7.新たなる日々(前編)
愛だのなんだの、と。
聞き心地の良い言葉を多用するうちは子どもとエリアスは考えている。もうひとつ付け加えるとすれば、自分とは縁の遠い話と早々に見切りもつけていた。
なにせ、幼い時分は日々を生きることで精いっぱい。ビルモスに見い出されて以降も、期待を裏切らないためにただ必死。愛情らしいものを抱くゆとりなど、まったくない状況だったのだ。
そのすべてと今は距離を置いたわけだが、さておいて。とかく、エリアスにとって、愛とはそういうものだった。
世界のどこかにあることは否定しないものの、自分の近くにはないもの。だが、それで、問題のないもの。
そのはずだったのに、馬鹿の一つ覚えのように愛を囁く人間が現れた。そのせいで、最近の自分は、たぶん、少しおかしいのだ。
「知ってる人も多いし、大変だけど楽しいよ。まぁ、ちょっと、俺に気を遣いすぎだなって思うことはあるけど」
それが、以前より遅くなった夕食時。騎士団はどうだと尋ねたエリアスに対する、ハルトの返答だった。
機嫌の良い顔で食事を進めるハルトを見つめ、エリアスは「そうか」と相槌を打った。楽しいというのであれば、なによりなことである。気を遣うなというのは土台無理な話と思うが。
「うん。あ、でも、これは俺の問題なんだけど、やっぱり五年のブランクは大きいな。昔のほうが体力はあった気がするよ。そのうち戻るだろうから、べつにいいんだけど」
「向こうでは、なにもしていなかったのか?」
「なにもしてなくはないけど。部活……えっと、学校でみんなでやる運動みたいなものなんだけど、はしてたけど、騎士団の訓練とは違うっていうか」
「そういうものか」
ハルトの説明が雑であるのは昔からのことなので、エリアスはあっさりと納得を示した。説明する気がないという意味ではない。純粋に語彙が足りていないという意味だ。
部活とやらの詳細は不明でも、魔王退治に向けた研鑽を積んだ時期のハルトが、小さい身体で一生懸命だったと知っている。仕事の合間に訓練場を覗いていたからだが、今も変わらないのだろうという想像は易かった。
「そうなんだよ」
エリアスとさして変わらない調子で頷いたハルトが、皿の残りを平らげていく。
あいかわらずうまそうに食べるやつだと感心していると、ハルトは少しだけ言いにくそうに口火を切った。
「あのさ、作ってもらってる俺が口出す話じゃないってわかってるんだけど」
「なんだ。食べたいものがあれば言えばいい」
頭は大丈夫かと問い詰めたい距離を往復するハルトと比べるまでもなく、時間の融通の利く身である。エリアスは気負わず請け負った。
「あ、えっと、それは本当にうれしいし、ありがたいんだけど。……あ、今日のハンバーグもすごくおいしかったです。ありがとう。ごちそうさまでした」
「気にするな。たいした手間でもない」
人の善意を当然と受け取らず、きちんと感謝を告げる律義さは、間違いなくハルトの美点である。だが、しかし。いざ自分に向くとなると、どうにも据わりが悪いのだ。
エリアスはおざなりに応じたが、ハルトは変わらずにこにことしている。
「でも、ちょっと不思議だな。いまさらだけど、師匠が俺の国のごはんを覚えて作ってくれてるの。昔はさ、俺が説明するたびに不思議な顔してたでしょ」
「それは、おまえの説明が雑だったからだ」
「え、そうなの? いつもちゃんと再現してくれたから、問題なく伝わってると思ってた」
自分の努力と聞き取りの成果でしかない。呆れたものの、エリアスは指摘はしなかった。
なにせ、「ハンバーグとはなんだ」と問い返したエリアスに、「細かく叩いた肉片を丸くこね直して焼くんだよ」と即答した子どもである。指摘したところで、そうかなぁ、と呑気に笑うのが関の山だ。
ちなみに。聞いた当時のエリアスは「肉の塊をそのまま焼けばいいのでは」と思うことしかできなかった。なんなら言った。「それはステーキなんだよ」としょぼくれた顔で答えるので、がんばらざるを得なくなったわけだが、それもさておいておく。
「あ、えっと、そうじゃなくて。ちょっと話は戻るんだけど」
「なんだ」
「俺の好みにばっかり合わせてくれなくてもいいよって言いたかったの」
ハルトの顔をまじまじと眺め、エリアスは首を傾げた。
「そうなのか?」
「ああ、もう、その顔。師匠の中の昔の俺はいったん忘れてもらってもいいかな」
「こちらの食べ物は嫌だとずぴずぴと泣いていたおまえの顔か?」
「そうだよ!」
やけくそのように認めたハルトが、むいと唇を尖らせる。
「だから、その、昔はそうだったかもしれないけど、今は違うっていうか」
