6.森の家の魔術師(後編)

「ちょっと待て」

 そんなわけで、小一時間後。エリアスにとってだけ予想外の展開で、エリアスは自身のベッドに押し倒されていた。

 おかしい。少し前までは、神妙な顔でなにやらもじもじとしていたというのに、なぜ、ハルトが自分を押し倒しているのか。甘えるにしてもほどがあるだろう。

「なんで、おまえが俺を押し倒してるんだ?」

「好きだからだけど」

 なんの問題が? とばかりの無垢な瞳に、エリアスは眉を寄せた。

「意味がわからない」

 馬鹿は休み休み言えと言わなかっただけ、容赦をしたつもりである。

 これならば、七年前の右も左もわからないというふうだったハルトのほうが、まだ意思疎通ができていた。まぁ、あのころも、なぜか言語は完全に通じていたのだが。

 勇者とはそういうもの、というのが、真偽不明のビルモスの言である。

「俺こそ意味がわからないんだけど、俺、師匠に好きって何回も言ったよね? 部屋に行きたいとも言ったよね? 師匠、いいって言ったじゃん。それってオッケーってことじゃないの?」

「誰がおまえにそれを言われて、そういう意味と思うんだ」

 きょとんとしていたハルトの表情が、みるみる驚愕に染まっていく。次いで、猫のような瞳が吊り上がった。珍しい。

「だって! 師匠が言ったんじゃん! この国は同性同士でも結婚できるって! だから気をつけろって! だから、だから、俺、師匠と結婚しようと思って帰ってきたのに!」

 それで結婚、結婚と馬鹿の一つ覚えのように言っていたのか。冗談だとか、流行りの挨拶だとか、そういうことではなく。エリアスは納得した。ハルトの言う冗談にしては性質が悪い気がしていたからだ。もっと早くに言え、とも心底思ったが。だが、しかし。

「それは、おまえが……、勇者に手を出す馬鹿はいないと思ったが、万が一があったら気の毒と思って教えてやったんだ」

 なんというか、十三、四のころのハルトは本当にかわいい子どもだったので。

 おまけに幼顔だったせいで、実年齢よりさらに下に見えたのだ。エリアスにその気はないものの、世の中には子ども好きの変態もいる。なにかあったら大変と案じた気遣いは、保護者的な立場だった者として間違ってはいないだろう。

「なにそれ! 意味がわからないんだけど」

 それはこちらの台詞である。眉間に刻んだしわをいっそう深くしつつも、エリアスは諭す調子で続けた。無論、ハルトだからだ。

「だから、その、なんだ。こちらでも恋愛は一般的に男と女でするもので、結婚も男と女でするという話だ。同性同士でも咎めはしないというだけであって、一般的ではない」

「師匠も?」

 やおら不安げな声が問うので、いったん説明を止める。ハルトの性的嗜好が同性だけであるとすれば、「一般的ではない」と断定するのは酷と思い直したからだ。

 それに、エリアスとて身に覚えのない話ではない。

「一般的ではないと言ったが、おかしいという話ではない。割合的に鑑みると少ないという話であって」

「師匠は?」

「は?」

「だから、師匠はそうなの? 男の人でもいいの?」

「まぁ」

 あまりにも真剣な瞳だったので、つい正直に答えてしまった。

「性別にこだわりはない」

「じゃあ、したことは?」

「この年でしたことがないほうがおかしいだろう」

 二十六である。エリアスは呆れたが、ハルトは違ったようだった。いやに勢い込んで問い重ねる。

「え? 誰? 誰と?」

「おまえに言ってもわからないと思うが」

 そもそもを言っていいのであれば、言う必要性もまったく感じないのだが。辟易とし始めたエリアスをよそに、ハルトはほっとした顔をする。

「あ、そうなんだ。俺の知らない人」

「あまり聞きたくないが、誰だと思っていたんだ、おまえは」

「えっと……、その、ビルモスさまとか」

「妻帯者をわけのわからん妄言に巻き込むな」

 あ、奥さんいるんだ、とハルトは呟いていたが、それどころではなく頭が痛い。

 ビルモスの奥方は、あの奇人が選び、あの奇人を受け入れただけはある、それはもう心の広い女性なのだ。とんでもないことを言うなという話である。

 ついでに言うと、ビルモスは、自分の後見人である男なのだ。とんでもない誤解はご免こうむりたい。まぁ、宮廷にいた時分は、妬み半分で似たようなことは言われたが。そこまで考えたところで、エリアスは我に返った。

