8.新たなる日々(後編)
夏が近づき、また少し太陽の出る時間が長くなったころ。夕飯の席で新人の話題が多く出るようになった。
本配属もまだ先の、入団試験に受かったばかりの若者たちのことなのだが、はじめてとなる後輩がかわいくてしかたがないらしい。ハルトが嬉々として話すので、エリアスまで名前を覚えてしまったくらいだ。
――それにしても、後輩か。
エリアスにとっての騎士団の最年少は、いつだってハルトだった。イメージの停滞していた頭に、後輩という単語は新鮮に響く。
本当に、あっというまに時間は流れるな。他愛のない会話を思い返しつつ、文末に署名を入れる。ビルモスに頼まれた作業も、これで一段落だ。
正面から控えめな声がかかったのは、エリアスがペン先を離したタイミングだった。
「あのさ、師匠。いまさらだとは思うんだけど、俺が使ってる部屋って、師匠が研究するときに使ってた部屋だったんじゃない?」
机に置いたランタンに照らされたハルトの顔は、真面目と不安が入り混じっている。
ペンを置き、エリアスは小さく笑った。居間のテーブルを連日占拠している事態が気になったとわかったからだ。
ハルトの言うとおり、たしかに以前はその部屋を使っていた。だが。
「ここで十分だ。気にすることはない」
「でも、師匠、ビルモスさまの頼まれごと、よく引き受けてるよね。俺がこっちに戻ってきてからだけでも、結構」
納得のいっていないハルトの視線が、エリアスの手元に動く。
「それも先週ギャロンさんが持ってきたやつでしょ? 同じ家に帰るんだから、宮廷で俺に渡してくれてもいいのに、みんなしっかりここまで持ってくるよね」
名前までよく覚えているものだな。素直に感心しつつ、まとめた書類を封筒に入れる。
面倒だが、近日中に宮廷に赴かねばならない。そうなると、ハルトがまた「一緒に行こう」と言い出しそうだ。あの距離を往復してけろりとしているハルトの体力には、本当に目を瞠る。そんなことを考えながら、エリアスは苦笑を返した。
「さすがに魔術師殿のものをおまえに持ち運びはさせないだろう」
「危ないってこと?」
「危なくはないが。口頭で伝える事項もあるからな」
そこで信用がないのかと問わないあたり、平和にできている。
「ああ、なるほど」
納得した顔になったハルトは、エリアスが封をしたことを見とめると、うきうきと身を乗り出した。
「終わったんでしょ? なんか飲む? 最近ずっと夜もやってたもんね」
「おまえが作っていたアイスティーか?」
「そう、そう。結構おいしくできたと思うんだよね。桃を大量に入れたのがよかった気がする」
飲むと言ったつもりはなかったのだが、決定事項となっていたらしい。いそいそと準備をする背中がかわいかったので、水を差す発言は控え、エリアスは挙動を眺めた。
自分が居間で作業を行っていた、この数日。居座る理由を捻出するように、ハルトも台所で実験――料理とは言いたくない惨状が目立っていた――に勤しんでいたのだ。
アイスティーはほぼ唯一と言っていい、まともな成功例である。失敗したものもきちんと腹に入れていたので、文句はないのだが。
どうぞ、と手渡されたグラスに口をつけ、エリアスは苦笑をこぼした。
「甘いな」
「甘いのがいいんじゃん。脳みそ使ったあとって、甘いものが欲しくならない?」
したり顔で琥珀色の液体を揺らしたハルトが、窓から入る夜風にそっと目を細めた。ハルトの黒い髪を、かすかに温い夜が揺らしていく。
「気持ちの良い暑さだね」
「そうか?」
エリアスは、四つ変わる季節の中で夏が一番苦手だった。だが、ハルトからすると、このくらいの暑さは「気持ちの良いもの」であるらしい。
――夏だけはこちらのほうが過ごしやすいと、そういえば、昔も言っていたな。
「おまえの国はもっと暑いのだったか」
「うん」
暑かったなぁ、という呟きが、ふたりのあいだに溶ける。
「夏が近づくとさ、クーラー……冷たい風が出る機械なんだけど、がないと過ごせないくらい暑くって。俺の親が子どもだったころはもうちょっと涼しかったらしいんだけど、年々暑くなってるんだって。きっと今ごろ、ヤバいくらい暑いんじゃないかな」
帰りたいのか、そうでないのか。言葉から感情を読み取ることはできなかった。純粋に故郷を懐かしんだだけなのかもしれない。
黙ったまま、エリアスはもう一口を喉に流し込んだ。口に含んだ瞬間は甘いものの、喉越しはさっぱりとしている。熱いハーブティーを好むエリアスには慣れない味だが、慣れたらおいしいのかもしれない。
……いや、べつに、まずいわけではないが。
単純に慣れない味というだけの話だ。成功したと喜んでいる子どもに余計なことを言うつもりもない。中身の残ったグラスをテーブルに置き、うしろで束ねていた髪を解く。ぐしゃりと雑に掻き上げたところで、エリアスはハルトに視線を向けた。
