奈良県桜井市にある自宅にて、建は霊戦士の装束である黒衣を纏っていた。

 今日は月に一度の国レベルの霊能試合が行われる。そのための準備をしていた。

 建は座敷にある仏壇の前に立った。「霊能戦争」以後、神々を崇める神道が再び重要視されるようになったとはいえ、亡くなった家族を祀るのは仏壇の役目であった。

 その仏壇には、一人の女性の写真が置かれていた。にこやかに微笑む、優しそうな女性だった。顔立ちは色白でとても美しい。

「……母さん、行ってくるよ」

 静かな声色でそう呼びかけた。

 建の母である飛鳥楓(あすか かえで)は、十五年前、日本を崩壊寸前に追い込んだ災害で亡くなった。当時、建はまだ一歳の赤ん坊であった。だから、母との思い出は少ない。けれども、母に抱きしめられた温もりだけは覚えている。

 そんな温もりを噛みしめながら、建はふととなりに置いてある写真に目をやった。

 こちらには男性の顔が写っている。整った凛々しい顔立ちをしていた。

 すると、建の表情がにわかに曇った。

「……っ!」

 すぐさま視線を逸らす。そうでもしないと、湧き上がる感情を抑えることが出来ないからだ。

 直後、家の呼び鈴が鳴った。

 その場から逃げるように立ち上がり、建は玄関へと向かった。

「おはようございます、飛鳥さん」

 玄関を開けると、霊能省の役人が立っていた。彼に先導されるまま、建は車に乗り込んだ。

 そこには先客がいた。相変わらず背筋をぴんと伸ばして姿勢の良い亜矢だった。

 先日のことを考えると、少し気まずい建は思わず硬直してしまう。

 そんな建を見て、亜矢は鋭い視線を向けてきた。

「何その顔は?」

「あ、いや何でもないよ。おはよう」

「……おはよう」

 亜矢の口からひたすらに不機嫌そうな声が漏れた。

 罰の悪い様子で建がドアを閉めると、車は走り出した。

「はい、これ」

 亜矢が一枚の紙を建に差し出してきた。それは今日行われる国レベルの霊能試合に関する資料であった。

「今日あたし達が戦う相手は、トヨタマビメ神よ」

 トヨタマビメとは、美しい海の女神である。

 かつて、天孫ニニギの息子であり山の神としての力を持つホオリの妻となり、彼に海の力を授けることで陸海を制する覇者へと導いた。海の神として漁業や航海安全の守護神として信仰されているのだ。

「海の女神か……」

 建は少し俯いて、唸るように言った。

「そう、だからあなたの『火の型』は相性が悪いわね」

 あくまでも淡々とした口調で亜矢が言った。

 霊戦士が従来の陰陽師と違う点は、武術を駆使すること以外にもう一つある。

 それは「五行霊気(ごぎょうれいき)」と呼ばれる力を扱うことだ。

 五行霊気においては、五行説に基づく木、火、土、金、水の五つの型が存在する。

 五行説とは、万物が前述の五大要素によって造られているとするものだ。

 陰陽師はその五大要素を、あくまでも占いの概念として用いていたが、霊戦士の源流である牙龍派は違った。彼らは五大要素そのものを極めようとした。これには陰陽師と牙龍派の気質の違いが表れている。

 陰陽師が占術や悪霊払いなどの陰陽術を磨いたのは、あくまでも仕事として需要があったからである。もちろん中にはより高位な陰陽師になるべく修行した者もいるだろうが、基本的には帝や貴族に対して陰陽術で奉仕をし、貨幣をもらって生活するために陰陽術の鍛錬をしていたと思われる。

 それに対して牙龍派は、とにかく己の力を向上させたい者達の集まりであった。陰陽師に武術など求められていないにも関わらず、肉体を持つ人間である以上は体を鍛えようとした。そんなことをしても貨幣はもらえないのに。五大要素を操る五行霊気に関しては、強力であったが、その分霊力を消耗してしまうため、悪霊退治などで重宝されることは無かった。しかし、万物の根源たる五大要素の力を極めることは、己を向上させることに繋がるからとやめることは無かったのだ。

 己が牙を持ちて龍の如く高みへと昇る。

そんな思想のもとに「牙龍派」という名前が生まれた。また、「牙龍」は「我流」にも通じる。決して正統なやり方ではない自分達の流儀であるが、譲れない。そんな思いがあるのだ。

