移り変わる車窓の景色を眺めながら、建は胸を躍らせていた。

 これから霊能省の車で出雲に向かうところだった。

 国レベルの試合が終わると、今度は二週間後、月の半ばくらいから地域レベルの霊能試合が始まる。各地域を一週間くらいかけて霊戦士が回るのだ。それまでの二週間、霊戦士は各自休養を取ったり、地域レベルの霊能試合に備えた準備をする。

 建は今回、出雲大社の視察という名目で霊能省から車を手配してもらっていた。彼は亜矢と共に無敗を誇るエリート霊戦士のため、それなりに優遇されているのだ。

 今回の訪問に関して、出雲大社の方には事前に連絡を済ませて了承を得ている。

 その本当の目的は視察などではなく、自分の想い人に会いに行くためだということで少々罪悪感はあるが、この際だから気にしないでおこう。ここで中途半端になっては、背中を押してくれた亜矢に対して申し訳が立たない。

 そうだ、今回自分は白百合に交際を申し込みに行くのだ。今日は大事な一日なのだ。

「何だか妙に気合入っているね~。エロいことでも考えてんの?」

 大事な一日なのだが……

「……ていうか、何でお前が付いてくんだよ呂戯!」

「うるさいな。車内では静かにしてくれよ、耳に響くんだ」

 嫌悪感をあらわに呂戯が言った。

「くっ、この……」

 建は握り拳を震わせた。

「いや~、それにしても出雲までは遠いね。僕もう肩が凝っちゃったよ」

「じゃあ付いて来るんじゃねえ。今すぐこの車から降りろ!」

「いやいや、そういう訳にはいかないよ。なにせ、建くんが好きな子に交際を申し込むなんてイベント見逃すわけにはいかないじゃん」

「冷やかしのつもりか?」

 建が睨みつけると、呂戯はふっと微笑した。

「僕はただのお目付け役さ」

 そう言って、呂戯は背もたれに身体を沈めた。

 建はそんな呂戯を神妙な眼差しで見つめた。

 十年以上前、まだ人間が神々に過剰なまでに魂を搾取されていた頃、天上界から人間界に派遣された魂税徴収神の活動は盛んだった。重い魂税によって魂を奉納することができなくなった人間からも容赦なく魂を吸い取り、そのせいで多くの人間が死に追いやられた。今目の前にいる呂戯もその一人だ。そしてこの呂戯は昔建の父である仁と何度かやり合ったらしい。詳しいことは知らないが、そのせいか自然と建にも関わってくるようになったのだ。

