霊能省宿舎のベッドで寝ていた建は、おもむろに目を開けた。

 カーテン越しに眩い日差しを感じる。時計に目をやると、時刻はお昼の十二時に近くだった。

「少し寝過ぎたな……」

 まだうつろな目をこすりながら呟く。

 昨日は出雲で地域レベルの霊能試合に参加し、霊能省に戻ってその報告並びに霊戦士の会合にも出席した。普段から武術を通して体を鍛えているとはいえ、少し疲れが溜まっていたようだ。じんわりとした気だるさがまだ体に残っている。

「それ以外にも、昨日は色々あったな……」

 出雲を訪れた際に、三年前より恋焦がれていた白百合に会うことが出来た。再びその姿を見ることが出来ただけでも心が満たされるはずであった。まさか、互いに想い合う仲になれるなんて夢にも思わなかった。

 ――建さん、ずっとあなたのことを想っていました。

 しとやかな彼女の声が、耳から離れない。

 会いたい。心の底から渇望してしまう。

 もういっそのこと、奈良県から出雲に住まいを移してしまおうか。

 そうすれば、いつでも彼女に会いに行ける。病気で弱っている彼女の傍にいてあげることもできる。

 ――建……あたし、あなたのことが好きなの。

 ふいに、亜矢の顔が浮かんだ。

 すると、甘美な思考の流れは消え去り、頭の芯を締めつけられるような気持ちになる。

 彼女とは一年前からペアを組んでいた。初めて会った時から、彼女はきつい性格をしていた。

 気が強く、自分の主張を曲げない。有体に言えば頑固者だ。しかし、それでいて弓を射る姿には女性特有の柔らかさとしなやかさがあった。いや、どんな女性よりもその姿は女性らしさを持っていた。だから、そんな彼女がパートナーであることに誇りを持っていたし、信頼もしていた。彼女の方は普段から建を罵倒していたので、もしかしたら嫌われていると思い込んでいた。

 けれども、そんな彼女から告白をされた。にわかには信じ難いことであった。

 一瞬、彼女の気持ちを受け入れそうになった。ふいに見せたいじらしい姿に心を打たれてしまったからだ。

 だがしかし、それでも建は白百合を選んだ。亜矢に一瞬なびいた心も、すぐさま彼女に戻った。やはり、自分は白百合のことが好きなのだと改めて実感したのだ。

「……よし」

 建はおもむろにベッドから起き上がり、背伸びをした。

 少し外の空気を吸うために部屋を出た。

 玄関口までたどり着き外に出ると、心地良い清涼感を含んだ風が建の頬を撫でた。

 そのまま少し散歩でもしようかと足を踏み出した時、視界に一つの影が入ってきた。

「あ……」

と、声を漏らしたのは亜矢だった。

 霊戦士としての黒衣に身を包み、片手には弓矢を握っている。

 そんな彼女が、一瞬はっと目を見開きこちら見つめた。

「よ、よう」

 ぎこちない動きで、建は手を上げた。

 対する亜矢は、すっと目を伏せた。

「……うん」

「弓矢の練習でもするのか?」

「まあ、そんなとこかしら」

 どこか素っ気ない返事を受けて、建は苦笑した。

「そっか……まあ、がんばれよ」

 苦笑をうかべたまま、建はその場を去ろうとした。

「――ちょっと待って」

 ふいに、亜矢が呼び止めてきた。

「どうした?」

「その……」

 亜矢は少し俯き加減になって口を開く。

「昨日のことは忘れてちょうだい」

「え……?」

 建は思わず呆然とした。そのまま、亜矢は続ける。

「あたしとあなたは霊戦士のペア。つまらない私情を持ち込んで仕事に支障をきたす訳にはいかないわ。だから、昨日あたしが告白したことは忘れて」

 そう言った亜矢の表情には、彼女の強い意志がにじみ出ていた。

「……ごめんなさい、二人の間に私情を持ち込んだのはあたしの方なのに勝手を言って」

 また伏し目がちになって亜矢が言った。

 そんな彼女を見つめて、建はゆっくりと口を開いた。

「……それは出来ない」

 はっきりとした口調で建が言うと、亜矢はかっと目を見開いた。

「は? それはどういうこと?」

 そんな亜矢に対して、建は臆することなく口を開く。

「君は、勇気を出して俺に告白をしてくれたんだろ?」

「は、はあ? 何言って……」

「そんな君の気持ちを忘れることなんて出来ないよ」

 言いかけた亜矢の言葉を遮るように建は続けた。

 真っすぐ見つめると、亜矢は少したじろいでいた。

「何よ……せっかくあたしが気を遣ってあげたのに」

 そして、きっと鋭い視線を向けてきた。

 建は俯き、小さく吐息をこぼす。

「……そうだよな、こんなこと言って、俺って本当にバカだよな」

 そう言って、建はふと顔を上げた。

「けれども、やっぱりあの告白を忘れるなんて君に対して失礼な気がするんだ。それに、君みたいな素敵な女性から好意を抱かれたなんて誇りだと思うし、忘れたくはない。これって、俺のわがままなのかな……?」

