2.元勇者の帰還(中編)
次の日の朝。宮廷に行くぞ、と告げたエリアスに、ハルトはなぜか驚いた顔をした。黒い瞳を大きくし、とんでもないことを言う。
「え? なんで? また魔王出たの?」
「そんなわけがあるか。五年前におまえが倒したばかりだろう。少なくとも、あと九十年は生まれない」
魔王の誕生には、百年以上の期間が空くとされている。つまるところ、今のメルブルク王国はいたく平和なのだ。無論、ハルトによってもたらされたものである。
治安も良くなり、街も随分と華やいだ。ハルトが見たら驚くかもしれない。道中を想像していると、気の抜けた顔で、ハルトが「なんだ」と呟いた。
「なら、よかった。もう一回はやりたくないもん。二回目が成功するとも限らないし」
同じのんびりとした調子で続け、朝食で出したパンをもぐもぐと咀嚼している。気持ちの良い食べっぷりに、エリアスは手つかずだったパンを向かいの皿に差し出した。
「なに? え、なに。食べないの」
「いつもは寝てる時間なんだ」
「え。師匠、昔はめちゃくちゃ早起きじゃなかった?」
「早く起きたところですることもないからな」
優雅な楽隠居を決め込んでいるのだ。いそいそと早く起き出しての勉強など、いまさら誰がするものか。エリアスは早々に話を戻した。
「とにかく、おまえが来たことを宮廷に黙ったままにしておけないだろう」
昨夜のうちにビルモスに手紙は飛ばしたが、顔を出せと言われるに決まっている。
――まぁ、こちらが知らせずとも、感知しているだろうが。
なにせ、あの男が編んだ術式である。まったく余計なことをしてくれたものだ。頭に浮かんだ忌々しい顔を打ち消し、エリアスは説明を続けた。
「こういうものは早めに報告をするべきだ。ビルモスがいれば問題はないと思うが、妙な行き違いが生じたら面倒だからな」
「行き違い?」
「なにごとかと国軍が飛んできかねない魔術量だったという話だ」
「え」
幼い仕草で、ハルトがぱちぱちと黒い瞳を瞬かせる。
「俺ってヤバいの? 招かれざる客ってやつ?」
「この国はおまえに大恩がある。その恩を覚えているやつがいるうちは、誰も手を出さない。実際、国軍も出動していないだろう」
「あ、なんだ」
「俺がしたのは万が一の話だ」
事実として応じ、自分で淹れたハーブティーに口をつける。
大昔、「ハーブティーは苦手だったんだけど、これはおいしいな」とハルトが喜んだ調合。何年も前の、たった二年ともに暮らした時期に得た情報を、よくも、まぁ、覚えているものだ。
「それに、万が一、疑われることがあったとしても、おまえに害意はないと口添えしてやるつもりでいる」
宮廷を辞した自分の証言にろくな力はないだろうが、それはそれである。
「害意はないって、師匠と結婚するつもりで俺が戻ったって言うってこと?」
無邪気に言い放たれ、エリアスはごほりと咽た。「大丈夫?」という慌てた声に、無言で口元を拭う。今の発言のどこを取れば大丈夫と思うのだ。
出会いがしらに言われたきり話題に出なかったものだから、完全に油断していた。どうにか息を整え、子どもに言い聞かせるていで口を開く。
「いいか、ハルト。ビルモスに余計なことは絶対に言うな」
「余計なことって、じゃあ、俺、どうやって戻ってきたって説明すればいいの?」
「この国が恋しくなったとでも言えばいいだろう」
「そんな曖昧な理由で納得するかなぁ、ビルモスさま。ビルモスさまだよ?」
「……」
「俺が本当に願ったことなら叶うって言われたんだよ」
駄目押しに、エリアスは唸った。
恋しく思った。ほう、具体的にはいったいなにを。いや、なに。きみがどの程度の願いの込め方をしたのか、今後のために詳しく知りたいだけだよ。
鮮明に浮かんだ想像上のビルモスの問いかけに、渋々と発言を撤回する。
「過剰なことはいっさい言わず、俺に会いたかったとだけ言ってくれ」
「うん。じゃあ、そうしようかな」
満足そうに頷いたハルトがスープを飲み干し、「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
ハルトの生まれた国ではそうするのだと聞いたことがある。神への感謝なのか、と尋ねたエリアスに、子どもだったハルトは、よくわからないけど、と拙い説明をした。
でも、たぶん、食べた動物の命とか、作ってくれた人への感謝とかなんだと思う。だから、師匠。ありがとう。