「……まあ、良いさ。妙な真似しやがったら容赦なく斬るだけだからな」

「へえ、この僕を斬る? 君に出来るのかな?」

 呂戯の口調は挑発的だった。

「俺が霊戦士として修行しているのは仕事のためと、もう一つはいつかお前をぶった斬るためだからな」

「おー怖い。僕は君をそんな子に育てた覚えはないよー」

 呂戯は相変わらず癪に障る言い方をするが、これ以上言い合っても不毛なので、建は再び窓に映る景色を見つめた。

 白百合、早く君に会いたいよ……



 出雲家の屋敷にたどり着くと、建と呂戯は一人の若い巫女に出迎えられた。

「ようこそお越し下さいました」

 丁寧にお辞儀をされたので、建も同じように礼を返す。

「こちらこそ、突然お訪ねして申し訳ありません。あの、隆康さんは?」

「隆康さまは社務所の方にいます。間もなくこちらに参ると思いますので、どうぞ中に入っておくつろぎ下さい」

「分かりました。それで、あの……白百合さんに会いたいんですけど大丈夫ですか?」

 すると、若い巫女は表情を曇らせた。

「実は、いま白百合さまはあまり体調がよろしくなくて……もうしばらくしたら落ち着くと思うので、それまで待っていただけますか?」

「そうなんですか? 白百合は大丈夫なんですか?」

「そんなに心配なさらなくても大丈夫ですよ。白百合さまはお体の弱い方ですから度々体調を崩されますが、深刻な状態に陥る危険はいまのところはありませんから」

 その言葉を聞いて、建は少しだけ胸を撫で下ろした。

「そうですか……分かりました、白百合さんにはまた後で会います」

「申し訳ありません……では、ご案内いたします」

 巫女に先導されて建と呂戯は歩き出した。

「いやー、残念だったね。大好きな巫女姫ちゃんに会えなくて」

「仕方ないさ。まだ時間はたっぷりあるし、彼女の体調が良い時に会えればそれで構わない」

「ふーん、大人ぶっちゃって」

「別に大人ぶってねえよ」

 そんなやりとりをしながら玄関まで続く長い道を歩いていた。

 ふと、建は脇に目をやった。

 その目に映ったのは、先月こちらを訪れた時にも見た、古めかしい倉であった。

 立派なこの屋敷の建造物の中で特別な存在感を放っている訳ではない。けれども、なぜだか気になってしまうのだ。

「……どうしたの? あの倉が気になるのかい?」

 ふいに、呂戯が話しかけてきた。

「いや、別に……ただ何となく見ただけだよ」

 建が答えると、呂戯はその倉をじっと見つめた。

 直後、呂戯は何を思い立ったのか、急にその倉に目がけて走り出した。

「そんなにあの倉が引っかかるなら見に行こうよ!」

「は? おい、呂戯!」

 呂戯の後を追いかけるように建も駆け出した。

「ちょっと、お二人とも!?」

 後ろで若い巫女が叫ぶが気にかけることなく、呂戯は倉の前にやって来た。

「おい、呂戯。お前いきなり何してんだよ?」

「まあまあ、気にすんなって……それよりも、この倉カギがかかっているみたいだね」

 倉の扉は厚い鉄で出来ており、かなり頑丈な造りになっているようだ。

「すいませーん、巫女さん。この扉開けてもらえます?」

 呂戯が呼びかけると、巫女は眉をひそめて首を振った。

「申し訳ありませんが、部外者の方は立ち入り禁止ですので」

 その言葉を聞いて、建は罰の悪そうに苦笑した。

「ですよね。すみません、こいつちょっとアホなんですよ」

 建がその場を取り繕っていると、呂戯は小さく鼻を鳴らした。

「ふーん……じゃあ、僕が自力で開けちゃおうっと」

 そう言って、呂戯はおもむろに腰に下げていた鞘から刀を抜いた。

 青黒く輝く刀身が姿を現す。

「よっと」

 呂戯は軽く刀を振るった。あまり力の無いように見えた太刀筋は、一瞬にして頑強な鉄の扉を切り裂いた。けたたましい破砕音が響く。

「おい呂戯! お前何をやってんだ!?」

 建は咎めるように叫んだ。

「まあまあ、建くん。ちょっと中を見てみなよ」

 呂戯は破壊された扉の鉄屑をひょいと飛び越えて、倉の中に入った。

「はあ? この期に及んでお前は何を……」

 言いかけて、建は思わず息を呑んだ。

 倉の中は薄暗い。だが、扉が壊されたことによって日差しが入り、その中がおぼろげながら見えた。

 倉の奥には台座があった。周りにはろうそくや何かの飾り物が置かれており、どこかおどろおどろしい雰囲気を醸し出している。しかし、それらよりも目を引き付けるのは、血のりで描かれた紋様だった。

「これは……」

 建は絶句した。このおぞましい光景を、建は過去に見たことがある。

「……そう、君なら知っているよね建くん。これはかつて、君のお父さんがスサノオ神と戦う時に使った禁術、『解脱莫良(げたつばくら)』を行うための術式だっていうこと」

 闇に光る呂戯の視線を受けて、建は胸を焼かれるような感覚に襲われた。

解脱莫良――それは霊能者にとって触れてはならない禁忌。

 この禁術を使えば、莫大な霊力を得ることができる。それは、神にさえ匹敵する程の力だ。

 だが、その代償として己の肉体を失う。人間としての命を終えるのだ。

 つまり、己の肉体と引き換えに莫大な霊力を得る――それが禁術・解脱莫良だ。

「そんな……何でこんなものが?」

 驚愕に打ち震える建に対して、呂戯が呼びかける。

「ねえ、建くん。この儀式ちょっと完璧じゃないね」

「どういうことだ?」

「いや、ちょっと言い方が違うかな。これは本来の解脱莫良よりも効力を薄めているね。儀式のための血の量も全然少ないし」

 そう言って、呂戯はくるりと振り返った。

「ねえ、巫女さん。これってどういうことかな?」

 同じく建も振り返った。しかしその問いに対して、巫女は押し黙ったままである。

「あの、何か知っていることがあるんだったら教えてくれませんか?」

 建が追求するように言った時だった。

「――こんなところで何をしていらっしゃるんですか?」

 突然、倉の中に静かな声が響き渡った。

 一斉に振り向くと、そこには出雲家当主の隆康が立っていた。

「隆康さん!? これは一体どういうことですか!?」

 建は思わず叫んでいた。

「……ああ、見てしまったのですね。いけませんよ、いくら名のある霊戦士とはいえ、他人の家を勝手に嗅ぎ回るなんて」

 あくまでも冷静な口調で隆康は言った。

「まあ、見てしまったものは仕方がありません。この際ですからお話しいたしましょう」

 隆康はゆっくりとした歩調でこちらにやって来た。

「私はこの出雲大社を誇りに思っております。また、その宮司である『出雲国造』としての営みに最善を尽くしています。いつかこの出雲大社をもっと発展させたいと強く願っているのです」

 そこで隆康は上を向き、過去を思い出すように語り出す。

「今から十五年前に起きた大災害をきっかけに、我々日本人は今まで以上に神様との繋がりを強めました。私はその時、初めて出雲大社の主祭神であるオオクニヌシ様にお会いしました。そこで願いました。この出雲大社を今以上に発展させましょうと。そして、ゆくゆくは日本の祭祀の中心になりましょうと。日本の祭祀の中心は伊勢神宮ですが、本来この国を造ったのはオオクニヌシ様であり、そのお方が祭られている出雲大社が祭祀の中心となるべきなのです」

 オオクニヌシは国津神であり、その中でもリーダー的存在の偉大な神であった。オオクニヌシは地上世界を統治するために国造りをした。有力な神々の協力もあり、無事に国造りを終えたのだが、ある時高天原に居る天津神から国を譲るように命じられた。オオクニヌシはその要求に応じ、代わりに自分が隠居するための立派な宮を造らせた。それが出雲大社の起源である。そして、オオクニヌシの国譲りがなされたのだ。

 建は眉をひそめて問いかける。

「つまり、隆康さんは出雲大社を日本の祭祀における中心的存在にしたいと?」

「その通りです。オオクニヌシ様とて、本当ならば国譲りなどしたくはなかったはず。自分が造った国で中心的存在になれなくて不満に思っている。また、私達出雲家の先祖はアマテラス様の系譜です。それにも関わらず、祭祀の中心になれない悔しさを抱えてきました。ですから、お互い同じ思いを抱えていると思い、オオクニヌシ様に願ったのです。共に祭祀の中心という位を我らが出雲大社に奪還しましょうと」

 隆康は一つ息を吐いた。

「……ですが、オオクニヌシ様は私の申し出を断られました。あの方は、すでにこの国を造ったという誇りを失って、あくまでも不干渉の姿勢を貫くとおっしゃったのです。私は失望しました。そんな時に、あるお方に声をかけていただきました。それが高天原の政治を握る偉大なタカミムスヒ様だったのです。そして、タカミムスヒ様は私の願いのために協力をして下さるとおっしゃいました。ただその代わりに、タカミムスヒ様はあるものを私に要求してきました」

 辺りはしんと静まり返っていた。その中で建は息を飲んだ。

「――それは、我が出雲大社の巫女の霊力です。ですから私は、巫女であった妻の霊力をタカミムスヒ様に奉納することにしました。妻は巫女としてそれなりに高い霊力を持っていましたが、タカミムスヒ様を満足させるにはやや足りなかった。そこで私が思い付いたのが禁術・解脱莫良です。普通に行うと死んでしまいますから、効力を薄めて繰り返し行い、妻の霊力を高めることができました。こうして、私は妻の霊力をタカミムスヒ様に奉納してきました。しかし、効果を薄めたとはいえ解脱莫良は確実に使用者の体を蝕みます。繰り返し行われた解脱莫良の影響で体の弱った妻は、三年ほど前に亡くなりました」

