1.元勇者の帰還(前編)

 エリアスの暮らすメルブルク王国には、代々語り継がれる御伽噺のごとき伝説があった。

 いわく、果ての森に魔王が生まれるとき、時空の狭間から勇者が顕在し、我ら国民を救うであろう。

 とどのつまり、この国の人間では魔王に太刀打ちできないので、誕生したときはがんばって聖剣を持つ資格のある勇者を召喚してね! という、勇者にとってとんでもなく傍迷惑な伝説である。

 ハルト・タカサキは、七年前。その傍迷惑に巻き込まれるかたちで召喚された、異世界の少年だった。

「師匠って、今はこんなところに住んでるんだね。王都のあの家はどうしたの?」

 居間を見渡したハルトに問われ、エリアスは「数年前に移り住んだ」と事実のみを答えた。なんだかまるでつい三日前にも会っていたような、無邪気な調子である。

 呑気な顔で家に入ってきたことも含め、本当の本当に意味がわからない。

 ――というか、おまえは、役目を終えてニホンに帰ったのではなかったのか。

 こちらに来た当初、「帰りたい」とべしょべしょ泣いて訴えていた母国に。それが、なぜ。無表情の下で混乱を極めるエリアスと相反し、ハルトの声は明るい。

「そうなんだ。でも、自然が多くていいよね。森にある一軒家っていうのも。騒音問題とか無縁そうだし」

 七年前は不便で嫌だと大泣きしていなかったか。との指摘も、エリアスは呑み込んだ。溜息もひとつ呑み、丸テーブルの正面に座るハルトを見やる。

 別れた五年前よりも、ハルトの容姿はさらに大人びていた。十五才だった当時は、頭半分ほどエリアスより小さかったはずなのに、元の世界ですくすくのびのび育ったらしい。

 自分より目線が上になっていた事実に、それはもう驚いたわけだが、閑話休題。ハルトがにこりとほほえんだ。

「師匠はちょっと雰囲気が変わったね」

「雰囲気?」

「うん。赤い瞳も、きれいな銀色の髪も変わらないけど、ちょっと余裕が出たみたいに感じるよ。あ、……いや、昔の師匠がピリピリしてたって言いたいわけじゃないけど」

「ハルト」

 あえてなのか、なになのか。どうでもいい世間話を繰り広げるハルトを諫め、エリアスは問いかけた。

「おまえは、なぜここにいる」

 今回は、自分たちが召喚したわけではないだろう。淡々と問い重ねると、ハルトが軽く唇を尖らせた。あのころにもよく見た、懐かしい仕草。その態度のまま、ハルトはスープカップを引き寄せた。机の上の残りを発見し、「俺も飲みたい」と騒ぐので、エリアスが新たに用意したものだ。両手で持つ仕草が妙に幼く、十三才のハルトを見ているかのようだった。

 七年前、勇者として召喚されたばかりだったころのハルト。どうにも居た堪れず、エリアスはそっと息を吐いた。

 ――あいかわらず、師匠、師匠、と。本当になにを考えているのだろうな。

 そもそもを言えば、自分はいわゆる「師匠」ではないのだが。ハルトが好んで使うあだ名のようなものでしかなく、かつての世話係と評したほうが正しい間柄である。

 立ち会った勇者召喚の場で、なぜかハルトに懐かれたので、衣食住の世話と最低限のメルブルク王国の知識と文化を教える役目を担ったというだけ。

 なにせ、当時の自分はしがない新人魔術師だったのだ。後学のために参加を許されたレベルの末端も末端。勇者殿に教えることのできるものなどあろうはずもない。

 そこまで思い返したところで、エリアスはうんざりと垂れた銀糸を耳にかけた。そう。ハルトは選ばれし勇者だったのだ。魔王を倒し国を救う、唯一無二の存在。

 自分の前でこそ年相応の顔で甘えることもあったものの、王立騎士団の熱い指導のもと、ぐんぐんと剣の才能を発揮し、二年という時を経て、勇者パーティーを率い魔王討伐へ旅立った。

