10.移ろいゆくもの(後編)
ハルトにとって、公平ではない。そう諭したビルモスの台詞は、エリアスの胸にぴたりと張りつき、剥がすことは叶いそうになかった。
おまえが言うのかと詰ることができない程度には恩もある。憂鬱を隠し、宮廷の中庭を歩いていると、自分を呼ぶ声が響いた。
「待ってくれ、エリアス」
声だけではなく追いかけてくる気配に足を止め、振り返る。
「エミール」
エミール・クラウゼ。魔術学院時代の同期であり、宮廷に勤めて以降も同僚として切磋琢磨とした男である。数少ない気安い相手であったことは事実だが、それも過去のこと。呼び止められた理由がわからず、エリアスは内心で首をひねった。
職を辞してから、没交流となっていたのである。自分の唐突な辞職に、生真面目なエミールが不服を抱いていると承知で説明をしなかったのはエリアスだ。背景がある以上、距離を置かれた現状は当然と捉えていたのだが。
「どうかしたのか?」
呼び止めたきり言葉を発しないエミールに、しかたなく問いかける。
人のことを言えた義理はないが、なかなかどうして不器用な男なのだ。重ねての問いかけはせず返答を待つ。しばらくを経て、エミールはようやく踏ん切りをつけたようだった。
「いや、その、……少し前の話になるが、勇者殿が戻られただろう」
「ああ、そうだな」
「だからということではないのだが、おまえは宮廷に戻るつもりはないのか」
神妙なまなざしを、エリアスはじっと見上げた。
ハルトの帰還と自分の復職を、どうしてセットで扱いたがるのか。そもそもの話だが、エリアスは辞職をしたのであって休職をしたわけではない。
エミールに他意はないとわかっていても、妙にもやもやとした心地だった。あまり広く認知されたい見解でもない。屈託を封じ、エリアスははっきりと否定を返した。
「俺に戻る意思もないが、空きもないだろう」
「そんなことはない。現にビルモスさまは仕事を回しているではないか」
「いいように使われているだけだ」
事実である。かつて見出した駒のひとつとして、まだ手元に置いておく価値があると判断しているという、ただそれだけのこと。つまるところ、ビルモスの職権乱用だ。
――だから、余計なことを言う人間が後を絶たないのだろうな。
自分が言われるだけであれば構わない。だが、ハルトの耳に入ることは避けたかった。あれはすぐ気を回すようにできている。溜息を呑み、改めて告げる。
「とにかく。魔術師長殿がなにを言っているかは存じないが、俺に戻る意思はない。余計な噂を立てている連中がいるのであれば、否定してくれるとありがたいのだが……」
「エリアス」
言葉を遮り、伸びた指が自身の腕を掴む。迫った藍色に辟易とし、エリアスはそっと視線を外した。
宮廷魔術師のローブを羽織ることは誇りであり、成功の証でもあった。幼い自分はたしかにそれに憧れた。だが、今の自分は、同じ価値を見出すことができない。戻る意志がないという理由は、単純に言えばそういうことだった。
しかし、どう伝えたものだろうな。うつむいたままエリアスは言葉に悩んだ。
エミールは気性の穏やかな男だ。ただ、あのビルモスをして「優秀な良い子に違いないが、きみ以上に融通が利かないところがあるね、彼は」と苦笑いを刻ませる男でもあった。
余計なことを言えば、煩わせてしまうに違いない。どうしたものかと迷っていると、また声がかかった。聞き慣れた声に、ぱっと顔を上げる。
「少しいいか、エリアス。勇者殿のことなんだが」
「アルドリック」
朗らかな態度はわざとらしいほどで、揉めていると案じたのかもしれない。思い至ったものの、エリアスが弁明するよりも、腕を掴んでいた指先が離れるほうが早かった。
感情的になった自分を恥じる瞳に、エミール、と呼びかける。だが、彼は冷静な表情をきれいに繕った。
「引き留めてすまない。勇者殿の話であれば、こちらの話はまた今度に」
「ああ」
「アルドリック殿も。それでは」
一礼を残し立ち去った背中は、エミールの気質を表すようにぴんとまっすぐに伸びている。その背中を見送ると、アルドリックは苦笑まじりに口を開いた。
「あいかわらず、彼はきっちりとしているな。おまえと親しくしていることが少し意外なくらいだ」
「言ってくれる」
似た苦笑を返し、エリアスは言い足した。
「喋ったのはひさしぶりだったが。勧誘されていたんだ」
「なるほど、勧誘か」
ひとつ頷いたアルドリックが、改めてというふうにこちらを見る。
「ひさしぶりだな、エリアス」
「そういえば、最近はあまり家に来ていなかったな。忙しいのか? ハルトと顔を合わせた日が最後だったか」
自分で言いながら、随分と間隔が空いていたことに驚いた。
ハルトと暮らし始め、なにかと忙しくしていたせいだろうか。アルドリックの来訪が減った事実に気がついていなかったのだ。
「いや、……まぁ、忙しくなかったわけでもないが。勇者殿もおられるからな」