 そこで、隆康はじっと建を見据えた。

「そう、だから後継者が必要になったのです。引き続きタカミムスヒ様にお力添えをしていただくために。その後継者というのが――私の娘である白百合です」

 その言葉を聞いた瞬間、建は言葉を失った。同時に、頭が真っ白になる。

 白百合の母は三年前に、解脱莫良の影響で体が弱って亡くなった。

 そして三年前といえば、建が初めて白百合に会った時だ。ずっと床に伏していたので、病弱な少女なのだと思った。周りからもそう言われていた。

 けれどもその病弱の原因は、禁術・解脱莫良に体を蝕まれたから……

「白百合の霊力は妻のそれよりも上等だということで、タカミムスヒ様も大変お気に召していました。ただ問題なのは、白百合はまだ若かったせいか解脱莫良による体の蝕みが早く、寝たきりの生活をするようになってしまいました。ですから、今後私が何よりも考えるべきことは、白百合の体を労り、少しでも長くタカミムスヒ様に奉納を続けることです」

「……違うだろ」

 ふいに、建は喉の奥から絞り出すように声を発した。

「何が違うのですか?」

 隆康は含み笑いを浮かべながら建を見た。

「隆康さん……あなたは、自分が何をしているのか分かっているんですか?」

「ええ、もちろんです。私は出雲大社繁栄のために努力をして……」

 その瞬間、建の中で何かが弾けた。

「ふざけんじゃねえ! 何が出雲大社の繁栄だ! そのために、あなたは、あなたは娘である白百合のことを、まるで道具のように扱ってるんだぞ! それが人のやることか!?」

 激昂する建を見て、隆康は小さく吐息を吐いた。

「それが白百合の運命なのですよ」

「はあ?」

「この出雲大社に巫女として生まれた以上、その繁栄のために尽くさねばなりません。ましてや、その繁栄に手を貸して下さる神様に対して身をもって奉仕するのは当たり前のこと。むしろ、そのことに幸福を覚えるべきなのです」

「あなた、本気で言ってるのか?」

 震える声で建が問いかけた。

「本気ですよ。当然でしょう。飛鳥さん、あなたなら分かってくださると思っていたのですが」

 建は眉をきつく寄せて隆康を睨む。それに対してひるむことなく隆康は続ける。

「飛鳥さんのお父様は、十年前の『霊能戦争』において、自らの命を犠牲に国民を救ったではないですか。それは、自らが成すべきことだと思っての行いだったのではないですか?」