 すると、亜矢の頬がにわかに赤く染まった。

「な、なな……何言ってんよあなたは……」

 そして、数歩後退り、くるりと踵を返した。

「お、おい。亜矢?」

 建の呼びかけを無視して、亜矢はすたすたと歩いて行った。

 だが、その途中でぴたりと立ち止まり、再びこちらに振り向いた。

「――あなたなんて最低の女たらしよ、バーカ!」

 腹の底からそう叫んで、亜矢は走り去ってしまった。

「……女たらしって、そんな訳ないだろうが」

 深いため息をつきながら、建は晴れ渡った空を見上げた。



 薄暗い闇の中で、白百合は床に伏していた。

 静かに瞳を閉じて、ひとり孤独を噛みしめていた。

 そんな彼女のまぶたには、先日訪れた彼の顔が浮かんでいた。

「……建さん」

 消え入りそうな声が白百合の口から漏れる。

 三年ぶりに会った建は、以前よりもずっとたくましく成長していた。鍛え抜かれた身体から溢れ出す気力に思わず見惚れてしまうほどに。

 そして、彼も三年ぶりに会った自分をよりきれいになったと言ってくれた。この上ないほどの喜びが湧いてきた。自分のように病弱な女のことなど眼中にも無いと思っていたから。

「また、会うことはできるでしょうか……?」

 彼はまた会いに来ると言ってくれた。その言葉は疑っていない。

 問題は自分自身だ。この体は、もしかしたら明日にも朽ち果ててしまうかもしれない。

 長い苦行の果てに、自分も母と同じように死んでしまうかもしれない。

 もし、その時には――

「……白百合入るぞ」

 ふいに響いた声によって意識が覚醒した。

 戸を開いて部屋に入って来たのは、父である隆康であった。

「そろそろ時間だ。来なさい」

 静かな声で隆康が告げると、白百合はゆっくりと身を起こした。

「……はい、お父様」

「着替えはしなくて良い。そのままの格好で来なさい」

 寝巻きである純白の着物姿のまま、白百合は父の後に付いて行く。

「……ごほっ、ごほっ」

 途中、白百合は咳きこんでしまう。肺が締めつけられるように呼吸が出来なくなった。

 その様子を見た隆康は、近くにいた仕え人の女に羽織を持ってこさせ、白百合に着せてやった。

「あまり体調は芳しくないのか?」

 白百合はようやく落ち着いた呼吸を整えて口を開く。

「……はい」

 そんな白百合を静かな目で見つめて、隆康は微笑した。

「お前はうちの大切な跡取り娘だ。居なくなられてはとても困るんだ」

 二人は出雲家の屋敷を出ると、手配させた車で出雲大社へと向かった。

 そして、その本殿へとやって来た。

 本殿の奥には荘厳な祭壇がある。出雲大社の祭神であるオオクニヌシ神を祭るためのものだ。

 それを見据えながら、隆康はぽつりと呟いた。

「……あなた様が何もしないのであれば、この私が出雲大社を繁栄させます」

 そんな隆康の背中を、白百合は不安げな表情で眺める。

 すると、隆康はゆっくりとこちらに振り向いた。

「さあ、白百合。もうすぐあの方がこちらにいらっしゃる。心して待ちましょう」

 隆康は優しい笑みを浮かべている。しかし、白百合の気持ちは晴れなかった。それどころか、不安な気持ちに拍車がかかるようだった。

 直後、本殿の天井に淡い光が溢れ出した。その光がやがて強い輝きを生み出す。その中央が裂けて、中から人影が現れた。否、それは人の形をしてはいるが、人よりも遥かに高位の存在である神だった。