 ……誰かが吹き込んだんじゃないだろうな。

 こいつに。ろくでもないことを。今のハルトではなく、子どもだったころのハルトに。冗談ではないが、確かめる勇気もない。諦めて、エリアスはハルトの肩を押した。

「わかったら退け」

 なにをどう勘違いしたのかという思考回路はもはや理解不能だが、とにもかくにも自分がハルトとそういうことをする気がないことは伝わったはずである。

 結婚云々の話も諦めて、なんなら帰ってくれてもいいのだが。

 後半は胸の内に留め、エリアスは考える。よくわらからないが、過去の自分の言動にも多少の責任はあったらしい。そうである以上、ビルモスに協力を打診することもやぶさかではない。多大な貸しになりそうであるものの、背に腹は代えられないだろう。

 無論、向こうの世界に戻る方法についてであるし、貸しの返済方法は頭脳労働一択なので、妙な勘違いはしないでもらいたい。

「ハルト?」

 ムッと唇を突き出したハルトに動く気配はない。もう一度名前を呼べば、またしても意味のわからない言葉が返ってきた。

「じゃあ、俺の相手してよ。この年でしたことないんだよ、俺。かわいそうじゃない?」

「なに?」

「だからしたことないんだよ、俺」

「なぜ」

「なぜって、師匠としたかったからに決まってるじゃん」

 拗ねた顔はかわいいが、言っている内容はなにひとつとしてかわいくない。

 健康に育った見目も良い二十才の男が。自分としたかったという理解したくない理由で堂々と童貞を宣言している。

 これは俺が悪いのか。混乱の中、エリアスは思ってしまった。自分を見つめる黒曜石のような瞳に、昔からどうにも弱かったせいである。

 そうでなければ、興味のない料理の研究など誰もしまい。ハルトがどう思っているのかは知らないが、つまりはそういうことだった。

「まぁ、……キスくらいなら」

「本当?」

 構わないが、との許可に被さる勢いで嬉々とした声が上がる。

 躊躇いのひとつもなく迫る瞳に、やれやれとエリアスは目を閉じた。子どものままごとのようなキスであれ、いや、だからこそ、清廉な作法に則ってやるべきだろう。それが年長者としての思いやりというやつだ。そう、あくまでも、それだけのつもりだったのだが。

「ちょ、――っ」

 軽く唇を合わせるだけと高を括っていたエリアスは、差し込まれた舌に仰天した。上から思いきり抑え込まれているせいで、動くこともできない。

「っ~~――、おい!」

 どうにか抗議の声を発したものの、あっというまに舌を絡め取られてしまった。逃げようとしたエリアスの舌を追い、口の中の粘膜をねっとりとなぶっていく。

 はじめてとか絶対に嘘だろう。おい、ふざけるな。ぞくりとした感覚に、胸板をぶっ叩く。わりとすごい音がしたが、薄っぺらい子どもの身体ではないので大丈夫と思うことにした。

「ちょっと、ふつうに痛いんだけど」

 なぜ自分が責められているのか。まったく意味がわからない。唇を離したハルトを見上げ、エリアスは眦を吊り上げた。

「おまえ、はじめてって嘘だろう!?」

 めちゃくちゃに手慣れているとは言わないが、あまりにも躊躇も遠慮もなさすぎる。その台詞に、ハルトはきょとんと瞳を瞬かせた。

「はじめてだって言ってるのに。でも、まぁ、そうだな。誉め言葉として受け取ります」

 ありがとう、師匠、と締まりのない顔でほほえむ。その瞳が幸せに蕩けていたせいで、エリアスは続けるつもりだった文句を呑んでしまった。

 想定していたキスと違ったものの、キスであることには違いなく。つまるところ、自分が狭量な気がしてきたのだ。自分の心を広いと思った覚えはないが、そういうことでもない。