 建は唇を強く噛みしめた。そのせいで、血が流れる。

「父さんのことは関係ないでしょう……!」

 建の理性は最早崩壊寸前だった。怒りに震える拳が、いつ目の前の隆康に手をかけても不思議じゃない。

「……そうだ、飛鳥さん。突然ですが、あなたは娘の白百合に好意を寄せていますよね?」

 隆康の問いかけに、建は無言で睨み返す。

「良いですよ、白百合をあなたに差し上げましょう。霊戦士として名高いあなたが婿入りしてくださればうちの名も上がることでしょう」

 そこで隆康は柔らかな笑みを浮かべた。

「あのように体の弱い娘でよろしければ、もらってやって下さい」

 この男は一体何を言っているのだろう。

 自らの娘をまるで道具のように扱って、さんざん痛めつけて。

 挙句の果てにこの言いざま。もう、自分はもう……

「…………殺す」

 低く呻くような声を上げて、建は抜剣した。

 瞬時に腰を落とし、目の前の隆康に斬りかかる。

「うあああぁぁ!」

 尋常じゃない叫びと共に、建の鋭い剣閃が繰り出される――

 刹那、建の霊剣目がけて鋭い太刀筋が飛んだ。甲高い金属音が鳴り響く。

「……やめておきな、建くん」

 建の目に立ちはだかったのは呂戯だった。

「どけよ呂戯……俺はこいつをぶっ殺さなきゃならないんだ」

「殺してどうなるのさ?」

「白百合が救われるんだ」

 鬼の形相を浮かべる建を見て、呂戯はため息を吐いた。

「君が人殺しになったら、巫女姫ちゃん悲しむと思うよ」

 呂戯の言葉を受けて、建の脳裏に悲しげな白百合の表情が浮かんだ。

「とりあえず落ち着け。その場の勢いでする行動は、だいたい不幸にしかならないから」

 諭すように呂戯が言った。

 いつになく真剣なその眼差しを見て、建は幾分か冷静さを取り戻した。

「……分かったよ」

 吐き捨てるようにそう言った。

 一方、隆康はあくまでも平然とした様子でその場に立っていた。

「……では、飛鳥さん。このお話しの続きはまた日を改めてしましょう。そうそう、宿はうちの屋敷にある客人用のお部屋をお使い下さい」

 そう言って隆康は踵を返して歩き出し、途中ではたと何かを思い出したように立ち止った。

「ああ、それからこのことは他言無用でお願いしますよ。まあ、もし仮に霊能省に報告しても無駄ですけどね。タカミムスヒ様の威光がある内は」

 そう言い残して、隆康は去って行った。

 その場に取り残された建は、呆然とした顔で俯いていた。

 すると、若い巫女がおずおずと口を開く。

「……あの、それではお部屋にご案内いたしますので」

 その呼びかけに対して建はうつろな目で振り返った。

 今しがた隆康の口から聞かされた白百合の話は、建にとって大きな衝撃を与えていた。

 何かしら重いものを背負っている少女だとは思っていたが、まさかこれほどまでに残酷な運命に晒されていたなんて。

「……すみません。部屋の案内は後にして、まずは白百合のところに案内してもらえませんか?」

 建がそう問いかけると、若い巫女は戸惑ったような顔になった。

「いえ、先ほども申しましたが白百合さまは体調が優れなくて……」

「良いから! 案内してくれませんか。ほんの少しだけで良いから、お願いします」

 建は懇願するように言った。

 若い巫女はしばし逡巡するように目を伏せた。

「……分かりました。ご案内いたします」

 建の気迫が勝ったのか、若い巫女は根負けした。

「白百合……」



 建は一月ぶりに、白百合が眠る部屋の前に立っていた。

「ここに巫女姫ちゃんがいるんだね」

 となりにいた呂戯が呟く。

 建は小さく頷き、一つ吐息を漏らす。

 そして、ゆっくりと部屋の戸を開けた。

 前と同じように薄暗い部屋だった。その中央で床に伏していたのは、白百合だった。

 建は今にも駆け出したくなる衝動抑えて、ゆっくりと近付いた。

「白百合……」

 その時、建の目に映ったのは苦しそうに顔を歪める白百合だった。

「……ぅぅ」

 掠れるような吐息を漏らしながら、白百合は苦痛に呻いていた。

 彼女の白く美しい肌は、青ざめると言うよりは土気色に染まっている。明らかに生気を失った表情だった。

「白百合!」

 建はとっさに呼びかけていた。以前会った時よりも弱っている白百合を見て、とてつもない焦燥感にかられたのだ。

 少し間を置いて、白百合がゆっくりと目を開いた。

「白百合? 大丈夫か?」

 建に気が付いたのか、白百合の表情にやや生気が戻った。

「建さん……どうしてここに?」

「君に会いに来たんだよ」

「まあ、本当ですか……嬉しい」

 今にも消え入りそうな声で、白百合は言った。

 そんな彼女を見て、呂戯が珍しく神妙な面持ちを浮かべた。

「これは、相当に霊力を吸い取られちゃっているね。タカミムスヒに奉納したのはごく最近みたいだ」

 呂戯はそのまま、苦しむ白百合を冷静な眼差しで観察する。

「巫女姫ちゃんは相当に霊力が高いみたいだ。解脱莫良によってというのもあるが、元々の素質がずば抜けている。けれども、霊力が高ければ高いほど、失った時のダメージは大きいし回復にも時間がかかる。その上解脱莫良で体が弱っているとなったら……気の毒だけど、その子はもういつ死んでもおかしくない」

 建は鋭い視線を呂戯に向ける。

「おい呂戯、お前何を言って……!」

 建が激昂しかけた時、

「……その方のおっしゃる通りです」

 白百合の声が静かに響いた。

「お父様からお聞きになったのですね? 出来れば、建さんには知られたくなかった」

 天井を見つめたまま白百合は言った。

「何で君はそんなことをするんだ? いくら父親の言うこととはいえ、従う必要なんてないだろ?」

「……仕方がありませんよ。わたくしは出雲大社の巫女として生まれたのですから。そのために奉仕をするのは当然のことです。それが例え、自分の命を差し出すことになっても」

「そんな出雲大社の発展よりも、君の命の方が軽いって言うのか?」

 建の声は震えていた。

「建さん、わたくしが霊力をタカミムスヒ様に奉納すれば、出雲大社だけではなく、国民のみなさまのためにもなるのです」

 建は眉をひそめた。

「どういうことだ?」

 白百合は苦痛に顔を歪めながらも、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

「十年前の『霊能戦争』によって神々に奉納する魂税が大幅に下がりました。それは神々も納得した結果ということでしたが、神々の中にはそれに対して不満を持つ方もいらっしゃいました。タカミムスヒ様もその一柱でした。タカミムスヒ様は神々の世界において政治の実権を握ってらっしゃいますから、再び人間から徴収する魂税を上げようとしていました。そんな折に、兼ねてからタカミムスヒ様と関わりのあった父が、出雲大社を発展させるために巫女であった母の霊力を奉納し始めました。厳密にはその前から母の霊力をタカミムスヒ様に奉納していたのですが、更にその奉納する量を増やしたのです。そのおかげで、魂税の増加を見送ってもらうことができたのです。そして母が亡くなり、その役目はわたくしが担うことになりました。わたくしはこの出雲大社の発展、そして国民のみなさまの健やかな暮らしのためならば、この身を犠牲にしても構いません」

 そこまで言い切って、白百合は咳きこんだ。

 建はこの白百合という少女に対する認識を改めていた。

 初めて会った時以来、とにかくか弱くて守られる存在だと思っていた。

 だが、実際には違った。彼女はむしろ守る側の人間だった。

 彼女は決して弱くなんかはない。とても芯のある強い女性だった。

 そんな彼女は立派だと思う。

 けれども……

「……何でだよ」

 建は震える声で白百合に問いかける。

「何で一人で抱え込もうとするんだ? 何で一人で苦しい思いをしようとするんだ?」

「建さん……?」

 握った拳の震えが止まらない。建は、ある意味先ほどの隆康以上に、白百合に対して怒りを覚えていた。

 自分一人を犠牲にして他の人を救うというのは、確かに立派な行動だ。

 でも、建はそれを素直に尊敬することはできない。むしろ軽蔑する。

 その犠牲になる本人は良くても、その近しい家族や友人、恋人は、残される者達の想いはどうなるのか?

