものの、ビルモスは多忙を極める身だ。今が都合が良いらしいと踏み、エリアスは了承を返した。
執務室で話を聞くと言うので、並んで廊下を歩く。すれ違いざまに職員に視線を寄こされ、眉をひそめたエリアスを、ビルモスはやんわりと窘めた。
「場所のせいもあるが、きみの髪は血が目立つからね。視線が集まるのもしかたがない。気にかけてもらっていると思って諦めなさい」
「心配というより、興味本位だろう」
「人をそう悪く言うものではないよ。純粋に心配する者もいるだろうに。かく言う僕もどんな大怪我かと驚いた」
「冗談は休み休み言ってくれ」
心配をされたかったわけでもないが、まったくそんな顔はしていなかっただろう。呆れ半分で言い切れば、ビルモスは心外そうな笑みをこぼした。
「本心に決まっているじゃないか。本心ついでに言っておくが、報告が済んだら今日は終いにしなさい。場所が場所だからね。もちろん、包帯を変えるだけでなく、きちんと診てもらっておくように」
「……本当にたいしたことはないのだが」
「きみのたいしたことはないはあまり信用できないからね。その傷にしても、一歩間違えば命が危うかったかもしれない」
やけに大袈裟なことを言う。訝しんだものの、エリアスは反論を呑み込んだ。自分の失態であることに変わりはなく、余計な説教を聞きたくなかったからだ。
「わかった、わかった。せいぜい次も死なないように気をつけよう」
おざなりに告げ、執務室のドアを開けた瞬間。胸にぼすりと飛び込んだなにかに、エリアスはたたらを踏みかけた。「いきなり飛び出すな」と言うつもりだった文句は、絡んだ視線で立ち消える。ハルトだったからだ。
「師匠? 師匠、どうしたの、それ!」
「ハルト」
ドアを開ける前から、自分たちの声が聞こえていたのだろうか。宥めようと背中に手を回したものの、ハルトの視線は顔から動かない。青い顔の理由は想像に難くなかった。
「魔獣? どこでやられたの?」
「王都の隣町だよ。そんなところまで魔獣が出没するようになっていたらしい」
返答に悩んだエリアスに代わり、淡々とビルモスが応じる。
「すまなかったね、勇者殿。きみと約束したとおり、エリアスを危険な場所に行かせるつもりはなかったのだが、騎士団の想定以上に魔獣の出没範囲は広がっていたらしい」
「出没範囲が……」
呟いたきり、ハルトは黙り込んだ。エリアスばかりを見つめていた黒曜石の瞳が揺れ、下を向く。温かな背中に触れているというのに、自分の手は驚くほど冷たかった。目まぐるしく思考が動いていく。
ビルモスが言ったとおり、昔の自分であれば庇わなかっただろう。だが、今の自分は幼い者を庇護する必要性を知っていた。加えて、宮廷の人間としての義務も理解していた。
けれど、問題はそこではない。ハルトがここにいたことも問題ではない。ハルトがビルモスと話す機会があることに不思議はなく、ビルモスを執務室で待っていたことも不思議はない。
だが。だが、ビルモスは、ハルトがここにいると知っていたはずだ。それなのに、なぜ、詳しい話を聞きたいと言い、執務室に近づいたタイミングであんな話をした。
最後に浮かんだのは、ハルトが来たばかりのころに聞いたビルモスの言だった。
――縁もゆかりもない場所に召喚された彼を気の毒と思うなら、きみがこの世界の彼のよすがになればいい。
自分がそんな大層な存在になるなど、できるはずもない。
素直に吐露したエリアスの肩を抱き、言い諭す調子でビルモスは囁いた。その声を、当時のエリアスはそれなり以上に信じていた。引き上げてくれた恩人で、仕事の場を離れても気にかけてくれる唯一だったからだ。
――なに、問題はない。きみはあの場にいた誰よりも、よすがのない辛さを知っているだろう。それに、きみを選んだのは彼だ。難しいことはなにもないよ。
ほかならぬビルモスが言うのであれば、ビルモスのためにも応えようと思った。もちろん、ハルトのためでもあった。けれど、それだけではなかった。それなのに。憚られたのだとようやく気がついた。
ハルトを抱き寄せたまま、ビルモスを睨む。言葉にこそしなかったが、正確に伝わったはずだ。ビルモスは、眼鏡の奥の瞳を柔らかに笑ませただけだった。
言い訳をする気はないのだ、と。エリアスは悟った。ビルモスを責めたところで、どうにもならないということも。
きっかけがなにであれ、怪我をしたことは自分の落ち度だ。経緯がどうであれ、ハルトに血に染まった顔を見せたことも自分の落ち度だ。
たいした怪我ではない。自分のミスだったのだ。もう同じようなことにはならない。
どれほどエリアスが伝えても、ハルトは頷かなかった。もっともらしく心配そうな顔をしたビルモスを信じた。
「師匠じゃなかったら、もっとひどいことになってたかもしれないって。ビルモスさまは言ってたよ。魔王を倒さない限りは、こういうことはずっと増えるって」