 そして、長い年月を経る中で牙龍派は陰陽術とは一線を画す、霊力と武術の融合である「牙龍道」を作り上げて行った。武術は剣や弓を中心により洗練された。五行霊気に関しても、昔に比べて大分扱い方が研究されて実用性が増した。五行霊気は習得には厳しい修練が必要のため、霊戦士おのおの一つの型だけを有している。だが稀に才能がある者は二つの型を持っている。実は建もそれだけの才能を持っているが、あえて「火の型」ひとつに絞ることで、その力をより強大にしているのだ。

「じゃあ、今回は亜矢の『木の型』に頼る形になるのか。水の力に対して相性が良いからな」

 すると、亜矢は凛とした面持ちで建を見つめた。

「そういうことになるわね」

 亜矢の言葉に対して、建は深く頷いた。

「分かった。じゃあ、俺は君を守る盾になろう。相手には絶対に指一本触れさせない」

 静かながらも力強く建が言うと、亜矢はにわかに頬を赤く染めた。

「……な、何言ってんのよいきなり! あなたは……あなたはいつもそうなんだから!」

「お、おい。突然どうしたんだよ?」

 恐る恐る建が問いかけた。

「うるさいわね! バカ!」

 そう叫んで、亜矢はツンとそっぽを向いてしまった。

 なぜ、彼女はいきなり怒ってしまったのだろうか?

 その答えは、建の頭に浮かんでくることは無かった。

 こうなった亜矢はしばらく絶対に口を利いてくれないので、建は仕方なく窓の外を眺めてみた。

 車は住宅街に入っていたのでゆっくりとした速度で走っていた。周りの情景がよく見渡せる。

 ふと、建の視界に学生服に身を包んだ若い男女の集団が映った。

 見たところ、建と同じくらいの年頃だから高校生だろうか。

 何やら楽しそうに談笑しながら登校しているようだ。恐らく、間もなく始まるGWの連休について話をしているのだろう。

「……学校か」

 ぽつりと呟く。

 建は今までの人生で学校に通ったことが無かった。厳密に言うと、ほんの少しだけ小学校に通ったことがあるが、すぐにやめることになった。なぜなら、ちょうどその年に霊戦士としての責務が生じたからである。

 十年前に起きた「霊能戦争」をきっかけに、霊能者の家系の者は一般の教育機関に通う義務を免除された。その代わりに、幼い頃よりひたすらに鍛錬を積まされてきた。神社に生まれたのなら神職として、牙龍派に生まれたのであれば霊戦士として育てられる。当然の如く、一般人と同じような生活などすることが無いのだ。

「……亜矢はさ、普通の女子高生として学校に通いたいって思ったことある?」

 窓の外を眺めながら、どことなくぼんやりとした口調で尋ねた。

「……何でそんなことを聞くの?」

「いや、何となく」

 しばらく沈黙が流れた。建は無粋な問いだったかなと少し後悔した。

「……そうね、少しは憧れるかも。普通の女子高生に」

「え?」

 建は思わず振り返って亜矢を見つめた。

「何よ、その目は?」

「いや、意外な答えだなと思ってさ」

「……ふん」

 それっきり、亜矢は再びそっぽを向いてしまった。



 五月一日の正午過ぎ。

 伊勢神宮の本殿にて、国レベルの霊能試合が執り行なわれようとしていた。

 本殿は元来、神霊を象徴する御神体を安置するための場所であった。そして、拝殿がその神霊に対して祭祀を行う施設であった。本殿は人が出入りすることを想定されていなかったので、拝殿の方が大きい造りである場合が多かった。しかし、十五年前に神々との繋がりが強まってから、より神聖な本殿で神々とやり取りを行うことになった。各地の有力な神社はこぞって改築された。特に伊勢神宮は日本の祭祀の中心であるため、どこよりも早く改築が進められ、現在では多数の霊能関係者が入っても問題ないくらいの広さになっている。

本殿内には神職を初めとした霊能関係者はもちろんのこと、悠栄天皇が来ていることからも、この国レベルの霊能試合が重要な国儀であることが伺える。

 彼らの目線の先には、大型のテレビモニターが設置されている。その脇にはカメラが置いてある。このカメラは特殊な仕様で「霊能カメラ」と呼ばれるものだ。霊能者と科学者が手を組んで開発したものであり、霊能試合の様子を観戦することが目的だ。この「霊能カメラ」のおかげで、霊界で行われる霊能試合の様子をテレビモニターに映し出すことができるのだ。