そう言ってはにかんだハルトは幼気でかわいかったというのに、随分とふてぶてしくなったものである。
「それはそうと、結婚の話もちゃんと考えてほしいんだけど。どうなってるの?」
「いいかげんにしろ」
世迷いごとを切り捨て、エリアスは王都に向かう準備を始めた。朝食の片づけはするよ、とハルトが買って出たので、そちらは任せることにする。
――しかし、なにが結婚だ。
言動の切り替えの速さから察するに、揶揄っているだけなのだろうが。だが、しかし。あまりにも性質が悪くないだろうか。ハルトの世界で流行っている可能性もあるにせよ、その気もない人間を口説き、本気にされたらどうするつもりだ。
「ハルト」
「そういえばさ、ビルモスさまが宮廷にいることはわかったけど、団長たちもまだ宮廷にいるのかな」
「……王立騎士団の団長はそのままだ。代替わりはしていない」
出鼻をくじかれ、食器洗いをする背中に事実を告げる。呈すつもりだった苦言は、胸に閉じ込めることにした。妙な藪を突きかねない気がしたのだ。
「ほかの団員はどうだろうな。配置換えのあった者もいるだろうが、おまえが会いたいと望めば叶うのではないか」
召喚された勇者として、ハルトは二年間のほとんどを王立騎士団で過ごしている。
彼らも成長したハルトを見れば喜ぶことだろう。なにせ、この国を救った勇者殿である。喜ぶ前に一度驚くとは思うが。
「そっか。じゃあ、今日ちょっと会えたりしないかな。せっかく宮廷に行くんだし」
懐かしいなぁという声を後目に、エリアスは自室に足を向けた。チェストの一段目の引き出しから、自分のローブと、もうひとつ。予備のローブを取り出す。
黒い髪と黒い瞳は勇者の証。このまま外に出ると目立つと思い至ったのだ。魔術師がよく纏うものだが、フードがあり着丈も踝までと長いので、見た目を誤魔化すのにちょうどいい。
――「勇者が戻った」と「魔王の誕生」を結びつけて騒がれたくはないからな。
宮廷に直接報告するまでは、目立つ真似は避けたほうが無難だろう。部屋を出ると、洗い終えたハルトが振り返ったので、エリアスはローブを手渡した。
「外に出るときは、これを着ておけ。おまえの髪の色はどうにも目立つ」
「ありがとう。あれ、昔よく着てたやつと違うんだね」
手渡されたローブを広げながら、そんなことを言う。なにと比較をしているのかということは、問わずとも明らかだった。
「あれは宮廷のものだ」
「なるほど。あ、でも、ちょっと丈足りないな」
「おおまかに隠れたら問題はないだろう。――ハルト」
ちょっと待て、と頬を引きつらせる。ハルトがローブに顔を埋めていたからだ。
「なにをやっている」
「え? 師匠の匂いだって思って。……うん、思ったら興奮してきたな」
「意味がわからない」
「ええと、幼児が母親の匂いのついた毛布にくるまって安心するみたいな。絶対領域? あ、違う。なんだっけ。ライナスの毛布……、えっと、安全基地」
「意味がわからない」
そもそも、今のおまえは幼児ではないだろう。というか、幼児を自称するのであれば、興奮するな。雑に切って捨てたエリアスに、ハルトが唇を尖らせる。
「師匠はそういうことなかったの? 小さいころとかさぁ」
「知らん。俺に親の記憶はない」
「あ……、ごめん」
「べつに珍しいことでもない。謝るな」
昔のハルトはもっと子どもだったので、余計なことを言わなかったというだけだ。隠していたわけでもない。
「そっか。そうなんだね」
神妙な顔で頷いて黙ったハルトだったが、ふと思いついた顔になった。おもむろに口を開く。
「じゃあ、そういうことを話してくれたってことは、子ども扱いはやめてくれたってこと?」
「……なんでそうなる」
「話してくれたから? あ、いや、俺がもっと聞きたいって思ってるからかな」
沈黙したエリアスに、ハルトが「あっ」と眉を下げる。
「ごめん、無神経だった。俺、よくそういうところあるって言われるんだよね。一応気にはしてるんだけど」
まったくそういうことではなかったのだが、じゃあなんだと問われると、答えを見つけることは難しかった。わずかな逡巡の末、もう出るぞ、と端的に告げる。
昨日から薄々とわかっていたものの、大きくなったハルトは、なんだかちょっと様子がおかしいのだ。
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