9.移ろいゆくもの(前編)
「今回も助かったよ、エリアス。わざわざ足を運んでもらってすまなかったね」
確認を終えた書類を机に置き、ビルモスが労わる笑みを浮かべる。
朝の早いビルモスの執務室に、ほかの宮廷職員の姿はない。尋ねるにはちょうどいいタイミングだった。
「それにしても、勇者殿は元気だね。きみの家と王都の往復は骨が折れるだろうに。きみもそれに付き合ったから、こんなに早く着いたわけだろう」
「まぁ、そうだが」
「本当にこの時間に来るとは思わなかったから、少し驚いたよ。手紙で聞いたものの、半信半疑だったんだ」
きみ、いつも余計な話をできない忙しい時間帯を狙って来るだろう。苦笑まじりの指摘を交わし、前半部分をエリアスは拾った。話したいことがあると読まれているに違いない。
「あいつの国では、そう不思議なことではないらしい」
無駄な移動時間との認識に変わりはないが、ハルトいわく「普通のこと」なのだとか。なんでも、「交通手段がめちゃくちゃ発達」しているらしい。
だが、それは、あくまでもハルトの国の事情である。とつとつとした説明の最後に、エリアスは自分の感想を言い足した。
「一緒に行こうとうるさかったから朝から馬車に揺られたが、よくあんなもので毎日往復できると驚いた。俺ならすぐに音を上げる」
「きみはそうかもしれないね」
エリアスの堪え性のなさを笑い、ビルモスは軽く肩をすくめた。
「勇者殿の国には、もっと楽な移動手段があるのだろう。勇者殿の話を聞く限り、彼の国はいかにも平和で発展している印象がある」
「おそらくは」
「少し見てみたい気もするよ。荒唐無稽でいかにも楽しそうだからね」
想像でしか知ることのできない、ハルトの国。楽しげに頷くビルモスを見つめ、エリアスは呟いた。
「良い国なのだろう」
廊下に面した窓の向こうから、宮廷職員のかすかな話し声が響いている。逼迫した気配の微塵もない、長閑な空気。
魔王が滅び、五年もの月日が流れたのだ。平和は当然であるのだろう。あの当時は、魔獣による被害報告がひっきりなしに上がっていた。
「あれほど素直に子どもが育つ国だ。平和で豊かだったのだろう。戻りたいと言って、よく泣いていたからな」
「昔の話だろう。それとも、きみの中の勇者殿は子どものままなのか? たまに宮廷で見かけるが、彼はいつも楽しそうだ」
安心すればいいといった言い方だった。そうかもしれないと考えることもできる。だが、エリアスは、外で人一倍気を張って、家で泣いた子どもを知っている。
――だから、すべて忘れろと言ったつもりだったのだがな。
あのとき、たしかに。同意したからこそ、ハルトもニホンに戻ったのだと思っていた。そのはずなのに、なぜ、こちらに戻ろうと思い立ったのか。エリアスにはまったく理解ができなかった。ハルトの言う、「自分に逢いたかった」という理由も含めて。
「ビルモス」
息を吐き、静かに呼びかける。
「ひとつ聞きたい」
「構わないが。勇者殿のことかな?」
「そうだ」
善良そうな笑顔を前に、一度言葉を切った。もっと早くに確認すべきであったのに、できていなかったこと。エリアスは慎重に投げかけた。
「ハルトが戻ってきた原因は、あなたにあるだろう」
「それはまた随分と作為的な言い方だね、エリアス」
困ったふうな言葉と裏腹にさらりと笑い、自分の名を呼ぶ。その呼び方は、頑なない子どもを言い聞かせる調子と相違ないものだった。
「戻ることのできる道具を持っていたとしても、使用しない限り戻ることは不可能だ。そうである以上、戻る意思決定をした持ち主に責任はあると思うが」
「道具がなければ戻れない。そういう意味で確実に一端はあなたにある」
「確実か」
言葉尻を繰り返したビルモスが、執務机の上で腕を組む。面白がり始めたな。そう悟ったところで、退けるはずもない。エリアスは続きを待った。
「きみがそこまで言い切るのであれば、責任の一端くらいは担ってもいいが」
恩着せがましく前置き、ビルモスが問いかける。
「仮に責任の一端が僕にあるとして、なにが聞きたいのかな。最近のきみを見ていたら、想像がつく気はするが」
「ハルトをもう一度向こうに戻すことはできるのか」
「もう一度、向こうに?」