 また、霊能試合は全国でテレビ中継をされている。一般国民も観戦することが出来るのだ。昔に比べて魂税が減ったとはいえ、霊能試合は国民の命にも関わるものだ。そこで、霊能試合を観戦させることで娯楽的な側面を持たせた。そして人間だけではなく、神々もまた霊能試合を観戦している。霊能試合が行われる「霊界の広場」は結界で覆われており、その外側で観戦をしている。日本の神々はとても人間くさい一面を持っているので、人間と同じように娯楽を求めて霊能試合を観戦するのだ。

 霊戦士としての装束である黒衣を纏った建と亜矢は、口を真一文字にして静かに佇んでいた。

 その眼前には、神々しい太陽神、アマテラスが聖母のような笑みを浮かべていた。

「それでは参りましょうか」

 アマテラスが小さく手を振ると、霊界へと繋がる道が開けた。

「はい」

 建と亜矢は凛とした声を発し、霊界の入り口に足を踏み入れた。

 直後、淡い光の連鎖が二人を包み込み、言いようのない浮遊感を覚えた。

 そして数分と経たないうちに、二人は霊界の広場に辿り着いた。

 その後から、霊能カメラを持った審判がやって来る。審判は二人おり、人間側の神職と神の者が一名ずつである。

 霊界の広場は漂白されたように清廉な空間だ。とにかく広いので、思う存分動き回れる。

 建と亜矢が中央までやって来ると、向かい側にきらびやかな光の雫が溢れ出した。

 それは纏まり、やがて眩い光を形成する。そうして現れたのは、美しい女神であった。

 きらびやかな着物を纏っている。艶やかな黒髪が美しい。頭の上で二つ団子状に結われており、その周りに海の女神を思わせる貝殻の飾りが施されていた。

「――海の神トヨタマビメと申します。この度は、最高神アマテラス様の呼びかけにて参りました」

 トヨタメビメは恭しくお辞儀をした。

「ありがとう。では、審判。後のことはよろしくお願いします」

 アマテラスが呼びかけると、審判はすっと前に出て来た。

「かしこまりました。では、これより国レベルの霊能試合を執り行います。第一試合は霊戦士飛鳥建・小早川亜矢ペアと、海の女神トヨタマビメの戦いとなります。ルールはいつも通り、相手を戦闘不能にした方の勝利となります。また、霊力最大値の十パーセントまで追いこまれた場合も戦闘不能と見なします」

 霊力は最大値の十パーセントを切ると生命の危機を伴う。人間が神を殺すことは重罪であり、また同時に神が人間を殺すのも同じように重罪である。そのようなことを防ぐために十パーセントをデッドラインと定めている。実際には、十パーセントまで減らなくても、審判が危険と判断して試合を止めるケースが多々ある。ちなみに、霊力と魂力は同じものである。主に神や霊能者においては霊力、一般人においては魂力と表現されるのだ。

 建・亜矢のペアとトヨタマビメは互いに距離を取って所定の位置に付いた。

「それでは両者礼をして下さい」

 審判に促されて、建と亜矢、トヨタマビメは丁寧な所作で礼をした。

 その場がにわかに緊張感に包まれた。これから行われる戦いは、神と人間の壮絶な争いなのだから。

「――では、始め!」

 その合図を聞き、建はすぐさま抜剣した。

 霊力を込めて丹念に鍛え上げられた霊剣が鈍色に光る。

 隣に立っていた亜矢も素早く弓矢を構えた。

「まずは俺が様子を探ってくる」

「了解したわ」

 建は身を低くして、前方に佇むトヨタマビメへと向かって行った。

「ふふ、来たわね」

 柔らかく余裕の笑みを浮かべると、トヨタマビメは両手を身体の前で重ねた。

「水よ、我が呼び声に答えよ」

 トヨタマビメの周りに水の膜が現れた。それらは捻じれ、凄まじい水流を生み出す。まるでヘビの群れのように建に襲いかかる。

 建は腰を落として加速した。自分目がけてやって来る無数の水流をかいくぐって行く。

「なかなかやるわね」

 トヨタマビメが微笑んだ。

 直後、水流はさらにその数を増やし、複雑に交差しながら建を食らわんとする。水流が直撃した地面は穿たれていた。それだけ凄まじい威力なのだ。まともに食らえば、霊力を消耗するまでもなく肉体的損傷で戦闘不能になってしまう。