「そうなのか」
「そうだよ。ちょっとは慣れたし、大人になったし。それに、俺、こっちで暮らすって決めたから。だったら、こっちの味にもっと慣れるべきじゃないかなって」
最終的にさも当然と言い切られ、エリアスは返事に迷った。生じた空白を誤魔化すように、温くなった紅茶に手を伸ばす。
「そうか」
煙草のことといい、「そういう気分だから」こんなふうに言っているだけの可能性も高い。ただ、どう受け止めるべきか判然としなかったのだ。もう一度カップに口をつける。
宣言したことで満足したらしく、ハルトはさらりと話題を移した。
「そういえば、師匠は宮廷に行かないの? このあいだはたまに行くって言ってたけど。ビルモスさま寂しがってたよ」
寂しがっていたという表現は、多大な語弊があるに違いない。苦笑を呑み込み、エリアスは首を横に振った。
「むしろ、あいつが暇すぎるだろう。そんなにおまえに会いに騎士団に顔を出しているのか」
宮廷の敷地内にあるからと言って、そこまでの暇はないだろうに。勇者を預かっているという名目のあった当時の自分と同列に扱っていいはずもない。そう言ったエリアスに、ハルトは考えるように指を折った。
「初日に様子を見に来てくれたのと、あと一回か、二回かな。どっちもそんなに長く話したわけじゃないけど、俺のことを気にして足を運んでくれたってわかったから。ビルモスさま、いい人だよね」
嫌味のない調子に、今度こそ苦笑がこぼれる。魔術師殿の狐と名高いあの男を「いい人」と衒いなく表現する人間もそういまい。
「あと、アルドリックさんも。敬語を使うのは勘弁してほしいけど、でも、やっぱりいい人だよね。俺が向こうに帰ったあとに入団した人とも馴染めるように、すごく気を配ってくれてる」
「そうだな」
アルドリックがいい人という評価は、素直に認めるところである。そうでなければ、辺鄙な田舎にたびたび顔を出しはしないだろう。多少の難はあれど、ご愛嬌というやつだ。
空けたカップと皿を手に立ち上がると、すぐさま声がかかった。
「あ、片づけは俺がするって言ってるのに」
「わかった、わかった」
本当に手間ではないので、自分がやっても一向に構わないのだが。ごはんも作ってもらってるんだし、せめてこのくらいは俺がするよ、とハルトが譲らなかったので、夕食の片づけはハルトの役割となっていた。
そんなことを気にするくらいなら、騎士団の寮に入ったらどうだ、とは。一度言ったときにとんでもなく拗ねられたので、口にしないようにしている。
――まぁ、嫌なわけでもないからな。
ハルトとの同居生活のことだ。一度うっかりやらかしたものの、以降はなにごともなく日々が過ぎている。少々接触が過剰な気はするが、距離の近いところのある子どもだったので、勘定には含めない。
「ねぇ、師匠」
運んだ皿をシンクに置いた途端に、背後から抱きすくめられたが、これもノーカウントだ。いちいち気にしていたら、ろくなことにならない。
「おまえはいつまで俺に甘えたい年なんだ」
呆れたふうに告げたにもかかわらず、返ってきたのは甘え切った声だった。
「一生だけど。でも、違うから。求愛なの、これは。俺の求愛」
「求愛」
「求婚でもいいけど」
だって、そのために帰ってきたんだし。意味不明な理論を掲げ、ハルトが息を吸い込む。匂いを嗅がれているみたいで嫌だな、と思ったが、エリアスはそれも言わなかった。
「結婚しよ」
「するつもりはないと言ったろう。諦めろ」
「ええ、でもさ、今の状態も結婚とほとんど変わらないじゃん。一緒に住んでるし、俺は好きだし、師匠も好きだし、やることやったし」
黙れ、と言う代わりに、だったらいいだろう、と投げやりに切り返す。黙れと言ったところで黙るわけがないと学習した結果である。
あと、誰がそういう意味で好きだと言った。軽く押しのけることでハルトに場所を譲り、先ほどまで座っていた椅子を引く。やれやれと腰を落ち着けたところで、自室に籠もるタイミングを見失ったことに気がついた。
溜息を呑み、台所に立つ背中に目を向ける。皿を洗っているだけなのに、ハルトはいやに楽しそうだ。堪え損ねた溜息は、水の音にかき消されていく。
ハルトによって、自分のペースは確実に崩されている。承知しているにもかかわらず、本気で拒もうという気が起きない。たぶんどころではなく、自分は間違いなくおかしいのだ。
心底呆れ切った気持ちで、エリアスはもうひとつ溜息を吐いた。
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