「なんだ?」
視線を感じた気がして問うたものの、ハルトは目を逸らさなかった。じっとエリアスの髪を見つめたまま、言う。
「なんか、蜘蛛の糸みたいだなって」
「蜘蛛の糸?」
「あ、えっと、悪口じゃないよ。俺のいた国で、こういう話があるんだよ。死んだあとに地獄に送られた男が、天から落ちてきた蜘蛛の糸に救いを見出してしがみつくってやつ」
「その男は助かるのか?」
「ううん。助からない」
「助からないのか」
「えっと、もうちょっと詳しく言うと、地獄に落ちた男は、当然というか、生前に悪いことをしたから地獄行きになってるんだけど、気まぐれに蜘蛛を助けたことがあったんだって。その蜘蛛が天国に行けるように糸を垂らしたんだけど」
天国とか地獄は、この国の解釈とちょっと違うかもしれないけど、でも、たぶん、似たようなものだよ。あいかわらずの雑な注釈を挟み、でも、とハルトが続ける。
「糸を伝って天国に上ろうとしてる最中に、地獄にいたほかの人が真似て糸を掴むんだよ。当然、細い糸は切れそうになる。男は焦って追いすがるほかの人間を蹴落とそうとする。それを天国から見たお釈迦様が、やっぱり悪人は悪人だって見捨てて糸を切っちゃって、男は地獄に逆戻り」
またよくわからない名称が出てきたな、と思いながらも、エリアスは抱いた感想をそのまま言葉にした。
「ひどい話だな。自分の命の瀬戸際であれば、悪人であれ、善人であれ、自分を優先するだろうに」
悪人の中に勝手に善性を見出し、その善性が勘違いと気づいた途端に手のひらを返す。さすがに悪人が気の毒だ。
「それはそうなんだけどさ」
エリアスの感想が想定の斜め上だったのか、ハルトの眉が困ったふうに下がる。話の腰を下りたかったわけではないのだが、さてどうしたものか。ひっそりと悩んでいたものの、ハルトが話をまとめるほうが早かった。
「まぁ、とにかく。話の結末はさておいて、地獄みたいな環境にいるときの一筋の救い、みたいな意味があるの、蜘蛛の糸には」
「そういうものか」
「そういうものなんだよ。少なくとも、俺のところの解釈では」
もちろん、解釈もいろいろあると思うけど。俺にとってはそのまま救いの糸って感じで、と穏やかな声が説明を紡いでいく。なぜか御伽噺に似ていると思った。聞いたことなど、ほとんどないというのに。
「それで、俺にとっての蜘蛛の糸はこれ」
「これ?」
「師匠の髪。それに、ほら。すごくきれいだし」
ハルトはにこにことほほえんでいる。なんとも言えない気分のまま、エリアスは溜息を呑み込んだ。
本当に、意味のわからないことばかりを言う。だが、指摘をしたところで、理解不能の理屈を掲げるに決まっているのだ。その未来だけはわかったので、冗談めかした後半部分のみを拾うことにした。
「腐っても魔術師だからな」
「そう言われると、ビルモスさまもきれいだよね、髪。魔力は髪に溜まるんだっけ。そんな話を聞いた気がするな」
「そう言われている。おまえもビルモスから組紐を貰ったろう。あれもそうだ」
ビルモスの余計なお節介としか言いようのない授けもの。グラスを手に取り、エリアスは苦笑まじりに語った。
「まぁ、あいつは魔力も術式も桁違いだが。ほかの魔術師が自分の髪を織り込んで編んだとしても、同じ効果は見込めないだろうな」
とは言え、世界を渡る効力を発揮するとは、当人も想定していなかったようだが。エリアスの報告を受け、ビルモスが明かしたことだ。さすがに驚いたよ、などと笑って。それと、もうひとつ。
――特別な勇者殿の願いごとだから、想定した限界値を軽々と超えたのかもしれないね、か。
「ビルモスさまってすごい人なんだね」
「そうだな」
感嘆する調子に、エリアスは目を伏せた。飛び抜けて優れた魔術師であることは事実である。
「そうでなければ、あの若さで魔術師殿を掌握しないだろう」
「尊敬してるんだ」
「尊敬か」
あいかわらずの素直な表現だった。首をひねったエリアスの反応に、ハルトは不思議な顔を隠さなかった。
「違うの? 師匠は昔からビルモスさまを一番に信頼してるように見えたし、だから、今もビルモスさまのお願いを聞いてるんだと思ってた」
そこに話が戻るのか。黙ったまま、アイスティーを飲む。
アイスと表現するには、いささか温い温度。ハルトいわく、ハルトの世界には冷たい飲み物を冷たいままにしておくことのできる装置があるらしい。まったく便利な世界で、だから、そちらに戻ればいいだろうに。
「違うの?」
もう一度問われ、エリアスはしかたなく口を開いた。
「ビルモスは恩人なんだ」
「恩人?」