 建の両側から水流が迫って来た。一瞬の判断で、建は身を縮めてかわした。

 だが、今度は建の頭上から水流が襲いかかって来た。

「なにっ!?」

 目を見開いた建に、水流が激突した。地響きが鳴り響く。

「建!?」

 その光景を見て亜矢が叫んだ。

 水流がその勢いを沈めると、霊剣を構えてひざまずく建がいた。水流が頭上に降りかかった瞬間、霊剣で威力を殺したのだ。

 とは言え、凄まじい衝撃を受けた建は、ふらふらと立ち上がった。

「はあ、はあ……」

 それを見たトヨタマビメは妖艶に微笑んだ。

「あら、水も滴る良い男ね」

 建は苦笑した。

「お誉めにあずかり光栄です」

 そう言って、建は身震いをして身体に纏わりついた水分を吹き飛ばす。

 気合を入れ直し、再びトヨタマビメへと駆けて行く。

 途中、無数の水の弾が放たれる。それを霊剣で切り刻んで何とか防いでいく。背後から、亜矢の弓矢も援護した。そして、勢いそのままにトヨタマビメに迫った。

「うおおぉ!」

 建はトヨタマビメに対して霊剣を振るった。だが、水の鎧によって防がれてしまう。

 ひるむことなく、もう一度剣を構える。霊力を増強して霊剣をトヨタマビメの脇に目がけて走らせる。一瞬水の鎧が弾けたが、トヨタマビメ自身に傷を付けることは出来なかった。

「ふふ、残念ね」

 トヨタメビメは不敵な笑みを湛えた。

 建がまた斬撃を繰り出そうとした時、

「ねえ、あなた私の男にならない?」

 いきなりそんなことを言ってきた。

「はい?」

 建は眉をひそめた。

「先ほどからあなたが勇ましく戦う姿を見ていたら惚れてしまったの。こんな気持ち、初めてホオリ様にお会いした時以来よ。ねえ、どうかしら?」

 着物の袖で口元を覆いながら、トヨタマビメは建を見つめた。

「……あなたのように美しい女神からそのようなお誘いをしていただき、とても光栄です」

「そう、だったら……」

 喜色を浮かばせたトヨタマビメの言葉を遮るように、建は口を開いた。

「ですが、お断りいたします」

 静かながらも力強い言葉だった。

「……なぜかしら?」

 にわかに、トヨタマビメの表情が固まった。

「俺……私にはすでに愛する女性がいるからです」

 建の目には確かな力強い光が宿っていた。

 すると、トヨタマビメは腕をだらんと垂らした。

「なるほど、すでに愛する女性が……その者は、私よりも美しいの?」

「はい。少なくとも、私にとっては誰よりも美しい女性でございます」

「……そうなの」

 トヨタマビメは俯き、

「だったら、もうこの姿でいる意味はないわね」

 その声がにわかに震え出した。その震えはやがて全身へと広がった。

「ふっ、ふふ……」

 震え出したトヨタマビメの身体が、びくんびくんと脈動を打ち始めた。

「後悔しても知らないわよ――!」

 その叫びと共に、美しい女神は変貌した。

 陶磁器のように滑らかだった肌はうろこ状になった。頭の上で結っていたお団子は二本の角を形成する。妖艶だった口元には、鋭い牙が生えていた。

「これは……」

 呆然とする建の目には、全長十数メートルにも達する巨大な龍の姿が映った。

 龍は天を仰ぎ、高らかに咆哮した。心臓を抉られるような衝撃が走る。

「トヨタマビメ神の真の姿……」

 海の女神トヨタマビメは、かつて夫であるホオリの子を身ごもり出産する時、元の姿に戻るから決して覗かないでと言った。しかし、堪え切れなかったホオリはその姿を覗き見てしまう。その目に映ったのは、普段の美しいトヨタマビメとは大きくかけ離れた姿だった。そして、約束を破られたトヨタマビメは怒り、深い海の宮殿へと帰って行ったという。

 その時、ホオリが見たのが、今建の目の前にいる龍であった。

「……この姿を晒したからには、もう容赦しないわよ」

 低くくぐもった声で、龍へと成り変わったトヨタマビメは言った。

 建は警戒して数歩後ずさった。

 直後にトヨタマビメ――龍神が荒々しく牙を剥き、唸り声を上げた。

 その脇に先ほどよりも大きな水流が巻き起こる。

「くたばりなさい」

 その声と共に、嵐の如く巨大な水流が放たれた。その衝撃に、触れていないのに地面が抉れていく。

「……くっ!」

 建はすぐさまその場から離れた。寸でのところで、巨大な水流の直撃をかわした。しかし、その凄まじい衝撃を受けて、後方にいた亜矢の方まで吹き飛ばされてしまう。

「建! 大丈夫!?」

「……ぐっ、何とかな」

 よろめきながら立ち上がり、建は亜矢に顔を向ける。

「あの龍神の姿になられては、武術だけで倒すのは難しい。ここはやはり、亜矢の五行霊気『木の型』の力に頼るしかない」

 亜矢は静かに頷いた。

「それは分かったわ。けど、どうするの?」

「俺がおとりになってあの水流に突っ込む。その後ろから、亜矢は水流目がけて木の型を遣って弓を放ってくれ。そうすれば、木は水の力を受けて増長し、あの龍神を倒すことが出来る」