 じっとエリアスを見下ろしていたハルトの指が、長い銀の髪に触れる。さらりと流すように掻きやって、こめかみをなぞった。

「残ったんだね」

 そうやって露わにしなければ、目につくこともない小さな傷。そんな些細な傷を、まったくよく覚えているものだ。

 ――博愛の勇者殿、か。

 エリアスたちの願望を押しつけた、勝手な呼称。だが、ハルトが信じられないほどの優しさを持っていることは事実なのだ。

 慈愛に満ちた瞳を見上げ、しかたなく表情をゆるめる。覚えている必要のないものだが、それを良しとしない善性がハルトたる所以と知っていた。

「見てのとおり、たいした傷じゃない」

「そうだね」

 静かに認めたハルトが、そっと傷跡に口づける。

「でも、傷だ」

 愛撫みたいだな。訝しんだエリアスだったが、相手が相手である。おまけに、真偽は不詳であるものの、自称童貞。まぁ、動物も傷口を舐めるわけだし。ハルトの国では、純粋な親愛の行為である可能性もある。そういう意味でなく。

「待て」

 シャツを捲って侵入した手のひらにエリアスは真顔になった。

「誰がそこまで許した?」

「いや、いや、いや。ここまで来てこの流れでキスで終わりとか鬼すぎるでしょ」

 まるでこちらがひどいことを言っているような口ぶりである。さすがに聞き捨てがならないし、どう考えてもそういう意味でしかなかった。

「ハルト、おい、……ハル――――っん」

 抗議のために開いた唇をキスで塞がれ、肩を押そうとした手も取られ。そのままシーツに縫い止められる。体勢のせいもあるだろうが、押し勝つことのできる気がしない。唯一動かすことのできた首を振り、エリアスは訴えた。

「おい、この馬鹿力!」

 どうせまた甘えたいだのなんだのと意味のわからないことを言うだけだ。そう思い、マウントを許した状態で放置したことが間違っていた。こちらを見下ろしたまま、ハルトはにこにことほほえんでいる。

「うん、まぁ、元勇者だし」

「こんなところで使う力じゃないだろう!?」

らしくもなく声を張り上げてしまい、エリアスはぜえはあと喘いだ。この数年の隠居生活で確実に体力は落ちている。

 いや、そもそもが、薬草を煎じて生活をする人間と、とんでもない重さの聖剣を振り回していた人間の腕力をひとくくりにしていいはずがないのだ。前提がおかしいとしか言いようがない。

 そういったわけだったので、夜の攻防はあえなく決することになった。本気で抗い切ることができない時点で、当然の結果だったとも言える。

 なにせ、馬鹿だ。まったく意味のわからない理由で出戻って、自分を抱きたいと言っている馬鹿。その馬鹿が、蕩けそうな熱っぽい瞳で腰を振っている。

「はぁ、好きです。師匠。好き」

 言葉と同じくらい、自分を抱く手つきは甘かった。本当に馬鹿じゃないのか、と思う。心底思う。そのはずなのに、温かな体温がどうしようもなく心地良い。肌を合わせる行為自体がひさしぶりだからだろうか。いや、そもそも、自分はいったいなにをしているのだろう。

 最後に残った意地で声を殺し、顔をそむける。だが、すぐに顎を取られてしまった。しつこくキスを重ねながら揺さぶられるうち、張ったはずの意地も消え、腹の奥が熱くなる。ああ、なんだ。いったのか。悟った直後、エリアスは自分の絶頂を感じた。

 ハルトの首筋から落ちた汗が、ぽたりと目元ににじむ。瞬くと、自分のものではない指先がやんわりとエリアスの目元を擦った。ぼんやりとした視界に、とびきりきれいな黒が映る。ハルトの色。知らずほほえんだエリアスに、呟くようにハルトは言った。

 熱っぽさの落ち着いた、ハルトにしか出すことのできない慈愛に満ちた声。

「愛してる」



 べつに、どこにでもある男の身体である。処女というわけでもなし、勿体ぶるものでもないだろう。なにが悲しくて、自分よりいくつも年上の男を抱きたいのか、と。ハルトに呆れはしたものの、思うところはそれだけだ。

