3.元勇者の帰還(後編)
「勇者殿! 勇者殿ではないですか」
さすがはビルモスというべきか。勇者ハルトの帰還に関する宮廷内の根回しは、完璧に履行済みだった。
面倒などとぼやく間もなく、王の謁見、ビルモスへの報告、魔術師殿への顔見せ、その他もろもろが流れるように進行し、古巣とも言うべき騎士団の訓練場に顔を出したのが、十数分前のこと。かつての仲間に囲まれたハルトは、輪の中心で無邪気に再会を喜んでいる。
世話になった幾人かは遠征中であったと知り、残念がっていたものの、ハルトの帰還が急すぎたのだ。致し方のないことだろう。
水を差さないように離れたところで見守っていたエリアスは、近づいてきた背の高い男にちらりとした視線を向けた。
「ビルモス」
「やぁ、エリアス。あいかわらずの良い保護者ぶりだね。今日もそこで見学かな?」
宮廷魔術師ご用達の藍色のローブを羽織ったビルモスが、丸眼鏡の奥の瞳を笑ませる。
不可能を可能にする男。天才。奇人。食わせ物の魔術師殿の狐。宮廷内外から好き放題に呼称されるかつての上司を見上げ、エリアスは早々に口火を切った。ハルトのいる場では聞くことのできなかったことだ。
「王も騎士団の連中も、いきなり現れた元勇者に随分と好意的な反応だ。いったいなにをどう吹聴したんだ? ビルモス魔術師長殿」
「人聞きの悪い。五年前、我らの国を救った勇者殿が、彼たっての希望で戻ってきたと言っただけだよ。この国の人間が太刀打ちできない魔王を破る唯一無二の戦力だ。今は魔王がいないとは言え、王は戦力として歓迎する」
「……」
「もちろん、五年前の感謝も覚えておられるだろうけどね」
元凶とも言うべきビルモスの、ひとつに束ねられた金色の長い髪が春の風に揺れる。
応じないまま、エリアスはハルトに視線を戻した。同じように視線を動かしたビルモスが、眩しそうに笑う。
「それにしても、大きくなったあの子を見ることができるとは思わなかったな。いや、息災でなによりだ。もう二十才なんだってね。彼が元の世界に戻ったときはいくつだったかな」
わかりきったことを問われ、十五だっただろう、とエリアスは答えた。そう。あのころのハルトは本当に小さな子どもだった。
「そうだったね。随分と立派になって。もう一端の大人じゃないか」
「ビルモス」
「しかし、きみに会いたくて戻ってきたとは。勇者殿もなかなか熱烈なことを言う。きみの村で途方もない魔術の気配を感知したときは驚いたが。本当に世界を渡ってくるとはね」
「ビルモス」
どこまでも他人事の調子に、エリアスは語気を強めた。この男が余計な物を贈らなければ、至ることのなかった事態だ。文句のひとつやふたつ、許されてしかるべきだろう。
覚えた苛立ちと裏腹に、ビルモスが飄々とした態度を崩すことはなかった。こちらの渋面を見やり、ひょいと肩をすくめる。
「しかたがないだろう。いまさらなにを言ったところで、彼はここにいる。前回と違い、彼の意志でね。そうである以上、意志を尊重してあげるべきでないかな」
建前だ。再度黙ったエリアスに、ビルモスはとどめの言葉を注ぐ。
「僕たちは、彼に多大なる恩があるからね。その程度の我儘は聞いてしかるべきだろう。それに」
言い諭そうとしたらしい台詞の続きが、そこで途切れた。歩み寄ったハルトを見とめ、ビルモスが人当たりの良い笑みを浮かべる。
「おや、勇者殿。彼らとの挨拶は済んだかな」
「はい。ビルモスさまもありがとうございました」
「なに。僕が特別なことをしたわけではないよ。今からあの森に戻るには遅い時間だろう。今日はふたりともこちらに泊まっていけばいい」
官舎の空いている部屋を用意させるという提案に、ハルトは素直な声を上げた。
「官舎って、昔、師匠が住んでいたところですよね。懐かしいな」
「そうだろう。今も住んでいたらよかったのだけどね。随分と引き留めたのだけど、五年ほど前にきみの師匠は宮廷を辞めてしまって」
「え……」
「ビルモス」
余計なことを言うなとビルモスを睨む。辺鄙な森に居を移している時点で察しただろうが、詳しいことはなにも話していないのだ。
ハルトの歓迎で中断となった修練も、再開となったらしい。活気のある声が響く中、おどける調子で「怖い、怖い」とビルモスは繰り返した。
「睨まれてしまったよ。まぁ、とにかく、今日は気兼ねなく休むといい。明日以降については勇者殿の希望に任せよう」
「俺の希望?」