「……了解したわ」

「あ、そうそう。間違って俺の背中に当てないでくれよ」

 少しおどけたように建が言った。

「は? ふざけたこと言っていると串刺しにするわよ」

 亜矢の鋭い眼光が建を射抜いた。

「すまない、それだけは勘弁してくれ」

「……ふん」

 不機嫌そうに鼻を鳴らす亜矢を横目に、建は前方に振り向いた。

「じゃあ、よろしく頼む」

 返事はないが、恐らく問題ないだろう。

 建は意を決して、龍神へと真っすぐに向かって行く。

「……そろそろ終わりにしましょう」

 龍神がぎろりと眼を剥いた。威嚇するその眼差しに一瞬ひるみそうになるが、建は前進することをやめない。

 龍神が唸り声を上げた。巨大な水流が生まれる。

「くたばりなさい!」

 再び、巨大な水流が建に目がけて襲いかかる。

 だが、建は臆することなく突っ込んで行く。それは、背後にいる亜矢を信頼しているからだ。背中越しにいつも彼女の存在を感じていた。彼女の射る弓はいつも正確無比でいて力強い。この龍神さえもその弓矢で射抜いて倒してくれることだろう。

「亜矢、頼む!」

 眼前に巨大な水流が迫り来る中で自然と叫んでいた。

 だが、背後から矢は飛んで来なかった。

 驚き振り返った建の目に映ったのは、弓矢を構えたまま呆然と立ち尽くす亜矢の姿だった。

「――亜矢?」

 力なく声を漏らした建に、凄まじい威力の水流が激突した。



 亜矢は静かに弓矢を構えていた。

 いつも通り、建の背中を見つめながら。

 今日も、建は勇猛果敢に偉大な神へと挑んでいる。

 その背中が逞しい。そして、何より愛おしい。

 その背中を見ることが出来るのは、共に闘う自分にのみ与えられた特権だ。

 誰にも譲りたくはない。自分だけのもの。

 ――すまない、君の気持ちを受け入れることは出来ない。

 かなり勇気を出した告白だった。普段なかなか素直になれなくて、彼に対して横柄な態度を取っている自分が、精一杯の勇気を振り絞って告白したのだ。

 けれども、その気持ちは受け入れてはもらえなかった。

 分かっていた。彼には誰よりも大切な想い人がいることが。顔を見たことはないが、巫女姫と言われるくらいだから相当に美しい女なのだろう。それでいて病弱なのだ。自分とは正反対のか弱い女。守るべき存在。そんな彼女のことを、建は愛しているのだ。

 自分は強く、守られるような女じゃないことを言い訳にするつもりはない。

けれども……

「……もっと、弱い女に生まれたかった」

 ぽつりと呟いた。

 ふいに、唸るような水流の響きを聞いて意識が覚醒した。

 前方に振り向くと、巨大な水流が建の眼前に迫っていた。

「――建!」

 亜矢の叫びも虚しく、建は巨大な水流に飲み込まれた。

 唸るような衝撃音が鳴り響き、建の体は宙を舞って亜矢の下まで吹き飛ばされた。

「……た、建!? 建!?」

 仰向けで地面に打ち付けられた建に向かって、亜矢は必死の形相で呼びかける。

 彼の体は冷たくなっていた。その瞬間、おぞましい恐怖心が亜矢の体を貫いた。

「いや……嘘でしょ? ねえ、建起きてよ!」

 冷え切った建の両手を力強く握り締め、懇願するように叫んだ。

 すると――おもむろに建の体がみじろぎをした。

「…………うっ」

「建!? ねえ、大丈夫!?」

「……亜矢? あぁ、そっか俺は気絶してたのか」

 その声を聞いて、気が付くと亜矢は建に抱き付いていた。

「バカ! 心配したんだからバカ!」

 自然と涙がこぼれていた。再び彼のぬくもりを感じることができて、この上ない喜びを感じている。

「すまない……」

 建は力のない声でそう言った。

 それに対して、亜矢は思い直したように首を振った。

「……ごめんなさい。あなたがこんな目に遭ったのは、あたしが試合中に集中力を欠いたせいなのに」

 そして、俯きながら涙をこぼした。

 彼が生きていて嬉しかった。しかし、同時に恐怖が湧いてきた。これまで信頼していてくれた自分に対して、彼は一気に失望してしまったかもしれない。そうなれば、自分の存在意義が失われて、立っている自信がなくなってしまう。