 一見美徳に思える自己犠牲の精神は、残される者達のことを考えないただの自己満足だ。

 十年前の「霊能戦争」で、建の父である飛鳥仁も、自らの命を犠牲にして国民を救った。

 国民は彼を英雄と称賛したが、残された建にとってはそんな風に思えなかった。

 とても悲しんだ。父のことを尊敬していたから。だから余計に、父が自らを犠牲にして死んだことが悔しかった。

 そんな父と白百合を姿が重なって、建は無性に腹が立ったのだ。

「分かるよ。君がこの出雲大社に生まれた以上、そういう運命は避けられないって。それを悟って素直に受け入れる白百合は本当に良くできた女だと思う。けどさ、おかしくないか? だって、今の白百合は有体に言えば神に捧げる生贄みたいなもんじゃないか。そんなの大昔の風習じゃないか。確かに今は神々との繋がりが強まってそういった風習が復活するのも自然な流れかもしれないけど……それでも絶対に間違っている! 白百合ひとりがこんなに苦しい思いをするなんて絶対に間違っている!」

 白百合はゆっくりと建に顔を向けた。

「ですが、わたくしは、白百合は……」

「白百合だって本当は辛いんだろ? 前に白百合と会った時、俺に助けを求める声が聞こえたんだ。あの時白百合は口では何も言わなかったけど、確かに白百合の心の声が俺に聞こえたんだよ!」

 建は精一杯の想いを込めて言った。白百合の手を握り締めて、力強く。

「ねえ、建くん。君いま巫女姫ちゃんの心の声が聞こえたって言ったかい?」

 ふいに、呂戯がそんな問いかけをしてきた。

「ああ、言ったけど。それがどうかしたのか?」

 建が訝しむように問いかける。

「……いや。ところでさ、建くんはいま目の前で苦しんでいる巫女姫ちゃんを助けたいと思うかい?」

「は? そんなの当たり前だろ」

「そうかい……じゃあさ、君の魂力……いや霊力か。それを巫女姫ちゃんに分けてあげよう」

 いきなりの呂戯の提案に、建は目をしばたたかせた。

「いや、それは無理だろ。霊力は他人のものを分け与えることが出来ない。仮に自分以外の霊力を受け取っても、拒否反応を起こして下手すれば死ぬことぐらい知っているだろ?」

 魂力あるいは霊力は他人に与えたり、受け取ったりすることが出来ない。神々は己以外の霊力を吸い取ることが出来るが。少なくとも人間においては、それが不可能とされている。

「もちろん、それくらい知っているさ。けどね、君達は特別なんだよ。これから僕が言う通りにやれば、建くんの霊力を巫女姫ちゃんに分け与え、容体を回復してあげることができる」

 呂戯は自信ありげに言った。

「けど、そんな話しを信じられるかよ」

「まあまあ、騙されたと思ってやってみなよ。じゃあ、そのやり方を教えるね」

 困惑する建をよそに、呂戯は飄々とした口調で言った。

「――それはね、キスをするんだよ」

 建は一瞬目を丸くした。

「…………は?」

「だから、キスだよ。別の言い方をすれば口づけ、あるいは接吻とも言う」

「それは知っている! けど、何でそうなるんだよ!」

「だから、騙されたと思ってやってみなって言っただろ? それとも君は、目の前で苦しんでいる巫女姫ちゃんをただ黙って見ているだけなのかい?」

 あくまでも飄々とした呂戯の言葉を受けて、建は目の前で床に伏す白百合を見つめた。

 白百合の力になれるのであれば何でもしたい。けれども、呂戯の言う通りにして本当に上手くいくのだろうか?