ゆっくりと、ビルモスは問い返した。先ほどととは違う、試すような繰り返し方。
頷いたエリアスに、ビルモスはそっと腕を解いた。術式を描く要領で指先を宙に滑らせているが、思案中に見せかけているだけと知っている。案の定、返答は至極あっさりとしていた。
「もちろん、理論上は可能だ。だが、戻すべきではないだろうね。そう何度も時空を歪めるべきではない。きみもわかっているだろう」
にじんだ呆れに、ぐっと反論を呑み込む。ビルモスの言うとおりで、わかっていたことだったからだ。
不満そうなエリアスの態度に、ビルモスもあからさまな溜息を吐いた。
「あのときは、あまりにも我らの都合で振り回してしまったからね。気の毒と思ったから、どうにか戻る方法を探したんだ」
ただね、とビルモスが言う。
「何度もやってよいものではなし。正直に言うと、今回のことは、あまり起こってほしくないイレギュラーだったんだ。隣町に顔を出す感覚で行き来をされると、さすがに困る」
「それはそうだと思うが」
「そうだろう。まぁ、彼が戻ってきたことは過ぎた話だ。僕にとやかく言うつもりはない。はじめに言ったとおりで、彼が本気で願ったからこそ叶った帰還と思っているからね」
再び黙ったエリアスに、ビルモスは穏やかに言葉を継いだ。
「それに、そもそもの話だけどね、エリ」
「なんだ」
「勇者殿に、元の世界に戻りたいという意志はあるのかい?」
「わからない」
半ば反射で言い切った直後、卑怯な言い方だったとエリアスは思い直した。
ハルトはこちらの生活を楽しみ、馴染もうと努力している。向こうのなになにが恋しい、帰りたい、そう言っていたあのころとは違う。ハルトは自分の意志で歩み寄ろうとしている。向こうに戻すべきと考えているのも、自分だけかもしれない。でも。――でも。
「今はないかもしれない」
すべてを見透かすような瞳から視線を外し、うつむく。
「だが、一年後はわからないだろう。姿かたちは大きくなったが、あいつはまだ子どもだ。子どもの一時の願望で一生を決定づけるのは酷すぎる」
「こんなことを言うと元も子もないかもしれないが、誰だって一年後に同じ意志を抱いている保証はないだろう。だからこそ、決断に価値がある。そうは思わないか?」
きっと反論を封じる笑みを浮かべているのだろう。想像し、エリアスは唇を噛んだ。そう言われるだろうとわかっていた。だから、聞くことができなかったのだ。
「他人の決断に口を出すのは野暮というものだ。きみが彼の本当の保護者であればまだしも、そうではないわけだしね。それとも、そういった位置に着く心積もりでも?」
「あるわけがない」
「なぜ?」
切り捨てたことを咎めず、ビルモスは淡々と問い重ねた。
大昔。それこそ、日常的にエリと呼ばれていたころ。魔術の組み立てに頭を悩ませる自分を正解に導くために問うたものと変わらない口調だった。
「なぜ」
理論的に組み立てることも、客観的に鑑みることもできず、エリアスはただ繰り返した。ビルモスはなにも言わない。沈思黙考を経て、ぽつりと応じる。
「ハルトだからだ」
「それは、かつて、きみが面倒を見た子どもだからか? それとも、この世界を救った勇者殿だからか?」
「……」
「ああ、なるほど。つまり、きみは、自分をいまだ加害側の人間と思っているわけだ。あの子を無理やりこちらに呼び寄せ、魔王退治を強要した、と」
「無理やり呼び寄せたことは事実だろう」
「そうだね。おかげでこの国は救われた」
あっさりとビルモスは認めた。たったひとりと国。どちらが重要かなど言われずともわかるだろうというように。
「だが、今回のことは彼の選択だ。我々の一件がなければ、その選択もなかったときみは言うのかもしれないが、さすがに堂々巡りがすぎる。おそらくだけれど、勇者殿も同じことを言うのではないかな」
詭弁だ。幾度目になるのかわからないことをエリアスは思った。
「どちらにせよ、きみが彼の決断に口を挟むつもりなら、きちんと話し合うべきだ。一方的にきみの罪悪感を押しつける現状は、公平ではない。彼にとってね」
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