「……誰にだって失敗はあるさ」

 ふいに、建がそんな言葉を漏らす。

 亜矢は涙目になりながら振り向いた。

「安心してくれ。こんなことくらいじゃ俺の君に対する信頼は揺らがないよ、亜矢」

「建……」

 途端に、まるで防波堤が壊れたように涙がとめどなく溢れ出す。

 彼は本当に優しい。いつだってそうだ。だから――

「――あたし、建のことが好き」

 自然と溢れた言葉は、何よりも力強い想いが宿っていた。

 それに対して、建はしばし呆然としていたが、すぐに微笑を浮かべた。

「……ごめん、俺は他に好きな人がいるんだ」

「知っている」

 亜矢もまた、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。

「それでも、やっぱりあなたのことが好きだから。だから、この前の告白も、今の告白も無かったことにはしない。文句あるかしら?」

「……いや、嬉しいよ」

 建は優しく微笑んだまま言った。

「ふん……」

 亜矢はツンとそっぽを向いた。

「じゃあさ、今度は俺の告白を聞いてくれよ」

 ふいに、建がそう切り出した。

「え?」

「昔、俺がまだ霊戦士として駆け出しだったころかな。一人の少女に出会ったんだ。その少女は誰よりも美しい姿で弓矢を構えていた。そして、誰よりも正確に的を射抜いていた。それが自分と同じ年の少女だと知った時驚いた。そして、将来一人前の霊戦士になった時、彼女と共に戦いたいと想っていた」