「せっかく戻ったというのに、宿なしじゃ困るだろう。エリアスのところでも構わないし、王都が良ければ、こちらに部屋を用意するつもりでいる。ほかならぬきみのためだからね」
「えっと」
ちら、とハルトの黒い瞳がエリアスを窺う。
「できたら、俺は師匠のところがいいんだけど……」
なんでだ。喉までせり上がった疑問をエリアスは呑み込んだ。小動物のごとき視線に屈したわけではない。口にすれば最後、ビルモスが言い含めるとわかったからだ。
「ここですべてを決めなくともいいだろう」
「それもそうだね」
理解ある大人の態度で頷いたビルモスが、ハルトに向かいほほえんだ。
「希望が固まった時点で知らせてくれたので構わない。ぜひ、よく考えてくれ」
「わかりました」
真面目に応じたハルトに、ビルモスの笑みが深くなる。知らない者が見れば、優しげで慈愛に満ちたと表現しそうなそれ。
「勇者殿、この国はきみの帰還を歓迎する。魔術師殿を代表して、改めて伝えておこう」
「はい。ありがとうございます」
「なに、お礼を言うのはこちらのほうだ。――おや、そろそろ戻る時間のようだね。迎えが来てしまったよ」
ビルモスの言葉のとおり、藍色のローブを羽織った若者が、そわそわとした顔で訓練場の門の付近に立っている。
また勝手に執務室を抜け出したらしいとエリアスは悟った。ビルモスの悪癖である。
「では、また」
にこりとした笑みを残し、ビルモスが立ち去っていく。
耳に届いた「探しましたよう」と訴える半泣きの声に、エリアスは心の底から同情した。五年前に辞していなければ、あの立場になっていた可能性がある。
「あの、師匠」
「食堂にでも行くか」
「え?」
「宮廷の食堂だ。昔もたまに行ったろう」
呼びかけの意図を無視した誘いに、黒曜石の瞳にうっすらと不満の色が乗る。だが、それもほんの少しのことだった。
「そうしよっか」
懐かしいなぁ、といつもの調子でハルトが笑う。官舎の準備が終わり次第、誰かしらが声をかけるに違いなく、食堂あたりで時間を潰すことが最適と納得したのだろう。
ハルトと暮らした当時、官舎の部屋でふたりで食事を取ることが多かったが、食堂を利用することも間々あった。かつて幾度も歩いた道を、ふたりで進む。
オレンジ色に染まった影は、あのころより幾分も長く伸びていた。
ハルトに話しかける人波がようやく落ち着きを見せたころ、食堂の隅のテーブルでハルトはぽつりと切り出した。
「あのさ」
「なんだ?」
フードを外すと、やはりどうにもハルトは目立つ。ひさかたぶりの人混みで疲れていたものの、努めて淡々とエリアスは言葉を返した。
――人がいいのも、本当に善し悪しだな。
挨拶に来る人間をハルトが邪険にしないので、長々と人の列が絶えなかったのだ。
そのおかげで、「ひさしぶりだし、楽しみだなぁ」と言っていた鶏肉の香草焼きも、すっかりと冷めてしまっている。
気にする様子はないので、構わないのかもしれないが。今も、ハルトは、正面に座るエリアスばかりを見ている。
「師匠はもう働いてないって、ビルモスさまが言ってたけど」
「まったく働いていないわけではない。人を楽隠居の爺のように言うな」
「そんなことは思ってないけど。というか、それって」
言いにくそうに言葉を切ったものの、ハルトははっきりと質問を口にした。
「俺のせいだったりする?」
「子どもが余計なことを気にするな」
「師匠。俺、もう子どもじゃないよ」
拗ねた瞳に、エリアスは閉口した。
たしかに、年齢と見た目で判断をするのであれば、ハルトは大人であるのかもしれない。ハルトの国の基準は承知しないが、メルブルク王国は十八の年で成人となる。
――だが、そうは言っても、まだ子どもだろう。
五年前に比べると大人びたと思うが、それでも。澄んだ瞳から逃れるように、テーブルに視線を落とす。
天真爛漫でマイペース。素直さゆえにとんでもない発言をすることはあるものの、他人の機微に聡く、自分の期待に懸命に応えようとする。はじめて会ったころから、ハルトはそうだった。
報告したエリアスに、「いかにも博愛の勇者殿といった感じだね」と笑ったのは、当時の上司だったビルモスで、「博愛の勇者かもしれないが子どもだろう」と返したのはエリアスだ。
言ったところで、なにが変わると思ったわけもなく。つまるところ、ただの自己保身だったわけだが。
ハルトが安心できる理由を探し、エリアスは視線を上げた。
「報奨金を貰った」
「報奨金?」
「多少だが、おまえの面倒を見たからな。勇者殿の魔王退治のおこぼれを頂戴したというわけだ。宮廷の政治も面倒に感じるようになっていて、ちょうどいい機会と田舎に引っ込んだ」