「わかりやすい言葉で言えばな。孤児院にいた俺の魔術の才を見出し、魔術学院に入るための推薦状を用意してくれた。あいつが才能を保証したから、魔術学院に入ることができたんだ。あいつがいなければ、今の俺はない」
「……そうだったんだ」
知らなかった、とハルトが呟く。自分の過去を悼む空気に、エリアスは笑った。
「気にするな。たいした話ではない」
あの当時、それなりに孤児は多かった。魔王が誕生する数年前から、魔獣の生息地に近いところで被害は増え始める。そういうものなのだ。エリアスの家族はそこで死に、残った自分は王都の孤児院で育てられた。よくある話で、ビルモスがいた自分は幸運だった。
「だが、……だから、か。多少の無理は聞くことにしている。気にかけてもらっていることもわかるからな」
「そっか」
しんみりと相槌を打ったハルトだったが、すぐに笑みを浮かべ直した。
「ビルモスさまはいい人だね」
「そうだな」
今回ばかりは、否定しまい。苦笑ひとつでエリアスは認めた。向こうにどういった思惑があろうとも、一時期の自分にとっての救いであったことも事実なのである。
「最後に、もうひとつだけ聞いてもいい?」
「なんだ」
最後もなにも、質問ばかりだろう。少し呆れたものの、静かに問い返す。知ったかぶりを選ばないハルトの素直さは、好ましい部分のひとつだった。
「師匠は、魔術の研究は好きじゃないの? あのころは早起きして勉強してたし、夜も遅くまで本を読んだりしてたよね」
だが、その質問の答えはすぐには出なかった。
「師匠?」
窺う声に、「そうだな」と言葉を転がす。
好きでなかったわけではない。自分を養う手段であったが、やりがいも感じていた。努力が収入に直結する単純さも気に入っていたし、生活に余裕が出るようになると、自分の得た知識を還元したいと思うようになった。
それだけの恩は感じていたからだ。親のいない自分に衣食住を与えた孤児院にも、後見人として知識と職を与えたビルモスにも、自分を一端の魔術師と認めた国にも。
だが、なにも関係のない子どもの人生をめちゃくちゃにするために、研鑽を積んだわけではない。
「そのころはそうだったとしても、今はそうではない。それだけのことだったということだろう」
「そっか」
納得しているのか、いないのか。いまひとつ読むことのできない調子だった。だが、それ以上を問われないのであれば、問題はない。グラスの中身を飲み切ったハルトが、エリアスの分のグラスも持って、立ち上がる。そろそろ寝る時間なのだ。
朝の早いハルトの生活リズムは健康で、ともに暮らすうち、エリアスも随分と健康なリズムになってしまった。
昼過ぎに起き出し「今が朝だ」と嘯く日々が、遠い過去になる程度には。
「ねぇ、師匠」
「なんだ?」
「俺はさ。味がはっきりしてるほうが好きなんだけど、やっぱりちょっと甘すぎたかな? もしそうなら、次は甘さを控えようと思うんだけど」
台所で片づけをしながらの問いかけに、エリアスは笑みをこぼした。そんなこと、べつに気にしなくともいいだろうに。
「飲めない甘さじゃない。おまえの好きな分量で作ればいい」
「そうは言うけどさぁ。俺は師匠に好きって言ってもらえるものを作りたいの」
「なぜ」
「なぜって……」
答えに窮したようにハルトは黙り込んだ。カチャカチャと食器を洗う音が響く。窓から入り込む風が、夜よりも暗いハルトの後ろ髪を揺らしていた。そうだなぁ、と静かな声が落ちる。
「たぶんだけど。昔の師匠が、俺の望むものを俺に食べさせたいって思ってくれた気持ちと同じなんじゃないかな」
虚を突かれた気分で、エリアスは目を瞠った。夏の虫の声がする。
「そうか」
淡々と応じ、ハルトの背中から目を逸らす。外した視界に留まったのは、近々宮廷に持参する予定の封筒であった。
――一度、ビルモスに聞いてみるべきなのだろうな。
ハルトは、ふらりとやってきたというていを崩さない。だが、同じようにふらりと帰ることのできる保証はどこにもないのだ。
まったく、なにが蜘蛛の糸だ。過った銀色の髪を耳にかけ、エリアスは溜息を呑んだ。うつむいたまま、じっと封筒を見つめる。
ハルトがこちらに戻って、早数ヶ月。
王はもとより、宮廷も、国民も、元勇者の帰還を歓迎している。ハルトも騎士団に入り、楽しそうに日々を過ごしている。ハルトのことだ。すっかりと騎士団に馴染んでいるのだろう。この家にすっかり馴染んでしまったこと同じように。
あのころのように「元の世界に戻りたい」とも言わず、ハルトはするりするりとこちら側に染まっていく。ビルモスも、アルドリックも、素直に喜べばいいと笑うのかもしれない。だが、現実を目の当たりにするたび、エリアスの中の罪悪感はときたまひどく疼くのだ。
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