 はぁ、と手製の煙草から煙を吐き、エリアスは結論づけた。まぁ、べつにいいだろう。あのころならばいざ知らず、ハルトは成人しているのだし。自分も保護者ではない。

 家の壁にもたれ朝日を浴びていると、小さな音を立てて扉が開いた。エリアスを見、わずかに首を傾げる。

「あれ、師匠。煙草なんて吸うんだ?」

 思いのほか、あっさりとした態度だった。「起きたときにいないなんてひどい」などと拗ねるほど子どもではなかったらしい。

 ほっとするやら、拍子抜けするやらで、エリアスはぽつりと名前を呼んだ。

「ハルト」

「昔は吸ってなかったよね」

「子どもの前で吸うわけがないだろう」

「この国もそんな感じなんだ。なんか親近感だな」

「親近感?」

「俺のところもね、子どもの前では吸うもんじゃないっていう風潮。で、最近は煙があんまり出ない煙草が出回ってる」

「煙が出ない煙草」

 またよくわからないものを、と思いながら、紫煙を揺蕩わせる。

 ハルトの国の話は興味深いが、困惑することも多かった。この世界のもろもろに対して、ハルトも同じように感じていたのではないだろうか。

「そう。でも、煙の出る煙草がかっこよくて、俺は憧れたけど。あ、子どものころの話ね」

 懐かしそうに応じたハルトが、おもむろにエリアスに手のひらを差し出した。意図を図り損ねて視線を向けると、へらりとした笑顔。

「一本ちょうだい」

「……」

「あ、その顔。もう子どもじゃないって言ってるのに。それとも、師匠は子どもとああいうことする」

「黙ってくれ」

 むしろ、大人を自認するのであれば、なにもなかったふりを貫き続けてくれ。乱雑に遮り、エリアスは煙草を押しつけた。

「師匠。火」

 煙草を銜えたまま催促をされたので、しかたなくつけてやる。本当に図々しくなったな、という文句は呑み込んだ。藪を突きそうだったからである。

 存外と慣れたふうに煙を呑んだハルトだったが、数秒後。げほげほと咽始めた。

「俺の知ってる煙草じゃない」

 涙目で訴えてくる顔に胸が空き、軽口を返す。

「説明できるなら調整するが」

 かつて、幾度となくやったことだ。とりとめのないハルトの故郷の話を聞きながら、夜の台所で、ふたりで。

「ありがと」

 苦笑いのような笑みを刻み、ハルトは煙草を銜え直した。軽く眉をひそめたものの、今度は咳き込まない。静かに煙を吐いて、なんでもないふうに続ける。

「でも、いいよ。たぶん、ちょっとずつ慣れていくんだろうし。このままで」

 そんなもの、慣れなくてもいいだろう。あのころのように、自分の国の味が恋しいと泣けばいい。そうして、恋しく思う先へ帰ればいい。

 この十日、何度も頭に浮かんだ台詞だった。言葉にできないまま、顔に垂れた髪を耳にかける。

 沈黙したエリアスの目前を、春の風に乗った紫煙が流れていく。慣れた煙草と、春の香り。

「俺、騎士団で雇ってもらおうかな」

「……そうか」

 ゆっくりとエリアスは頷いた。希望が固まり次第伝えろと言ったのはビルモスだ。ハルトの意向を叶えるつもりはあるのだろうし、騎士団であれば願ったり叶ったりに違いない。

「おまえなら十分やっていけるだろう。アルドリックもいるし、今の団長もおまえのことをよくよく知っている」

「うん」

「騎士団には独身寮があるから、空きがあるかどうかアルドリックに確認して――」

「え、いいよ」

「なぜだ。行き当たりばったりで王都に行って宿なしになったら困るだろう」

「いや、だって。俺、ここから通うから」

「は?」

「だから、俺、ここから通うから。べつに通えない距離じゃないでしょ。それに、俺、金はあるし。王都までの馬車代くらい出せるよ」

 まじまじと見つめ返したものの、ハルトは悲しいくらい真面目な顔をしていた。

 おい、おまえ、ここから一度王都まで乗合馬車で行ったろう。金の問題だけでなく、とんでもなく時間がかかったことを忘れたか。もろもろの呆れを一言に集約する。

「馬鹿か?」

「ひどいな、師匠。馬鹿じゃないよ」

「じゃあ、なんだ」

「愛の力だよ」

「いいかげんにしろ」

 呆れ切った顔で言い捨て、エリアスは新しい煙草に火をつけた。紫煙を吐く。なにやらぶつぶつと呟いていたが、ハルトがそれ以上を言い募ることはなかった。

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