それだけだ、と言い聞かせるていで言葉を重ねる。
「それに、ビルモスがしつこく仕事を持ってくる。その関係で、二月に一度は宮廷に顔を出しているんだ。だから、ここの仕事もまったくしていないわけではない」
正確には三ヶ月に一度程度の頻度だが、嘘ではない。じっと話を聞いた黒い瞳が、考えるように数度瞬く。
「ならいいけど」
小さく笑い、ハルトはようやくナイフを入れた。納得することにしたらしい。食べるところを眺めていると、ぱちりと目が合った。逸らすことなく、ハルトの瞳がほほえむ。
「じゃあ、師匠は、今の生活が楽しいんだね」
無言で、紅茶のカップに手を伸ばす。即答することができなかったからだ。
素直と言うべきか、無邪気と言うべきか。大人になった顔で、大人になったと笑うくせに、そういうところばかりが変わらないのだから嫌になる。
味の薄い紅茶を一口飲み、エリアスは呟くように言った。
「小さいおまえは、元いた世界がよかった、こっちの世界は不便だとよく泣いていたろう」
「泣いてなんか……、いや、まぁ、泣いてたかもしれないけど」
「なんで戻ってきた」
「えぇ、だから、それは師匠と結婚」
「もう少しまともな理由を言え」
言い切ると、まともな理由のつもりなんだけどなぁ、とぼやいたのを最後に、ハルトは口を閉ざした。止まっていたナイフを動かし、小さく切った肉を口に入れる。あいかわらずの上品な食べ方だった。
エリアスは、ハルトの国の礼儀作法も知らない。だが、大切に育てられたのだろう事実は言動の節々からもにじんでいた。それなのに、なぜ戻ってきたのか。
辛抱強く答えを待っていると、そうだな、とハルトは首をひねった。
「向こうはさ、文明っていうのが発達してて。魔術じゃなくて化学なんだけど。あ、この国にも化学はあるよね。その化学がより発展した、魔術みたいな化学」
「魔術みたいな科学」
「うん。説明が難しいんだけど、とくに魔術の勉強をしなくても、魔術の才能がなくても、お金を出せば、誰でも魔術の恩恵を受けることができるって感じかな」
「ほお」
紅茶で喉を湿らせ、エリアスは相槌を打った。事実であれば、たしかに便利な世界であるのだろう。
「たとえば、スマートフォンっていう道具があるんだけど、それを使ったら、わざわざ書庫に行かなくてもいろんなことを調べられるし、新聞を読まなくても世界中のニュースを知ることができる。通信で誰の声を聞くことだってできる」
「それはすごいな」
「でも、それを使っても師匠の声は聞こえないだろ。だから」
そこでまたハルトは言葉を切った。ナイフとフォークを置き、まっすぐな瞳をエリアスに向ける。
「師匠」
瞳同様のまっすぐな声だった。
「七年前、この国に来たときは俺の意志じゃなかったし、理不尽だろって思いもあって。だから、ちょっと嫌だった」
「あたりまえのことだ」
即答したエリアスに、でも、とハルトは続ける。
「今回は俺の意志で師匠に会いたくて来たんだ。だから、なにも後悔はしてないよ」
「……」
「これからも絶対しない」
エリアスの選んだ沈黙に、ハルトは不安そうに言い募った。
「それでも駄目?」
――きみに会いたいと願って戻ってきたというのであれば、多少の面倒は見るものと思わないか? 僕はたしかに加護と組紐を授けたが、本気の願いでなければ叶わなかったはずだ。ただの思いつき程度の願望で、これほどの魔術が発動することはない。わかっているだろう?
幼い子どもを言い諭すようだったビルモスの台詞。一字一句違うことなく浮かんだそれに、エリアスはテーブルにカップを戻した。
ビルモスの言うことは一理ある。だが、ずっと続くことではないはずだ。
ハルトが本気で滞在を願っているとしても、あくまでも一時的な感情で、いつかまた元の世界に戻りたいと言い出すに違いない。
メルブルク王国は、ハルトにとって異世界なのだから。
だから、そのあいだだけのことだ。了承を伝えるため、伏せていた顔を上げる。保護者に似た役割を担った過去があるせいか、エリアスはハルトの不安な顔が苦手だった。晴れやかにするためであれば、簡単に譲歩ができてしまう。ちょうど、こんなふうに。
「俺の家がいいというのなら、好きに滞在して構わない。これもなにかの縁だ。そのくらいの面倒は見よう。好きにすればいい」
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