 建の真っすぐな目が、亜矢を見つめていた。

「それが君だよ……亜矢。だから、俺は君のことを本当に大切なパートナーだと思っている」

「……何よ、いきなりそんなこと言って」

 本当にずるい奴だ。けれども、自分が彼から必要とされていることが嬉しい。

「なあ、亜矢知っているか。俺と君がペアを組んでから、まだ一度も負けたことがないんだ」

 そう言って、建はゆっくりと身を起こした。

「だから、この試合も絶対に勝とうぜ」

 建の力強い声が、亜矢の胸を揺さぶった。

「……しょうがないわね」

 二人は同時に立ち上がった。

 そして、前方にいる龍神を見据えた。

「それで、どうするの?」

 亜矢は問いかける。

「俺が相手を撹乱する。君はいつものように、正確無比の矢を放ってくれれば良い」

 建の力強い眼差しを受けて、亜矢は深く頷いた。

「分かったわ」

 亜矢の声を受けて、建にこりと笑い、すぐさま龍神目がけて駆け出した。

 先ほどの水流のダメージを受けているはずなのに、彼は一切弱みを見せることなく果敢に立ち向かって行く。

「性懲りも無くまた来たわね」

 龍神が体を捻り出した。力を溜め込んでいるようだ。

 その周りに、先ほどよりも一層大きな水流が形成される。嵐の如き破壊の唸りを上げながら、その巨大な水流が建に向かって放たれた。

 あまりにも巨大な水流は避けることが不可能だ。あれに飲み込まれたら終わりだ。

 だが、建は一切ひるむことなく向かって行く。

「我、五行における火の型をここに解き放つ」

 建もまた体を捻って力を溜める格好になった。その周りに、赤い粒子が漂い始める。

「火の型奥義――紅蓮華(ぐれんげ)!」

 その叫びと共に、紅色に輝く巨大な炎の渦が生じた。その唸りは激しく荒々しい。しかしそれでいて、華やかさがある。

 灼熱の温度によって、その周りが全て溶けてしまいそうなくらいだ。

「うおおおぉ!」

 強大な火炎の力を纏いながら、建は眼前に迫る巨大な水流へと突っ込んで行く。

 二つの相反する力のぶつかり合いによって生じたのは激しい爆発音と――深い霧だった。

 水流が灼熱の温度によって蒸発させられた結果だ。

「くっ……」

 龍神が思わず唸り声を上げた。視界を塞がれて動揺しているようだ。

 建が亜矢の方に振り返った。そして、黙ったまま頷いた。

 それだけで十分に伝わってきた。

 亜矢は静かに弓矢を構える。

 視界は深い霧で塞がれている。これでは相手が見えない。

 だが、問題はない。弓矢とは、目ではなく心で相手を捉えるものだから。

「我、五行における木の型をここに解き放つ」

 彼が自分を信頼してくれる。その気持ちに応えたい。

 想いは強く力が入る。しかし、弓矢を持つ手に力みはない。

「木の型奥義――連綿木節(れんめんもくせつ)!」

 黄色の粒子を纏った矢が放たれた。

 相手へと向かって宙を駆ける中で、それは力強く脈動し、極大な木の幹を作り上げる。

 その成長は止まらない。霧の水分を吸って、さらに成長は加速する。

 すると、霧が晴れた。龍神がみじろぎをする。

「ようやく視界が……」

 言いかけて、龍神は愕然としていた。

 眼前に、巨木が迫っている。否、それは亜矢が放った矢だ。

 そして貫いた。強靭な龍のうろこを、強大な木の力を宿した矢が射抜いた。

「うぎゃああああああぁ!?」

 龍神は苦痛に満ちた声で咆哮した。口から鮮血が漏れ出す。

 その表情はみるみるうちに生気を失っていき地面に倒れ込んだ。凄まじい衝撃音が鳴り響く。

 しばし沈黙が流れた後に、二人の審判が龍神の下に駆け寄った。そして、互いに頷き合う。

「――ただいまの試合、飛鳥建・小早川亜矢ペアの勝利です」

 高らかな勝利宣言を聞き、亜矢の胸は満たされていた。



 伊勢の空は美しい夕焼けに染まっていた。

「ふぅ……」

 建は湯飲みを片手に、霊能省の庭にあるベンチに座っていた。

「相変わらずじじくさいのね」

 声のした方に振り向くと、そこには亜矢がいた。

「せっかく冷たい飲み物、あなたの分も買ってきてあげたのに」

 不機嫌そうに言いながら、亜矢は建のとなりに座った。

「そうなのか。じゃあ、せっかくだしもらうよ」

「ダメよ。温かいものを飲んだ後に冷たいものを飲むとお腹を壊すわ」

 建は苦笑した。

「はは、君の方こそ世話焼きなお母さんみたいだな」

「お母さ……」

 亜矢の表情がにわかに凍った。

「いやいや、冗談だって」

「ふざけんじゃないわよ、バカ!」

 亜矢が建の肩を思い切り叩いた。

 すると、建の手にあった湯飲みから中身がこぼれた。

「うわ、あちち! 何するんだよ!」

「ふん!」

 亜矢は鼻を鳴らしながらそっぽを向いた。

「なあ、せっかく試合に勝ったんだからもう少し仲良くやろうぜ?」

 建と亜矢のペアは今回も無事に勝利を収め、無敗記録を伸ばした。

 その後、彼らの勝利の勢いに乗り、後続の霊戦士たちも試合に勝利をした。

 今回の国レベルの霊能試合は、霊戦士側の全勝という素晴らしい結果に終わったのだ。

「あなたがいちいち気に障ることを言うからいけないのよ」

「俺のせいかよ」

「そうよ」

 亜矢のきつい物言いを受けて、建はがっくりと肩を落とした。

 そのまましばらく沈黙が流れた。カラスの群れが夕闇によく映えている。

「……ねえ、建」

 ふいに、亜矢が呼んだ。