「ハルトは喜ぶと思うが」
どこか困ったふうに笑い、アルドリックは指摘を受け流した。
「そうであればありがたいが。それはそうと、エリアス。俺は勧誘の邪魔をしてしまっただろうか」
「いや」
さらりと戻った話題に、小さく頭を振る。
「応じる気がなかったからな。入ってくれて助かった」
「それならよかった。まぁ、もちろん、おまえが戻るというのであれば、歓迎するが」
「ハルトのことは口実か?」
今度はこちらが話を変える番だった。
まぁ、九割九分口実だったと思うが。時間を気にするそぶりがないことが良い証拠である。なにかしらの報告を終えた帰途で自分たちを見かけ、気を回したのだろう。
まったくあいかわらず人がいい。予想どおり、アルドリックが肩をすくめる。
「口実だ。勇者殿はうまくやってるよ。騎士団にもあっというまに馴染んでしまったしな」
「気にかけてくれているんだろう? ハルトがそう言って感謝していた」
「あいかわらず、人を素直に褒めるな、勇者殿は。そういうところが団長たちにかわいがられる所以なのだろうが」
「そうだろうな」
同意を示し、エリアスは瞳を細めた。エリアス自身、何度もハルトの素直さに癒され、絆されてきた。
身体を許したことは絆されすぎだったと反省しているが。そういったことがあっても関係が拗れていないことも含め、ハルトらしいというやつなのかもしれない。
夏の風に煽られた銀色の髪を耳にかけ、それにしても、と青い空を見上げる。
――魔術師殿の中だけであればともかく、騎士団のほうでまで好き勝手に言われていないといいが。
あのエミールが思い詰めた顔で問い質しに来るくらいだ。余計な憶測を絡めた噂が広がっている公算が高い。確認しておこうかと視線を巡らせたところで、髪に触れる指に気がついた。アルドリックのものだ。
「魔術師はみなきれいな長い髪をしているが、エリアスの髪が一等きれいに見えるな」
胡乱な面持ちになったエリアスの目前で、指の隙間から銀糸が流れていく。
魔術師のたしなみとして気をつけているものの、自分が一番ということはないだろう。エリアスは首を傾げた。霞がかった空に似た、エミールの淡い水色は素直に美しいと思うが。
ハルトも蜘蛛の糸だのなんだのと表現していたが、アルドリックはアルドリックでよくわからないことを言う。
「エミールのほうが、よほどきれいではないか?」
「なに。俺はそう思うというだけの話だ」
「なぜ?」
「なぜ、と来たか」
純粋な疑問に、アルドリックは愉快そうに喉を鳴らした。
「単純な話だ」
「単純な話」
「俺がおまえを気に入っているからという話だ。主観が入って一等になる。魔力は髪に宿ると聞くが、おまえの魔力は随分と高級なのだろうな」
見えないことが惜しいくらいだ。そう続いたアルドリックの声には、冗談と言い切ることのできないなにかが潜んでいる気がした。
考えるように、組んだ腕に視線を落とす。自分の捉え違いであれば、なかなかに自意識過剰な話だ。だが、そういう意味なのだろうか。わからないまま、顔を上げる。
「アルドリック」
「なんだ?」
応じる声は至っていつもどおりで、エリアスも努めて変わらぬ声を出した。
「俺はおまえのことを友人と思っている」
「ありがたい話だ。もちろん、俺もそう思っている。だが、それ以上の感情も持っているんだ」
「……」
「すまない。言うつもりはなかったんだが。遊び相手になりたかったわけではないし、気まずくなりたかったわけでもない」
ならば、なぜ、という八つ当たりに似た感情が漏れ出たに違いない。アルドリックは弱ったふうな苦笑を見せた。自分のことばかりのエリアスとは異なる、気遣いに満ちたそれ。
「勇者殿に感化されたのかもしれないな。おまえには面倒な話だろうが」
「面倒というわけではない」
「そうか」
「だが、よくわからない」
他責を脇に置けば、「よくわからない」という言葉しか残らなかった。
いい年をしてなにを言っているのかと呆れる気持ちもある。けれど、本当に理解できなかったのだ。自分のことを好きだという理由も、どう受け止めるべきかという答えも。
あるいは、身体の関係を望まれたのであれば、悩まなかっただろうが。アルドリックの言うこれは、肉欲でなく精神的に繋がりたいという話だ。
最低限の理解は叶ったからこそ、軽率に応じることができなかったとも言える。匙を投げられて当然という覚悟はあったのに、アルドリックの返事はあっさりとしていた。
「そうか。俺もそれはべつに構わない」
「アルドリック」
「素直に答えてくれているとわかるからな」
言葉に詰まったエリアスに、アルドリックは同じ調子で笑いかけた。
「もしよければ、少し考えてみてくれるとうれしい。それだけだ」
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