「――出迎えご苦労だな、隆康よ」

 悠然と降臨した神に向かって、隆康はひざまずきながら深々と頭を下げた。

「滅相もございません。偉大なる神――タカミムスヒ様」

 隆康の言葉を受けて、タカミムスヒは鷹揚に頷く。

「近頃、出雲大社の様子はどうなっている?」

「はい、それはもう順調でございます。地域の者からは愛され、それ以外の地方からの訪問者も多々おります。これも全てタカミムスヒ様のご加護のおかげでございます」

「しかし、まだお主は満足しておらんのだろう?」

 白い髭を撫でながら、タカミムスヒは問いかける。

「おっしゃるとおりでございます。まだまだ、私の目指す高みには辿り着いておりません。ですから、これからもタカミムスヒ様には出雲大社により一層のお力添えをお願いしたいのです」

「良かろう……ただし、それ相応の対価は要求するがな」

 そう言って、タカミムスヒは視線を白百合に向けた。

「出雲大社の巫女、白百合よ。一月会わぬ間にまた一層美しくなったな。前よりも、さらに痩せこけたその姿は、とても儚い存在を思わせる」

 その言葉を受けて、白百合はあくまでも落ち着いた口調で答える。

「……お誉めに預かり光栄でございます」

「なに、礼には及ぶまい」

 タカミムスヒは浮遊したまま、ゆっくりと白百合の前にやって来た。

「しかしあれだな、隆康よ。神々が降臨するのは神社内で最も神格の高い本殿という風習がある故、私はここにやって来ているが……本来このような取引はまた別の場所でやった方が良いのかもしれんな。これからやる行為を、オオクニヌシに見られると色々不都合があるかもしれないしな」

 隆康は苦笑した。

「それは問題ないでしょう。なにせ、オオクニヌシ様はご隠居されている身ですから、何も干渉してきませんよ。それに、タカミムスヒ様ほどの方であれば口封じも容易いでしょう? 何せあなたは天津神の中でも特別な別天津神(ことあまつかみ)なのですから。下手をすれば、あのアマテラス様さえも陥落させることが可能な……」

「それ以上はやめておけ、隆康よ。さすがの私もかの太陽神を敵には回したくない……今のところはな。玉座を崩すには、まだまだ力を蓄える必要がある」

 タカミムスヒは不敵な笑みを浮かべて言った。

「いずれその時が来れば私は高天原の統治者となり、この出雲大社を祭祀の中心に据えてやろう。そのために、今は少しでも多く力を蓄える必要があるのだ」

「心得ております。そのために、うちの娘がいるのですから」

 隆康が微笑しながら言った。

 タカミムスヒは小さく頷き、改めて白百合に向き直った。

「待たせてしまったな……では、いつものようにお主を味あわせていただこうか」

 ゆっくりと、タカミムスヒの両手が伸びてくる。

 白百合はきゅっと目を瞑った。

 ――建さん……わたくしは、白百合は……

 おぞましい感覚に包まれる直前まで、白百合は心の中でそう叫んでいた。



 美しく洗練された神々の国である高天原から離れた場所、天上界の端っこには荒れた場所があった。高貴な神々が住まう高天原と違い、そこに居るのは荒れ狂う獣のような者達であった。

「おら、くたばれ!」

 ぼろぼろに破れた衣を纏った男の下位神――神々の中でも神格が低い存在――が、斧を振りかざし飛びかかる。その先には、甲冑を身に纏った一人の男がいた。

 振り下ろされた斧が甲冑の男の首をもがんと迫る。

 直後、甲冑の男は鋭く剣を抜き、斧を受け流すと、そのまま下位神を切り裂いた。

 派手に鮮血が飛び散ると同時に、下位神は霊力を失って存在が弾け飛んだ。

「この野郎、調子に乗るんじゃねえ!」

 甲冑の男の周りには、まだ数人の下位神がいた。各々が武器を持ち、甲冑の男を討ちとろうとしている。

 下位神が一斉に襲いかかってきた。振り下ろされる凶器が甲冑の男に殺到する。

 だが甲冑の男は慌てなかった。そして剣を強く握り締めると、先ほどのように攻撃を受け流すのではなく、力強く跳ね飛ばした。そうして丸腰になった下位神達を切り刻んだ。

「ぎゃああああぁぁ!」

 残った最後の下位神が断末魔を叫んで消えて行った。辺りは溢れ出した鮮血で真っ赤に染め上げられていた。

 甲冑の男は血のりがべったりとついた剣を下ろし、おもむろに顔を上げた。

「……くだらん」

 ここの空はどす黒い。息が詰まりそうだ。そして、いつまでも自分の心は晴れない。

「……父上、私はいつまで戦い続ければ良いのでしょうか」

 甲冑の男は今にも叫び出しそうな悲哀に満ちた声を漏らした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る