 そうして見事に責務を果たし、元の世界に戻ったはずだったのだが。沈黙を決め込んだハルトに視線を戻し、もう一度呼びかける。

 特定魔術が発動した理屈の把握はできていないが、ハルトの態度を見ていれば、自分たちではなくハルトに起因したものであることは明らかだ。

「ハルト」

「だって」

 大人の顔になったくせに、拗ねた子どもとまるきり同じ口ぶりである。

「それは、まぁ、元の世界に戻りたいって思ってたし、戻ることができてうれしかったけど。でも、やっぱり、どうしても師匠に会いたくて」

 なんでだ。心の底から呆れたものの、エリアスは話を促した。

「それで?」

「うん。それで、戻りたいって思ったら、なんか戻れたんだよ」

「待て」

 淡々と聞くことができた時間はそこまでだった。たまらず話を遮る。

 荒唐無稽がすぎて頭が痛いし、戻りたいと思った程度で、時空を渡ることができていいはずがないだろう。元の世界に戻すため、宮廷魔術師がどれほどの死力を尽くしたと思っているのか。

「意味がわからん」

「えっと、ビルモスさまが、帰る前にこれまでのお詫びだって言って、俺が本当に願ったことならなんでもひとつだけ叶うっていう魔術をくれたんだよ」

「ビルモスが」

「うん。それで、まぁ、だから、この家の前に現れたのかなって」

 ハルトの説明はあいかわらずの要領を得ないものだったが、飛び出した名前に黙考する羽目になった。

 そんな話を聞いた覚えはないし、お詫びで与えた程度の魔術でそんな芸当ができると思いたくないのだが、いかんせん相手がまずい。ビルモスだ。

「ほら、これ。この……えっと、組紐? ちょっと壊れちゃったんだけど。お守り代わりに手首にずっと巻いてたんだよ」

「……」

 ごそごそとハルトが取り出した残骸に、エリアスは再び無言になる。淡い金色の髪で編んだ組紐だったと思しきもの。役目を終えたから壊れたと見て、まず間違いないだろう。

 魔術師の髪は魔力の源。この金髪もビルモスのものに違いない。こめかみに手を当て、目を閉じる。頭が痛い。

 天才ビルモス。不可能を可能にする奇跡の男。三十二才の若さにして、宮廷魔術師の頂点に立つ男である。

 そういうわけで戻ってきたんだけどさ、とハルトはとつとつと続けたが、もはやエリアスはほとんど聞いていなかった。

 隣町に遊びに来たかのごとき気軽さで「戻ってきた」と言うものの、同じ感覚で戻ることができるとは到底思えなかったからだ。ビルモスであれば可能なのかもしれないが。だが。

 こめかみを揉みほぐすように、指の腹で押さえる。ひさしぶりに食べたけど、師匠のごはんはおいしいね、ではないし、できれば、これからも毎日食べたいな、でもないだろう。

 危機感がないと言えばいいのか、呑気と言えばいいのか。答えを出せないまま、エリアスは目を開けた。

「……ハルト」

「なに? 師匠」

 これからいったいどうするつもりなんだ。というか、本当になにを考えているんだ。

 問い詰めるつもりだったもろもろが、うららかな日差しの中でほほえむハルトを前に立ち消える。毒気を抜かれたのだ。

「どうかした?」

 衒いのない調子で首を傾げられ、誤魔化すように髪を掻きやる。

 ――なにもわからないうちから、無駄に不安にさせることもないか。

 どちらにせよ、ビルモスに報告しないことには進まない話だ。よりいっそう宮廷に赴くことが面倒になったが、しかたがない。

 諦め半分の心境で、エリアスは妥協案を出した。棚に上げたわけである。

「まぁ、とにかく、今日はここで休めばいい」

「ええ、今日はってなんなの、今日はって」

 ハルトはぶうぶうと文句を垂れたが、今日は今日でしかないし、構っている暇もない。エリアスはすべてを聞き流した。明日の予定を組みながら、幾度目とも知れぬ溜息を呑む。

 理解不能としか言いようがない。だが、しかし。勇者ハルトが目の前にいることは、疑いようのない事実なのだ。

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