「じゃあ建くん、こうしよう。もし僕が言った通りにやって巫女姫ちゃんに何かあったら、僕が責任を持って対処する。最悪の事態にならないように最善を尽くす。どうだい?」

「……何でお前がそこまで?」

「だって、僕は君のお目付け役だもん」

 相変わらず人を食ったような笑い方だが、呂戯の目には真剣な光が宿っていた。

 建はしばし押し黙った。そして、ふっと呂戯を真っすぐに見据えた。

「分かった。今回はお前のことを信じてやるよ」

 呂戯は微笑した。

「それはありがたい」

「ところで、本当にその……キスをするだけで良いのか?」

「だけってことはないだろう? 大好きな女の子とするキスなんて人生最大の瞬間じゃないか」

 呂戯がにんまりと笑みを浮かべながら言った。

「お前、ふざけんな……」

「あ、ていうか大事なこと忘れていたよ」

 ふと思い出したように呂戯は言って、白百合の下にやって来た。

「ねえ、巫女姫ちゃん。これから建くんが君にキスをするんだけど大丈夫かい?」

「何の確認してんだよ!」

 建は顔を真っ赤にして言った。

「いやいや、大事なことでしょ。君はもちろん大丈夫だとして、相手の巫女姫ちゃんが大丈夫とは限らないじゃん。そこんとこ、しっかりと確認しておかないとさ」

 何かを言いたそうに唸る建を脇目に、呂戯は白百合に向き直る。

「さあ、巫女姫ちゃん。どうなんだい?」

 その問いかけに対して、白百合は小さく唇を噛みしめたが、やがて微笑した。

「……建さん」

 ふいに呼ばれて、建は慌てて振り向く。

「な、何だ?」

 柔らかな笑みを浮かべたまま、白百合は建を見つめた。

「白百合に口づけをして下さい」

 直後、建は自らの顔が急激に熱くなるのを感じた。

 そして、対する白百合も頬を赤く染めて目を伏せた。

「わお、良かったね建くん。そんじゃあ早速キスをしてもらおうか」

「わ、分かった」

 建の返事は少し上ずっていた。

「もちろんただキスをするだけじゃダメだよ。キスを通して建くんの霊力を巫女姫ちゃんに流し込むことを意識してね」

 呂戯の言葉に頷き、建は改めて白百合と向き合った。

 白百合は体を起こそうとするが、建はそれを制した。

「寝たままで良いよ」

「……はい」

 そして、建と白百合は互いに見つめ合った。

 正直、呂戯が見ていることなど気にならなかった。

 それくらいに、建はその意識を白百合にだけ集中させていた。

「じゃあ、行くよ白百合……」

「はい、来て下さい建さん……」

 建が囁くように呼びかけ、白百合はしとやかに答えた。

 そして――二人はゆっくりと互いの唇を重ね合わせた。

 白百合の薄くも柔らかい唇が心地良い。ずっとこのままで居たい。

 甘美な時の中で建は意識を失いそうになったが、本来やるべきことを思い出し、自らを鼓舞するように意識を取り戻した。

 意識を集中させて、自らの霊力を白百合に注いでいく。

 すると、二人の唇の接点からきらびやかな光が溢れ出した。

 建の中の霊力が、白百合の中に流れ込んで行く。

 その過程で、それまで生気を失っていた白百合の顔に徐々に血色が戻ってきた。

「……うん、もうそろそろ良いよ」

 呂戯の言葉を合図に、建はゆっくりと半ば惜しむように白百合から離れた。

 そんな建を見て呂戯は、

「あ、ごめん。もっとキスしていたかった?」

「ふざけんな」

「はいはい、ごめんね」

 呂戯を睨みつけた後、建はふっと白百合の顔を見た。

 先ほどよりも幾分か表情が和らいだように見える。

「白百合、気分はどうかな?」

 白百合は閉じていた瞳をゆっくりと開いた。

「……はい、建さんのおかげで何だか元気になったような気がします」

 優しい微笑みを浮かべて白百合は言った。

「そうか、良かった」

 建もにこりと笑みを浮かべた。

「どう、僕の言ったことは本当だったでしょ?」

 誇らしげに呂戯が言った。

「ああ、今回ばかりはお前のことを認めるよ。ところで呂戯」

「ん、何だい?」

「つまり、キスをすれば他人同士で霊力を分け与えたりすることが出来るのか?」

「いや、そんな訳ないじゃん。そんなことしたって他人同士で魂を分け与えるなんてできないよ」

「は? だって、今確かに……」

 そこで、呂戯は息を吐いた。

「だからさ、言ったじゃん。君達は特別だって」

「……どういうことだよ?」

 訳が分からずに建が問いかける。

「……じゃあさ、建くん。ちょっと昔話をしてあげようか」

 いきなり呂戯がそんなことを言い出した。

「昔話だって?」

「そう、昔話。とってもためになる」

 何やら得意気な呂戯の顔を見て、建はため息を吐きながら続きを促す。

「じゃあ、話してみろよ」

 呂戯は息を整えるように咳払いをひとつした。

「では……むかしむかし天上界の高天原に、呂戯さんという大変男前な神様がいました」

「おい、何だよそれは」

 建は白い目で呂戯を睨む。

「良いから最後まで聞きなって」

 そして、呂戯は再び語り出す。

「呂戯さんは基本的に何でもできちゃう優秀な男神でしたが、あまり上昇思考はなく、ある程度の位に収まっていました。

 そんな呂戯さんはあるお偉いさんに仕えていました。それは高天原の政治を取り仕切るタカミムスヒ様でした。タカミムスヒ様は巧みな根回しにより絶大な政治力を誇っていました。戯さんはそんなタカミムスヒ様がちょっと気に食わなかったけど、まあどうでも良かったので付き従っていました。

 ある時、呂戯さんはタカミムスヒ様に付いて高天原の見回りをしていました。正直かったるいし帰りたいなと呂戯さんが思っていた時、突然周りのみんながざわめき出しました。騒ぎに気付いた呂戯さんが不思議に思って辺りを見回すと、『大いなる魂』が昇って来たのです。その霊力は、下手をすれば最高神であるアマテラス様にも匹敵するほどでした。タカミムスヒ様は周りの者たちに命じて、その『大いなる魂』を生け捕りにし、自身の管理下に置きました。タカミムスヒ様は明言した訳ではありませんが、その『大いなる魂』を利用して、最高神アマテラス様を陥れ、高天原の統治者になろうと目論んでいたのでしょう。

 その後、保管された『大いなる魂』は、タカミムスヒ様に仕える者達が交代で監視していました。当然、呂戯さんにもその役割は回ってきました。その時、呂戯さんはふと思いました。『あんな爺さんが高天原の、ひいては人間界も含めた世界の統治者になるなんてつまんないな』……と。そこで呂戯さんは内緒でその『大いなる魂』を持ち出しました。そして、再び捕えられてその力がタカミムスヒ様に利用されないために……呂戯さんはその『大いなる魂』を刀で真っ二つに分断しました。そして、二つに分かれた魂は地上の人間界に降りて行きました。

その後、タカミムスヒ様に呂戯さんが『大いなる魂』を持ち出したことはバレませんでしたが、大変お怒りになったタカミムスヒ様によって、仕えていた者達は呂戯さんも含めてみな人間界に派遣されました。ぶっちゃけ左遷です。しばらくして彼らは魂税徴収神となりました。その後『霊能戦争』やら何やらがありましたが呂戯さんは元気に人間界で過ごしていました」

そこまで言って、呂戯は改めて建と白百合を見つめた。

「――そしていま呂戯さんの目の前には、かつて呂戯さんが分断して二つに分かれた『大いなる魂』を持つ一人の少年と少女がいましたとさ……めでたし、めでたし」

 呂戯が語り終えると、その場は沈黙に支配された。

 彼の語りを聞いていた建は、しばらく呆然と佇んでいた。

「あれ、どうしたのボーっとしちゃって。せっかく呂戯さんが分かりやすく物語風に説明してあげたのに……まあつまりね、建くんと巫女姫ちゃんの魂は元々は同じ一つの魂だったの。それが分断されて、それぞれの体に宿ったの。そうだね、言うなれば君達は『魂の双子』ってところかな。さっき建くんが巫女姫ちゃんの心の声が聞こえたって言ったけど、それは元は同じ魂が共鳴したからだね。それから、本来なら不可能なはずの他人同士の魂のやり取りが出来たのも、君たちの魂が元々は一つのものだったからさ。まあ、言っちゃうと本当はキスとかする必要なかったんだけど、ノリでやらせちゃったよ」

 あくまでも軽薄な調子で呂戯は言った。

 いきなり語られた真実を、建はすぐに飲み込むことは出来なかった。

 自分と白百合の魂は元々は一つの魂で、それが分かれて自分達に宿った。

 それで二人は『魂の双子』ということ。

 そんなこといきなり言われても受け入れることなんて出来ない。

 それはもしかしたら肉体的な双子よりもずっと繋がりの強いものかもしれない。

 なぜなら、肉体的な双子は血の繋がりとかあるがそもそもは別の人間同士だ。

 けれども、元は同じ魂が分断されて宿った自分達は、元々は一つの存在だということだ。

 そんな二人が出会って、恋に落ちた。果たしてそれは許されることなのか?