それは、まぁ、自分より弱い者であれば、よりひどいことになった可能性はあり、魔王を倒さない限り、魔獣の力が弱まらないことも事実だった。本当に嫌な言い方をする男である。
そう思ったからこそ、そんなことはない、というエリアスの言い分は説得力を持ち得なかったのだろう。
俺は行くよ、と宣言したハルトを止めることはできなかった。否、自分はもとより止める立場になかったのだ。
宮廷の下っ端の、良いように利用されるだけの駒のひとつ。力をつけて大人になったつもりで、優秀になって発言力を持ったつもりで、すべてつもりだけだった。
無理をして魔王退治に行くことはない。おまえがこの国の命運を担う必要はない。ついこのあいだもやっぱり怖いとこぼしていただろう。言いたい言葉が、すべて喉の奥で潰えていく。
言ったところで意味はなく、自分のエゴでしかないとわかったからだ。
自分にできたことはただひとつ。安全な場所から勇者の無事を祈るという、些細でくだらないことだった。
「ねぇ、師匠。俺、帰れるのはうれしいけど、やっぱり、ちょっと寂しいよ。ここに残りたい気持ちもある。だって――」
寂しいと言いながらも、ハルトの瞳にはじめて会ったころの不安はない。
たった二年ですっかりと大人になったのだ。子どもの成長とは、本当に早いものだな。場違いに感心したところで、エリアスの胸はふっと冷えた。
違う、と気がついたからだ。大人になったのではない。大人にならざるを得ない環境に、自分たちがハルトを叩き込んだからだ。
その自分に、なにを言う資格がある。宮廷のホールをふたり抜け出した中庭で、エリアスは黙り込んだ。ホールからは変わらずにぎやかな声が響いている。勇者が見事魔王を倒したことを祝う宴。宮廷だけではない。喜びは王都中に満ちていた。
これでもう、魔獣に怯える夜はなくなったのだ、と。勇者が魔王を倒した恩恵を、疑問を抱くことなく享受し、勇者に感謝を捧ぐ。
勇者が、無理やり召喚された、魔王退治の贄のような存在だったと知りながら。
なにかに耐えるように、ハルトはたびたびエリアスの背に額を押し当てていた。ぺらぺらとよく喋る口を噤み、エリアスの銀色の髪に戯れるように触れ、目を閉じて。
振り払いこそしなかったものの、エリアスはなにを言うこともしなかった。ハルトの目を見ることができず、唇を噛み締める。血の味がした。
なにかなどであるものか。理不尽に故郷を奪われた寂しさであり、勝手に与えられた重責に対する重荷であり。魔王退治という脅威に対する、正しい恐れであったはずだ。すべて、この子どもが覚える必要などなかったもの。
本当に、なにもかも自分は気がつくことが遅すぎる。
「師匠?」
うつむいたエリアスに、柔らかな声がかかる。とてもではないが、顔を上げて、黒曜を見ることはできなかった。代わりに、静かに告げる。
少しどころではなく寂しい、など。残りたい気持ちがあるのなら残ってほしい、など。言えるわけがなかった。
「帰れ。おまえは十二分に勇者の役目を果たしてくれた。おまえは元いた世界で幸せになってくれ。この世界であったことは、すべて忘れろ」
俺はもういい。そう思ったから、エリアスは宮廷の職を辞した。次に新たな魔王が現れたとき、勇者を召喚したくなかったからだ。自分だけ安全圏に逃げたのだ。
自分の関与せぬところであれば、知らないことになる。お為ごかしの理論で、現実から背を向けた。そんな弱くて卑怯な人間を、どうしてあいつは好きだと言うのだろう。
本当に、なにが蜘蛛の糸だ。地獄に突き落としこそすれ、引き上げたことなど自分は一度もなかったはずなのに。
むしろ、ハルトが特別視すべき相手は、ビルモスではないだろうか。
自分は感情的なことを言っただけで、なにも成し得ることはなかった。元の世界に戻ることは不可能という常識を覆し、この子どもを召喚した責任を取ったのはビルモスだ。自分ではない。
数日後。ハルトのいなくなった世界に立つエリアスの心は、がらんどうとしていた。
だが、これが正しいのだ。この世界に、もともとあの子どもはいなかったのだから。自分の心は、もともと誰かを正しく愛するようにできていなかったのだから。
それがたまたま異世界からやってきた勇者によって、動いただけだったのだ。その勇者がいなくなったから、もとどおりの空っぽに戻った。それだけのこと。
宮廷の喧騒から遠く離れた森の家の前で、青い空を見上げる。
この空も続いていない、どこか、どこか、果てしなく遠い場所。顔を合わせることは二度となくとも、幸せになってほしいと心から望んだ。
その祈りが愛だとは、エリアスは知らなかったのだ。
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