出戻り勇者の求婚

木原あざみ

0.プロローグ

 南の空に太陽がさしかかったころ、エリアス・ヴォルフは今日を始めることに決めた。

 際限なくだらだらとできるからこそ、こういったものには踏ん切りが必要なのである。隠居生活五年目にして得た教訓というやつだ。

 気楽に過ごすことに異議はないにせよ、過剰に自堕落な生活はいただけない。言い聞かせ、のそりとベッドから起き上がる。朝は苦手なのだ。

 軽く身支度を調え、台所で昨夜のスープを温める。家の裏の畑で育てた根菜とハーブを煮込んだだけの簡素なものだが、自分ひとりが食べるのであれば十分だ。

 頬にかかった銀糸をうしろで束ね、温まったスープを大きめのカップに注ぐ。居間の丸テーブルに着いたところで、エリアスはほっと息を吐いた。

 窓から差し込む春の光が、穏やかにテーブルの木目を照らしている。手には温かな食べ物があり、急ぐ仕事のひとつもない。

 ――なんとも優雅な時間だな、これは。

 そう、優雅だ。かすかな小鳥の囀りを耳に、ゆっくりとスープに口をつける。

 宮廷魔術師としてあくせくと働いた日々も今は昔。五年前に職を辞したエリアスは、王都近郊の小さな村でひっそりと生活を営んでいた。

 研究と仕事に明け暮れるばかりだった当時は想像もしなかった、のんびりとした時間。背もたれに身を沈め、エリアスはしみじみとかつての日常を顧みた。

 狭き門の選ばれし仕事であったわけだが、まぁ、なんだ。人付き合いも、政治も、なにもかも。まったく合わなかったということだ。

 幸いにして、エリアスは天涯孤独の身の上だ。自分が生きるだけであれば、宮廷勤めで貯めた金と、事情があって得ることになった報奨金。そうして、片手間に行う薬師のまねごとで事足りる。

 気づいてから、見切りをつけるまでのエリアスの行動は早かった。

 上司に惜しまれつつも退職し、王都から少し離れた静かな村の、これまた静かな森にあった一軒家をポンと購入。ひとりで暮らすようになったのである。

 決断した当時のエリアスは二十一才という若さだったので、世捨て人の暮らしをやめさせようとするお節介もあったが、それも半年ほどのことだった。

 五年が過ぎた現在は、かつて縁があった宮廷騎士と、かつての上司の使い走りが訪ねてくるくらいのものである。

 そういえば、少し前に現れた子どものような風貌の宮廷魔術師に、「頼むから宮廷に顔を出してくれ」と泣きつかれたのだった。ビルモスが背後で催促しているのだろうが、変わり者の上司と変わり者の自分に挟まれ、あの若者も気の毒なことである。

 ――しかたない。近日中に一度足を運ぶとするか。

 面倒ではあるものの、頼まれた仕事もある。本当に心底面倒ではあるものの、ビルモスにはそれなりの恩もある。

 とは言え、面倒だな。はぁ、とエリアスは溜息を吐いた。頭で理解していても、面倒なものは面倒だ。

 村に出て、乗合馬車に揺られること、片道だけで二時間弱。宮廷でなんやかんやとしているうちに日は暮れて、最後の仕上げがビルモスの小言に違いない。いわく、「きみはいつまで、その日暮らしを続けるつもりかな?」。想像の時点で億劫だ。

 優雅だった時間が、一気に憂鬱に成り下がる。気を取り直すべくカップを持ち上げた瞬間、指先にチリッとした感覚が走った。強い、魔術の気配。

「……なんだ?」

 こぼれた疑問に答えるように、魔力の源である髪がぶわりと浮き上がる。魔の力が充満し始めたのだ。五年前と同じ、とんでもないレベルの魔術の波動。

 ――なぜ、そんな力が、この家の前で?

 王都から離れた、辺鄙な森で。カップをテーブルに置き、ふらりと扉に向かう。強大な魔術だが、まったくと言っていいほど害意がない。そのせいか、警戒心が機能しなかったのだ。

 なにせ、自分はこの魔術を知っている。必要と判断した人間を、問答無用に異世界から召喚する、特定魔術。いや、だが、まさか。

 あふれんばかりの疑問の中、扉を開けたエリアスは呆然と呟いた。

「ハルト」

 土煙にも似た淡い金色の靄の中心にいる、黒い髪に黒い瞳を持つ青年。

 記憶にある顔より大人びているものの、メルブルク王国において、黒い髪と黒い瞳は勇者の証。なによりも、自分が見間違えるはずがない。

 まさかが現実となった事態に、呆気に取られたまま、人影を凝視する。青年がハルトであるということ以外、皆目理解ができなかったからだ。

 一筋の風が吹き、靄が晴れる。青年の顔がゆっくりと上がり、猫のような瞳が瞬いた。あの当時のかわいらしさの少し抜けた、青年らしく整った顔。

 エリアスの目の前で、青年の表情はうれしそうなものに移り変わっていく。

「ただいま、師匠」

「ただいま?」

 うれしそうな顔の意味も不明だが、再び召喚されたことに対する文句もなく、「ただいま」とはいったいどういう了見だ。わけがわからず言葉尻を繰り返す。

 ――いや、そもそも、これは召喚なのか?

 五年前、元の世界に戻ったはずのハルトがいるのだ。魔術で世界を渡ったことに間違いはないだろう。

 だが、しかし。あの特定魔術は、入念な準備の上で、一級の魔力を誇る宮廷魔術師が数人がかりで行うものなのだ。召喚した七年前も、送り返した五年前も、複雑で周到な手順を踏み、エリアスたちは実行をした。身をもって知っている。

 それが、なぜ。混乱の渦中にいるエリアスの心境などお構いなしの様子で、ハルトは足を踏み出した。

 そうして、かつて勇者だった子どもは、

「俺と結婚してください」

 と、混乱に拍車をかけることを言ってのけたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る