 いや、それ以上に自分達の気持ちが――

「俺達は一体……」

 建は呆然自失とした表情で白百合を見た。

「建さん……」

 白百合も同じような顔で、建にすがるような声をかけた。

 そんな二人を見兼ねたように、呂戯が口を開く。

「まあまあ、二人ともそんな深刻そうな顔をするなって。確かに君たち二人は、元々は同じ魂であり同じ存在であった。けれどもその後、二つに分断されて片や飛鳥建として、片や出雲白百合としての人生を送ってきた。その中で元は一つだった魂はそれぞれの色を帯びた。つまり、君達はきちんと別々の人間、別々の存在だ。そう気に病むことはないよ……まあ、僕が言うのもなんだけどさ」

 最後の言葉を、呂戯は少し自重気味に言った。

「だとしても……自分の中で踏ん切りがつかない……」

 建は肩を落として心中を吐露した。

 その時だった。

「……建さん」

 ふいに、白百合が呼んだ。

 建はおもむろに顔を上げる。

「建さんは、今のお話しを聞いて落ち込みましたか?」

「え? まあ、落ち込んだというか、ショックを受けたというか……」

 曖昧な返事をする建に対して、白百合は柔らかな笑みを浮かべた。

「わたくしはとても嬉しく思いました」

 意外なその言葉に、建は思わず目を見開いた。

「どうして?」

「先ほどの呂戯さんのお話しが本当ならば、わたくしと建さんは魂の繋がりがあるということです。それは血の繋がりをも超えた、何よりも強い絆だと思うのです」

 口ごもる建に対して、白百合は穏やかな口調で問いかける。

「確かにその繋がりは重い鎖のようにわたくし達を苦しめるかもしれません。けれども、考えようによっては何ものにも侵すことのできない強い繋がりを持っているということです。ねえ、建さん。もっと前向きにこの真実を受け止めませんか?」

「白百合……」

 建はそこではっとした。

 本来なら男である自分が気丈に振る舞って白百合を励ますべきだった。

 それにも関わらず、自分は重い真実を受け止めることが出来ずに押しつぶされそうになった。

 けれども、白百合は違った。彼女は自分よりもずっと前向きにこの真実を捉えた。

 やはり彼女は弱くなんてない。むしろ、誰よりも強い存在だ。

「……俺はまだまだ未熟者だな」

 ぽつりとそんなことを呟いた。

「建さん……?」

 首をかしげる白百合に対して、建は意を決したように口を開く。

「俺はやっぱり白百合を助けたい。白百合がひとりで苦しんでいるこの状況を変えたい。だから、そのために俺は戦うよ」

 白百合は複雑な表情で建を見つめていた。

「君の言いたいことは良く分かる。そして、その言い分はもしかしたら正しいのかもしれない。だから、君を助けたいというのはあくまでも俺のわがままだ。だから戦う。君を助けたいから戦う。そして、その戦いが終わった時に……白百合に伝えたいことがあるんだ」