「何だ?」

 建はおもむろに亜矢の方へ振り向く。

 亜矢は何か言いたそうに口ごもっているようだ。

「その……建は白百合って子に告白したの?」

「ぶっ!」

 いきなりの問いかけに、建は思わず飲んでいたお茶を噴き出した。

「ちょっと、汚いわよ」

「いや、君がいきなりそんなことを聞くからだろうが」

 亜矢は罰の悪そうな顔で俯いた。

「……ごめんなさい」

「いや、別に良いけどさ」

 建も気まずくなってそっぽを向いた。

 しばらく間を置いて、建は口を開く。

「……告白したよ。白百合に好きだと伝えた」

 亜矢の体が一瞬びくりと震えた。

「……そう。それで、どうなったの?」

「たぶん、気持ちは通じたんだと思う」

 すると、亜矢は眉をひそめた。

「たぶんってどういうことよ?」

 建は少しうろたえながら答える。

「いや、俺が告白して白百合に良いですって言われた訳じゃないんだ。ただ、嬉しいですって言われたから大丈夫かなと」

「何よそのふわっとした感じは? そんな曖昧なことでどうするの?」

「え、いや。でもキスしそうになったし」

 すると突然、亜矢の顔が真っ赤に染まった。

「キ、キキ、キスですって!?」

 亜矢勢い良く立ち上がり、荒い息を吐きながら建を睨んでいた。

「お、落ち着けよ亜矢」

「うるさいわね! あなたがいきなりキ、キスなんて言うからよ!」

「わ、分かった。俺が悪かったから落ち着いてくれ」

 建は怒りに震える亜矢をなだめる。

「……建、あなたに言っておきたいことがあるわ」

「何かな……?」

 建は恐る恐る亜矢の方に顔を向けた。

 亜矢は小さく息を吸った。

「――あなたはすぐに白百合って子に会って、告白の返事を聞いてきなさい」

 凛とした声で亜矢は言った。

「は? 君はいきなり何を言い出すんだ?」

 建は呆然としながら問いかける。

「うるさいわね。あたしは曖昧なことが大嫌いなのよ。あなたは白百合って子が好きだと言った。じゃあ対する彼女はどうなのか。はっきりとその耳で答えを聞いてきなさい!」

「やっぱり君お母さんみたいだな」

「うるさい! とにかく白黒はっきり付ける。それが男ってもんでしょ!」

 亜矢の甲高い声が、建の胸を貫いた。

「……くく、君って実は意外と熱血漢だよね」

 建は声を押し殺すようにして笑った。

「良いじゃない、熱血の何が悪いの? ていうか、あたしは女だから熱血漢じゃないし!」

「おっと、それは失礼した」

「とにかく、あなたはさっさと出雲に行って白百合って子に告白の返事を聞いてきなさい! というか、しっかりと交際を申し込んできなさい!」

 びしっと人差し指で建を指しながら亜矢は言った。

 そんな亜矢を見て、建はふっと笑みを浮かべた。

「……そうだよな、亜矢の言う通りだよ」

 建は亜矢を真っすぐ見つめた。

「ありがとな、背中を押してくれて」

 すると、亜矢は頬を赤らめてそっぽを向いた。

「か、勘違いしないでよね。あたしはあくまでもあなたのパートナーとして、仕事に支障をきたすといけないからアドバイスをしたまでよ。そこのところちゃんと理解しなさいよね!」

 そう言って、亜矢は腕組みをしながらツンと顔を背けた。

「了解した。とりあえず今日はもう遅いから、明日にでも行って来るよ。地域レベルの霊能試合が始まるまで二週間あるから、せっかくだし出雲に滞在して白百合と過ごそうかな」

「二週間も? ……あなたまさか、白百合って子とキスとか、それ以上の行為に及ぶんじゃないでしょうね?」

「え、キス以上の行為って?」

「そ、それは……えと、エ、エッ……」

 何やらどもっている様子の亜矢。

「うん、何かな?」

 建は続きを促そうとする。

 ふと、亜矢はその目に涙を浮かべて、きっと鋭く建を睨んだ。

「――って言える訳ないでしょうが! バカ!」

「お、おい。いきなりどうしたんだよ?」

「うるさいわね! 女にこんなこと言わせようとするなんて最低ね!」

「俺が悪いのか!?」

「当たり前でしょ! そんなやましい気持ちじゃ白百合って子にフラれるわよ!」

「いやいや、君はさっきから何を言っているんだ? とりあえず落ち着こう、深呼吸だ」

「ほっといて、あたしは別に取り乱してなんかいないんだから……」

 亜矢の言葉が尻すぼみになり、とめどない言い合いにひとまず終止符が打たれた。

 建はほっと胸を撫で下ろす。

「じゃあ、俺はそろそろ帰るよ。明日出雲に行く準備をしないとだし」

「……あっそ。早く帰れば?」

 相変わらずのきつい亜矢の物言いに肩を落としながら、建はゆっくりと踵を返した。

 直後、背中にしなやかな肢体の感触が走った。

 それはついこの間も感じたものだった。

「亜矢……?」

 建は首だけ後ろを振り向いて問いかける。

「……お願い、これが最後だから。少しだけこうさせて」

 建の背中に顔をうずめながら、亜矢は言った。

「あなたはもうすぐ白百合って子のものになっちゃう。だから、最後にこうしたかったの。許してちょうだい」

 亜矢の温もりが背中を伝ってくる。彼女の表情は見えないが、どこか穏やかな雰囲気を感じた。

「良いよ……」

 建も穏やかな笑みを浮かべながら、そっと呟いた。















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