 建は真剣な眼差しを白百合に向けた。

「……建さんは、白百合を救って下さるのですね?」

 神妙な面持ちで白百合が問いかけてくる。

 建は力強く頷いた。

「もちろんだ」

 すると、白百合の口元が薄く笑みを浮かべた。

「ありがとうございます」

 建も同じように笑みを浮かべた。

「……どうやら話はまとまったようだね」

 呂戯が言った。

「ああ」

 建はすっと立ち上がった。

「なあ呂戯、お前に頼みがあるんだ」

「ん、何だい?」

 そこで、建は一呼吸置いた。

「これから俺は戦いに行く。その見届け人になってくれ」

 建の言葉を聞いて、呂戯はふっと笑みを浮かべた。

「良いよ。僕は君のお目付け役だからね」

「ありがとう」

 建は小さく頭を下げた。

 そして、改めて白百合に振り返る。

「じゃあ行って来るよ、白百合」

「はい。お気をつけて」

 白百合の柔らかな笑みに背中を押され、建は呂戯と共に部屋を後にした。



 建と呂戯が出雲大社の本殿に入ると、そこには隆康がいた。

「ここに居たんですね隆康さん」

 その場に悠然と立っていた隆康に向かって、建はゆっくりと歩み寄って行く。

「……先ほども申し上げましたよね。いくら飛鳥さんと言えど、勝手にうろつかれては困ると。ましてや私の許可無しに本殿に入るなど、いささか無礼が過ぎるのでは?」

 隆康の表情はあくまでも穏やかであったが、それでいて建を咎めるような雰囲気が漂っていた。

「すいません、どうしても隆康さんに急ぎの用事があったので」

「ほう、用事とは?」

 隆康は眉をひそめながら聞き返す。

 建はそんな隆康を威嚇するように睨みつけた。

「いまあなたが白百合に対して行っていることをやめて下さい」

 少し間を置いて隆康はため息を漏らす。

「それは無理な相談ですね。先ほども申し上げたように、それは出雲大社の発展に必要不可欠な行いであり、ひいては国民のみなさまの健やかな生活に……」

「そんなことは分かっていますよ。けど、俺はどうしても納得できない。白百合ひとりだけが過酷な運命を背負うなんて」

「それはあくまでも飛鳥さんのお考えですよね?」

「ああ、そうです。俺は今の状態から白百合を救ってあげたい。だからあなたと、そのバックに控えているタカミムスヒ神に勝負を申し込みたい」

「まさか、あなた個人のレベルで霊能試合を行うということですか?」

「ええ、その通りですよ」

「バカげている。そんなの認められませんね」

 隆康は考える余地なしといった様子で建を突き放す。

「お願いします! 一度で良いから、俺に白百合を救うチャンスを下さい」

「ですから、それは無理だと……」

 隆康が言いかけたところで、突然眩い閃光が天上から溢れ出した。

「――まあ、そう早まるでない隆康よ」

 そう声をかけられて、隆康は途端に姿勢を正した。

「タ、タカミムスヒ様」

 ゆっくりと下の方にまで降りてきたタカミムスヒは、建の方を向いた。

「お主は霊戦士の飛鳥建だな? ん、そのとなりに居るのは……」

 タカミムスヒは呂戯を見て途端に眉をひそめた。

「お久しぶりでございます、タカミムスヒ様。僕のこと覚えてらっしゃいますか?」

「お主は確か以前私に仕えていた……呂戯ではないか」

「はい、その通りでございます」

「ふん。かつてお主らのせいで私は『大いなる魂』を失ったのだ。そのことを私はまだ許しておらんぞ」

「……大変申し訳ございません」

 呂戯は小さく頭を下げた。

 いきなり現れた高天原の政治の長に対して、建は呆然と立ち尽くしていた。

 だがすぐに怒りの感情が湧いてきた。白百合を苦しめている諸悪の根源を見て、思わず拳を握り締める。

「タカミムスヒ神、あなたが白百合に対してやっている行いをやめていただきたい」

 建がそう言うと、隆康が眉をひそめた。

「飛鳥さん、タカミムスヒ様に対してそのような物言いは失礼ですよ」

 その時、タカミムスヒは鷹揚に頷いた。

「まあ良い。それで、お主がなぜそのようなことを申すのか言ってみろ」

 建は小さく息を吸った。

「俺が白百合を救いたいからだ!」

 タカミムスヒは意外にも興味深いといった様子で白い髭をさすった。

「なるほどな……しかし、白百合という娘の霊力はかなり上等なものだ。おいそれと手放すには惜しい。もし仮に霊能試合を行うとして、お主はそれに見合う賭けの対価を差し出すことが出来るのか?」

「それは……」

 建は口ごもった。

「何なら、お主の父と同じように命がけの一騎打ちでもやってみるか?」

 タカミムスヒの言葉に、建はぴくりと身を震わせる。

「もしお主がいなくなれば、霊能試合において我々神の勝率が上がるという利点がある。それから、十年前の『霊能戦争』において神々に反乱することを企てた飛鳥仁の血筋を断つことも出来るしな」

「俺は……」

 正直な話、白百合のためなら建は自分の命など惜しくは無かった。もしそれで白百合が救われると言うのであれば喜んでこの命を差し出すだろう。

 だが、今までそのような行為を否定してきた自分は、それをためらってしまう。

 今ならかつての父の気持ちが少しは分かるかもしれない。

 どうしても守りたいものがあれば、人は自らの命を失うことを厭わない。あの時父は、国を守るために死んだのだ。

「……しかしあれだな。お主の命だけではやはり賭けの対価として釣り合わないな」

 ふいに、タカミムスヒがそんなことを言った。

「もっと価値のあるものでないと、お主の申し出は受け入れることが出来ない」

「もっと価値のあるものだと……」

 建は押し黙った。

 自分の命だけでは彼女を救えない。ならば、より多くの人を集めて魂力を差し出してもらうしかない。けれども、そんな真似をしてくれる人々なんていない。

「くそ……」

 悔しい呻きを漏らした時、ふと建は何か天啓を受けたように顔を上げた。

「……少し時間をくれないか?」

 建は目の前で悠然と佇むタカミムスヒに言った。

 タカミムスヒはそんな建を舐めるように見つめて、小さく鼻を鳴らした。

「ふっ、まあ良いだろう。ただし、明日の朝までには結論を出してもらおうか」

「分かった」

 頷いて、建は本殿を後にした。



 三重県伊勢市の空は日が暮れはじめていた。

 霊能省の訓練施設で、亜矢は弓矢を構えていた。

 今は地域レベルの霊能試合が始まるまで休暇を取っている者が多い。

 だが、亜矢とそれ以外にも数人はこうやって腕を落とさないように鍛錬している。

 亜矢は静かに構えた状態から一本の矢を放った。それは正確に的の中心を射抜いた。

 その直後、ふと物思いにふけるような表情を浮かべる。

「建はしっかりと告白できたのかしら……」

 昨日、自分がそうしなさいと背中を押したのだ。だから、妙に責任感を感じていたりする。

 自分と建はこれからも良きパートナーとしての関係を築いていくことになった。それは恋人ではなく仲間ということだ。建に告白してフラれて、その後色々あって彼に対する気持ちを諦めようとふっ切ることが出来た。

 けれども、まだ完全に建に対する想いを捨て切れた訳じゃない。昨日の今日ですぐには無理だ。だから、責任とはいえ建の告白を心配する度に、複雑な感情に苛まれる。

「こんなことじゃいけないわね……」

 気を取り直すように再び弓矢を構えた時、ふいに近くの椅子に置いておいたケータイが鳴った。

「誰かしら……」

 首をかしげながらケータイのディスプレイに目を落とす。

「……建?」

 亜矢は思わず目を見開いた。もしかして、告白の結果を報告するためにわざわざ電話してきたのだろうか。妙な緊張感を覚えながら、通話ボタンを押した。

「……もしもし」

『もしもし亜矢か?』

 建の声が鼓膜を揺さぶった。

「ええ。どうしたの急に?」

『うん、ちょっと君に伝えておきたいことがあって……』

 どこか重苦しい建の声を聞いて、亜矢はびくりと肩を震わせた。

「何かしら?」

 亜矢はあくまでも気丈な声を張った。

 それからしばらく沈黙が流れた。亜矢は静かに建の言葉を待った。

『……俺は明日死ぬかもしれない』

 その瞬間、亜矢は自分の耳を疑った。

「え……? それってどういうことよ……?」

 それから亜矢は聞かされた。

 建が白百合を救うために、命がけの戦いに臨むことを。

 亜矢はすぐにそのことを受け止められなかった。

「……何でそんな真似するのよ。あなたにとって、白百合って子はそんなに大事なの?」

 亜矢は詰問するように言った。

『ああ、そうだよ』

 迷いのないその言葉に、亜矢は一瞬言葉を失った。

「……もし、あたしが止めても戦うの?」

『……すまない』

 受話器越しに建の悲痛な表情が想像できた。

 亜矢はきっと鋭く目を剥いた。

「勝手にしなさいバカ!」

 怒鳴り上げて、直後に携帯の通話を切った。

 そのまま携帯を椅子の上に放り投げ、亜矢はがっくりとうなだれた。

「…………バカ」










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